「求道心と菩提心」
父のお金というものに対する価値観は全く別物というか、信じられないたぐいのものだった。
父にとってただ一番大切なもの、価値のあるものは求道心と菩提心だった。ひと目でその心の奥を見透すことができピタリとその心にアピールする何ものかをひきだし認識させる能力をもった天才とでも言えるのかもしれないが、一目逢った人はどなたも魅了し、心ウキウキで元気を出して帰られた。
「お金を全部あげなさい」
散歩で父について、いつものように海岸近くに来ると、一人のおじいさんが屋台の傍で一服しながら、餅菓子を売っていた。平和な時代の平凡な幸福な寂けさがただよっていた。屋台には腰かけ台があった。父は「こんにちわ」と、おじいさんに声をかけながら坐った。私も一緒に腰をかけた。父はおじいさんの身の上話を聞いていた。孫が幾人とかいて、どうとか話していたが、私にとって面白くもないので、ぼんやりあたりを眺めていた。
すると父が「貴様(父は子供たちには誰にでもきさまと申しました)銭はもっているか」と聞く。「はいここに入っています」と言って例の鹿皮の袋の中から、いつものガマ口を出した。「そうか、じゃそのお金をおじいさんにあげなさい」と言う。「いくら出すのですか」と聞くと、のぞきもしないで「みんなじゃ」と父は言った。
私は母から「うちは貧乏だから、貧乏だから」と言われて倹約をモットーとして毎日を過ごしていたが、父のいうことは絶対命令なので仕方なく、中に入っていた札も銀貨も差し出しました。おじいさんはびっくり仰天して、それこそ眼を白黒させていた。父は「ではそのお菓子をみんな下さい。おじいさんこれでみんな売れたのですから早じまいにして帰りなさい。うちで一杯のんで下さい」と言った。
おじいさんは私に餅菓子を沢山つつんでくれたが、重くて重くてもちきれない。「お父ちゃん、こんなにどうするのですか」「みんなにあげたらいいだろう。貴様も食え」。ふと後ろを振り返ってみたら。おじいさんは手を合わせて拝んでくれていた。父は何事もなかったかのように、またステッキをついてかえった。私は両手で重い餅を抱えながら……。ちなみにその頃餅菓子一つが一銭だった。
「どうじゃ、うまいか」
私は何故か字をかくスピードが速かったので、父は口述速記をさせるのに重宝がってよく私をよびよせては口述させた。私も父の役にたつことをよろこんで、原稿用紙とペンをもつことはちっとも嫌ではなかった。それに、たまには父も私をねぎらってくれるつもりなのか、寒い日などは「今日は貴様に何かうまいものを食わしてやろう、とりそばはどうじゃ」といってごほうびをぶらさげて私をよろこばせることも忘れなかった。
母は家でたのむ職人用以外は店屋物をとることは御法度のように嫌がった。母にはすまないとは思いながら、私はうれしくてうれしくて寒風をついて、うどん屋へ注文に走った。関西では、そば屋とはいわないでうどん屋という。それに父のメニューはいつも夜食の代名詞のようにとりそばだった。私がふうふうおいしそうに食べるのを「どうじゃ、うまいか」といいながら、にこにこして食べ終わるのを待っていた。
「試験なんかどうでもいい」
父の呼び出しは夜といわず、夜半といわず、しかも待てしばしがなかった。大てい母が伝令に来た。「妙子さん、お父さんがまたお呼びだよ!」と気の毒そうに障子の向こうに立った。夜半に起こされるときもあるが、そんな時は父が自分で来た。「お父ちゃん、眠い」というと「人間は三時間寝ればそれで足りる。それ以上寝ることは酔生夢死で無駄な人生だ」とさとされ、なるほど私たち兄弟がいつもあつまって話すことは、父はいつ寝るかわからない。自分たちが眼をさますと本を読む声がする。大きい声でふしをつけて読むことが好きで、家中どこからともなく父の読書の声がきこえてくるのがなつかしいと話あった。
その日は一たんハイと答えたものの、明日の試験のために勉強していたので、「今日は駄目」といってしまった。すると「どうしてそんなことを言うか!」といって珍しく烈火の如く怒って声を荒げた。「だって明日試験なんだもの」と私は珍しく口答えした。「貴様の試験なんかどうでもいいんじゃ。父さんの原稿を書くことの方がどんなにか大事なんじゃ。それが貴様にわからんか!」と言ってその怒り方はかつてなかった。
常日頃、勉強などしたことがないので明日の試験をどうしようかと、とうとう泣きだした。すると父は「そんなことで泣くやつがあるか。人間一生のうちで泣いていいのは親が死んだときと……(泣いていたのであとの言葉をききかえすことができず、わからなかったが、もう一つ泣いていいときがあった)だけじゃ。貴様のその醜い泣き顔を鏡でみて来い。夜叉の面じゃ!」
母はオロオロととりなしてくれたが、一たび怒り出した父は、どうしてもペンをもたざるを得ない情況まで私をおいつめた。結局朝方二時頃やっと解放されて寝ることができたが、勉強する時間などあろうはずはない。女学校三年くらいのときだったろうか。
「心の底が見えてくる」
私の少女時代の心に残った父の言葉がある。女学校一、二年生といえば反抗期の最中だったが、今でいう部活の時間があった。放課後、日本間でじっと坐るというだけ一時間だった。坐禅というのでもなく、ただ眼を閉じてしずかに息をして、ひたすらに坐っていなさい、というのがその会の目的だから、何となく自分から選んだ時間ではあったけれども、私としてはおさまらない気持だった。何のやくにたつのだろうと。
私は家に帰って何故そんなことをしなければならないのかと、父に矛先をむけて聞いてみた。
父曰く「池に波がたっていると底がみえなかろう?波が静かになれば池の底が見えてくる。それと同じじゃ。心が波だっていると、自分の心の底が見えぬ。自分の心が静かになれば心の底が見えてくる」。
なるほどと納得した。さすがに上手に話してくれるものだと、その時もわが父ながら感心して尊敬しなおしたことが頭にいつまでも残っている。
「どうもわからんがのう」
父飯田欓隠の遺品の中に、リンゴ箱にいっぱいつまった手帳がいく箱かあるのを私は発見した。ちょうど5センチに10センチくらいの、暮れに銀行などのおまけにもらう手帳、昔はそれを買うのではなくて、母が機会あるごとに買い溜めた。父はちょっと散歩に出るときも、その手帳と万年筆を忘れなかった。万年筆については案外父の注文がむつかしく、太くて書きやすい金ペンの舶来を選んだ。これをみつけるのは兄の役目だった。何か面白いこと、新しく覚えることなどがあると、いつの間にか書きつけていた。
私は一度父にたずねたことがある。
「お父ちゃん、手帳にいっぱい何か書いてあるけれども、何処に何を書いておいたか、後からみてわかるの?」
「いや、どうもわからんがのう…」
といって涼しい顔で答えた。事実全くミミズのはったような字が綴ってあるだけで、我々も解読に苦しんだ。
〈小松妙子女史/大正元年生まれ。飯田欓隠老大師の三女〉
『禅画報 飯田欓隠 人と書』より抜粋