少林窟道場二世 春翁欓文老師 略年譜 (1885-1935)

明治十九年 (1歳)

一月十五日、鹿児島県揖宿郡喜入村の於いて、先孝経一翁の長男として生誕せらる。

明治四十二年 (24歳)

東洋協会專門学校(現拓殖大学)入学。

明治四十五年 (26歳)

卒業。この間、南天棒に参ず。

大正六年 (32歳)

欓隠老大師に初参、以来、正工夫、参禅弁道徹恨なり、老大師在京中、長谷寺、吉祥寺、中館邸等、師を追うて毎朝参禅、しかしてようやく淀橋精華高等女学校教師として教壇の道を急ぐ。

是の因み、電車の曲がり角に至るや、忽然として所知を忘じ、この一隻眼の入処より、老大師の信任するところとなる。弁道すこぶる度を加う。

数年の後、老大師の命をうけて多所の化に及ぶ途中、「シャチュウニテ、シュラケツヲダシタ、ホウオンタダナミダナリ」と忠海の勝運寺にて静養執筆中の老大師に打電し来たる。大成ここに於いてなる。(四世大智老尼より聞く)

昭和六年 (46歳)

老大師赤年の根本道場たる、少林窟道場、高槻の完成す。

昭和七年 (47歳)

老大師の志業、その緒において、はからずも病に冒され、師の命によりてここに、春翁欓文老師二世となりて、師に代わって各地に巡錫に及ぶこととなる、時八月なり。この年の暮れ、老大師より、「欓文を出家せしめよ」との命あり。

昭和八年 (48歳)

一月二日、西宮の病老大師の居室に於いて剃髮。真の仏子となる。

昭和九年 (49歳)

一月二日、諸般の俗事を排して入窟。

欓文老師入窟に就いて、老大師から、各地禅会幹事に発せられた入窟報告状。

謹んで各地禅会々員諸彦に白す

拝啓 新緑の候、高堂益御清適奉大賀候。陳者小衲、一昨春以来病床に身を横たえ親しく諸彦座下に相見ゆるの機会絶え居り候が大法を思うの情未だ嘗て休むときなく、当少林窟道場をして天下の模範道場たらしめ、一箇半箇世の涼蔭樹を打出し以て仏祖の命脈を絶えざらしめんとの誓願益す熾烈なり。

時なるかな、伊牟田欓文和尚、万難を排して小衲が病中の化を助けんことを誓い、昨春来時々大阪に下り、東西に奔走す。只涙なり、涙なり。春翁欓文和尚はつとに予が室に入りて霜辛雪苦ここに年あり、遂に箇事を窮明して証明を得、予が病中の提撕思うにまかせざるの心中を察し、家を顧みるの遑なく、大法の重きが故に遂に意を決して世俗の縁をたち、昨昭和八年一月二日予が病床に於いて得度をなし、続いて本年一月二日少林窟第二世としての法灯を嗣ぎて入窟式を挙げたり。小衲身は病床にありとはいえ、満身の大菩提心のもとに仏祖報恩底の一分なかるべからざるを期せるに易わりなしと雖も、而も春翁和尚の入窟の事ここに定まりて心自ら安んじ専ら静養することを得るの心他す。

諸彦座下、幸いにこれを諒とし大法のために一入の御尽力を給えかし。今や真風地に堕ちなんとす。時恰も国難なり。各地禅会は須らく四弘の大願輪に鞭ちて奮起せざるべからず。希は我が党の士、おのおのその人となりてよろしく負荷に任ぜられんことを。

至祷々々。

茲に春翁和尚入窟の御報告と共に、切に各地禅会会員諸彦座下に嘱望申上候次第なり。

   昭和九年六月

                     於病床 飯田 欓隠 謹白

剃髮来、化すこぶる多事となり、この年十一月、ついに病の人となる。入窟一年を経ずして

帰京、自宅療養に専念。

昭和十年 (50歳)

六月二十三日、午後十時四十分遷化、享年五十。

少林窟より老大師の弔電

 「汝等汝等皆当作仏 汝等汝等皆当作仏 汝等汝等皆当作仏」

                     合掌 西宮 飯田 欓隠

老大師曰く「少林窟二世欓文曰く、『仏法の滅ぶるは無字悉く意識の分際、何と出て来ても可惜去、可惜去。趙州を復活せしむるもの誰の責任ぞや』と。死に頻しての血滴々じゃ。あゝ誰か感奮せざらん。只涙じゃ。涙なくんば禅なし。誰かこの涙とならざらんや」と。

仏祖の全分を窮め、大業これからの時、慈師より先立つこと二年なり。

南無欓文真古仏