こころの自然 井上希道講演録

芸州からまいりました井上でございます。ただいまは京大学派を代表される先生方のお話を承りまして、妥協を許さない清水先生、また藤永先生、星野先生。私の弟子にも京大の物理を出て、長年レーザーの研究をしておりました彼が、髪がある時には世間で言う非常に秀才に見えたわけであります。剃髪をいたしましたら、平櫛田中の作品のごとく頭が歪んでいるんですね。ところが正面から見ますと哲人ガンジーの写真とよく似ているので、「おい、君はガンジーに似ているぞ」と吉徴のつもりで励ましましたら、「老師、何を言って居られるんですか。私は釈尊と似ているんです」と、自信とともに妥協のない言葉が返ってきました。清水先生、藤永先生、星野先生、剃髪をしたらきっと彼以上の異相をしておられるんではないでしょうか。京大学派に共通した自信力と、好むところに従って妥協のない研究をする学への厳しさの象徴として、頭骨の異相は怪物的要素かなと、只今思いました。


私、時々法話をするんでありますが、原稿を整えてまいりましても、一〇分の一も原稿通りにいったことがないという、お脳の出来があまり上等ではないようなんであります。それで聞いていただきたいこと、申し上げてみたいことが本当にたくさんあるわけでございますが、今日は若干の文字化をしてきたものを出来るだけ自分への試みとして、これに従って皆さんにお話しを申し上げてみたいと思っております。
今更私が申し上げるようなことではないんですが、地球という自然の中の生態系において、人間もやはり自然界の存在でしかないという事。ここに私達自身の根源があり重要な課題があるということを絶対自覚しなければならないんであります。文明の発達とは人間の都合を便利にするために取り敢えず物を作り出し続けてきた総合的様子でありましょう。


ちょっと余談に入るわけですが、文明の発達によって今日自然破壊が極限に近付いてきておることは周知の通りです。当初は生きるために命を擦り減らしていた苛酷な条件を克服する、そういう目的であったわけですが、その利便性と合理性は苦難克服をはるかに通り越して、忍耐我慢することや時間をかけて創意工夫努力すること等々を無用にしたばかりではなく、ついには虚栄と贅沢、即ち飽くなき欲望のままに求め続けることによって発達してきたのが今日の文明社会の有様であります。つまり文明とは、我々人間が文明自体を求め始めた瞬間から、自然を破壊することによって発達するという宿命的な関係にあったということです。将来は分りませんが、今日的文明は我々人間の空しい虚栄と欲望の象徴的な夢物語と言う訳です。象徴的な夢物語が我々人類の継続を破壊する寸前までになって、まさしく夢物語で終わろうとしています。如実に見ますれば、哀れと言うも甚だ愚かな事ではありませんか。
人類が存在危機に直面してきた今日、そのことは国境も国家の区別も越えておる一大事因縁であって、文字通り地球全体、人類全体で取り組み解決しなければならない事は当然であります。またそうでなければ解決できない規模であり、この事も充分分っていて、なかなかそれが出来ないのも人間の愚かしさであります。悪い事だと知っていても止められないし、良い事だと分っていても実行できないところに、我々人間は哀れな矛盾のある存在であります。その上人間はむしのいい生き物でして、一生を心身健全で不安なく、死という厳粛な最期を迎えるまで、人間の誇りを持って堂々と生活したい。それが本当に人間らしい姿であり自然な人生ではないか、そう思っております。大した事はしてなくても、そういう理想や願いを抱いております。願いや希望としましてはまことにご無理御尤もですが、極まりのない欲望実現に精根を費やしてきて、今日の地球危機の物質文明を形成した罪の報いは大きいものです。
社会にしろ教育にしろ、これからの地球を考えていく時に、最後の最後まで残される問題が人間そのものであり、この精神なんです。そしてこの精神を抜きにして文明も語れないし、政治や社会も語れないものです。
されば人間の中の何物が、一体かくなるまで文明を求め追求してきたのでしょうか。ここに問題の根源があるのです。人間の根源的な様子に適応させたものでない限り、バクテリア的増殖力は毒素である自我の方が遥かに強力なのです。それは私たちの精神には、苦痛や忍耐する事から逃れ、楽な方へ興味のある方へと向かう指向性が本来あるからです。また、他に劣ると恥かしいとか耐えられないとかの自尊心や、負けてなるものかという意地があるからであります。また、執着心や自己実現要求があるからであります。こうした精神行為は、働き方次第で善悪何れにもなるから、精神そのものの自由性がかえって災いになってしまうというものです。もっと根源的に言えば、生物共通の自己保存本能があり、自己絶対・他否定の生命力が元であります。自分だけでも生き残ろうとして他の存在を否定してしまう生命力そのままの恐ろしい闘争力等です。精神をこれらの下等な原始形で作用させてしまうと非人格性から害毒が流出し続けるのです。この毒素を自我とか欲望とか煩悩というのです。その人を衆生とも凡夫とも言って仏が哀れんでいるものです。

では精神そのものはいったいどのような過程で出来上がっていくのでしょうか。ここで精神が構築されていく様子を、ちょっと宗教家として申し上げてみましょう。精神の元は訓練されたり学習したりして後天的に獲得するものではありません。無限の時間と空間の因果流転の中で、遂に生命が誕生し、その環境に適応し続け、それを可能にしたものだけが生き延びながら更に環境への適応を求め続けてきました。多分最初の単体生命の出現には各所で色々な特性をもった無限に近い種類のものが生まれたのではないか。いや、何億年も生まれ続けたはずです。そのうちにやがて増殖というこれこそ発展の初期胎動が起り遺伝子が生まれ情報の伝達と生命の継承とが、生命分化を加速させたものと考えられます。私たち人間に於いても生き物としての種族保存本能はこの時からのもので、DNAそのものが、大脳自体に原始形で存在しています。記憶作用もこのDNAが、生命維持と環境対応を更に効率化していくうちにコントロールタワーとしての脳の出現に及んで発達したものでしょう。つまり、人間として生まれた者は皆大脳を持ち、過去世からの野獣性情報も人間に進展したものの下部に、痕跡として精神的DNAとして今尚遺伝しているものです。これを過去世の業「阿鼻の業」と言い無限の時間帯で蒔いてきた地獄の無限の苦しみの元を意味します。このDNA化するには気が遠くなるほどの時間がかかり、一旦出来てしまうとこれ又、性分となっていますのでその方が都合がいいのでこれが他に変化するまでとなると相当の時間がかかるわけです。従って後天的な獲得情報ですか、精神文化のようなものは親が如何に出来上がっていても、生命体の中に情報として残り、且つ遺伝子として伝わると言う事は千年や万年ではでき上がらない筈です。
とにかく今日の我々の大脳とは「阿鼻の業」でハードたるものです。人間として生まれたら皆このハードを具えているのです。これが精神の元であります。我々の言ういわゆるの精神とは機能して精神であります。ここでは機能する質的なものが問題にされているものでソフトに当たるものです。それはどの様にして形成されるのでしょうか。


生まれ落ちた時には、外界認識の対象を受け込む五感器がありながら、全然分化していませんから、精神機能は混沌とした状態です。ただ生命維持のために、生きるということのために泣くという行為で発露します。親は人類始まって営々たる中で培ってきた天然の叡知でもって、そうした赤ちゃんのちょっとした表情から何を要求しておるのかということを、逸早く察知して対応をしておるわけであります。これらも学習してのものではなく、遺伝子が形成され種の伝承が始ってからの命を守る情報として、人間のみならず総ての動物に備っている自然の智恵であります。ですから人間以外の動物も、出産と育児に就いての指導書なしでちゃんと育っているのです。これこそ自然であり彼等のその環境にもっとも適応した出産をし育児をしているのであります。人間の体には既に学ぶ必要のない本来の出産術を持ち、子供同士種の共同成長に於いて発達する様になっています。これが自然であり健全な成長なのです。生まれて六・七才までは精神機能のハードに当たるところの成長なので、余程慎重に自然さを壊さぬ生活が必要なのです。


とにかく自然さを壊さないように育てる事が如何に大切であるかを申上げたいのであります。その人間成長に関する自然とは何であるかを少しお話しします。
赤ちゃんは無防備であり如何なる条件に対しても策を持ち合せていません。けれどもれっきとした白紙のハードの大脳と感覚があって、生命維持に直接かかわりあうという、まことに厳しい状態で前意識が形成されていきます。潜在意識がこれであります。


即ち、この時に嫌なこと、辛いこと、苦しいこと、悲しい事等、そういう刺激の強いことをその赤ちゃんに与えていくとどうなるか。一方では本当に赤ちゃんに合せてちょっとした不自然な刺激も避けて、例えば食事にしても、お風呂にしても、本当に心地よく、赤ちゃんの一番要求する通りに与えたとしたら、その赤ちゃんの精神構築要素はどうなっていくか。ここのところを知っていただきたいのであります。ソフトの立ち上げの環境設定に当たる極めて大切な精神の根幹となるところですから、慎重でなければならないのです。乳ひとつ取り上げてみましても、本当に欲しい時に欲しいという生理的反応として要求表現をポッとした時に、親はすかさずサッとその子供に与え、そしてその子供が満足するだけ飲ませる。そのことが何を意味するかといいますと、赤ちゃんには必要以上の要求をする意思は確立していませんし、ましてや欺瞞も欲望もないのですから、この時に思いっきり飲んでやれというものも全くなく、本当に赤裸々で、そしてその時の要求緊張だけがおさまれば自動的に飲みません。量的にいきましてもその赤ちゃんにとっては最も適量であり一番健康的で、これが最も自然であるわけなんです。つまりちょうど良くなったところで要求緊張は消えますから、食欲である飲むという行為はストップするのです。


片や時間がきておらないからという人間の側の訳の分らない理由で与えなかったり、はたまた子供の存在を無視して出歩いておって、子供が非常に空腹を欲求しておるにもかかわらず放っておりますというと、要求緊張はどんどん高まってまいります。それから与えますと、堰を切ったように飲み込みますから、空気も大変たくさんに飲み込んでしまいます。そのことは後でゲップを吐いた時なぞに一緒に乳を吐くとか、非常に不快感のもとになってまいります。もっと大事なことは、適量に腹を満たしても、要求緊張が残っておりますから、更に飲むという行為が継続するということなんであります。これは必要以上に体内に取り込むということで、こういう不自然なことが生理的にし続けられますというと、子供は常に不安定不快感にさらされて、身構え無用な緊張をしなければならなくなるのです。やがて、飲める時に飲んでおこうという動物的要求心を体に培う事になるのです。無意識にそう反応する体になっていくのです。つまり原始形潜在意識となり、一生貧しい精神がどこかに宿り続けるのです。
ですからこうした命にかかわる要求緊張は極めてむごい事だという自覚と理解が必要なのです。これがどのような精神に繋がるかといいますと、天然のものに傷をつけてしまい、それが不平不満や皮肉れ恨みへの元になります。サッと与えられけた子供はそこになんらの不自然さがないので、いつも親を百点満点信じて、安心し伸び伸びと生活していますから、余分な刺激による精神行為を必要としないのです。この無心の状態、天地と融合をして自他のない、その清らかな透き通った五感器、これが本当の純粋な感性、あるいは情操の元になるわけです。これが赤ちゃんにとっての自然なのです。こうした豊かでそして始めから汚れのない、欺瞞のない、攻撃心であるとか不明な抵抗心であるとか、疑心暗鬼だとかというものを出来るだけ育てない心の上に、知性や理性、あるいは教養というものが働いた時にこそ、本当に役に立つ、生きた我々の叡知として輝くわけであります。
風呂ひとつにいたしましても本当に子供に抵抗のないように、不自然な、嫌な刺激のないように、本当に気持ち良く入れて、そして最高に気持ちの良い状態で出してやることが自然なのです。ほんのり額に汗しながら口をつぼみのように開けて、手をゆったりと開いて、本当に緊張感がない状態で、寝言のごとくアアとでも言うような状態で入浴させるようなことをずっと続けておりますというと、総ての関係を信じしっかりとした親子一元状態が確立します。警戒心もなく豊かな心で、その時その時を積極的に受け入れる広い心の窓口が出来ていくのです。赤ちゃんは五分くらいの入浴時間が適当なのです。刺激のない温度で不安感を与えないようにゆっくり入れて、安全に徐々に温度を四十三度まで上げ、先ほどの状態でゆっくり出してやるのです。それ以上いろんなことをしたりして局限状態を迎えないことです。
この反対に、赤ちゃんは泣くものだというような、大人の勝手な思い方で、赤ちゃんにとって熱かろうが空気が冷たかろうが、大人の乱暴な温度で決めたり、早い速度でパッと近づいたり脱がしたり、大きな声でわあわあと話し掛けたりしながら、赤ちゃんにとって早い速度でお風呂へ入れたり出したりしたら恐怖感で本能的にギュッと身構えるのは当然です。こういうことを日常生活で無神経にしますというと、そういう場に近付くともうそれだけで、潜在的に動物の本能的なもので防衛して構える心の姿勢にしてしまうのです。つまり動物としてのこの生命維持本能が非常に原始形のままに刺激され活用されますので、そのままが定着してしまうのです。そうしますと動物的な本能的なものは、非常に強烈に自己中心に働きかけるものですから、高い概念と結びつかず成長しにくいのです。また高い観念操作に及ばなければならないはずのものが、倫理観の低い本能原始形の自己中心的に働き、人格不全となってしまうのです。その子供の将来というものは外見的には何も変った様子もなく親は限りなく期待を掛け将来を夢見ているでしょうが、当の本人は何時も自信なく不安感があって、積極性を欠きいつも構えているので、精神が常に疲れの状態にあるのです。対人関係におきましても、本当に暖かい豊かな心で自他を超えた関係が持てない精神にしてしまうと、大変不幸なことであります。
文明というものは次世代へ何かを残そうという夢を含んでおるわけでありますから、その夢をどう伝達するかという次の精神を必要な方向づけにもっていく、これこそ精神の遺伝性、つまり教育であります。
これから地球をどうするかという、要するに破壊から守って行くわけですけども、その為にも教育ということは絶対に忘れてはならないし、むしろ教育に非常に比重を置かねばならないと思うんでありますが、とりわけ育てる時に初めから大自然の無限大の豊かな心、真っ白で欺瞞も攻撃心も何もない、そういう純粋無垢な自然な心をどれほど傷付けずに守って行くかという事から教育は出発しなければならないのであります。教育の基本理念を追求する場合、主体であります赤ちゃんや子供の本質を間違いなく徹底的に理解してからでないと、とんでもない間違いを犯してしまうのです。ここにおいて育てるという意味は、知識を詰込み知的訓練をする事ではないということをよくよく知っておかなければなりません。つつき回って傷だらけにしたものは、後天的に後からその上に積み上げる教育、知に向かって概念をたくさん詰め込んだとしましても、最終的には本人が潰れてしまうのです。
何故かと言いますと精神の成長がなく心の許容量が育たない上に、過去世の本能的なものが原始形で働くために、社会性に必要な倫理観が育ちにくいからであります。手遅れということになるのであります。従いましてちゃんと一人歩きが出来るようになるまでというのは、きっちりと正しい教育というのか、健全な親のそばで本当に豊かに育てていかないと、その知はもろ刃の剣で、非常に自己中心的に働いて他を毒するような、そういう方向にも働く危険性があるということであります。
白紙のハードの上へそうした毎日毎日の五感器からの刺激を通して書き込みをして、見聞覚知、即ち眼耳鼻舌身意が色声香味触法と分化確立して受ける機能が整います。そこで初めてハードとして機能するのです。その時そう感じ、そう受け取って書き込むのです。良質と粗悪とを決定するような大事な時です。もちろん過去世からの人間動物としての膨大な情報が、大脳はもとより全身の細胞に既に固定していますので、五感器からの刺激に反応する形で、その時そう感じ、そう受け取って書き込むために、その子の過去世の業が異なり、持って生まれた情報が違うために、同じ教育をしてもそれぞれの個性が出来上がっていくのです。ですからどんなに立派な先生による立派な教育がなされたとしても、本人の持っている容量以上には成りにくいし、或る部分を突出させるとしたら膨大な時間と努力を注ぎ、他の多くを犠牲にしなければならない面が出てくるのも、そうした持ち合せの特徴によるからです。只今までに発見されている精神の因子は九五か六かありまして、それらが出揃い整うまでは精神のハードの部分が完成していないと言う事になります。また、この因子の欠落度が増すに従い変り者から変人、そして或るラインを越すと社会人として問題があり、先天的精神症ということになるのです。精神医によれば、洋の東西を問わず〇.七%の変人を含んでの疾患者が存在しているのだそうです。
話が余談になりましたが、因子の出方もその赤ちゃんの大脳のDNAに従うので、皆個々ばらばらな発達をします。けれども精神のハードが整い始めると、己の確立が始り、一応話が出来るほどに概念が蓄積してきますと、観念操作が出来るようになり自分で新しい概念を構築し始めるのです。最初に出来上がって行く概念はどういうものかと申しますと、だいたいが反対概念から始るようです。それまでは刺激と反応、要求と反応というような形で進んでいくわけですが、両親からの習い覚えた言葉の意味するところを蓄積してまいりますというと、ついには初めて人間的な叫びとして瞬間に導きだす概念が反対概念です。「これ食べるかい」と言ったら「いや食べない」、「これもう要らないだろう」と言ったら「要る」、ひとつひとつ親の言うこと、周りの言うことに対して、反対してくるわけですね。本当にそうなのかと思っていると、事実とは関係なく知性の自己訓練の類のようです。自然発生ではありましても意識的に、人の反対の言葉を探しているのです。


古典的な教育学では、これを第一反抗期というように呼んでおるようでありますが、そういうふうな反抗とかいう捉え方は内容としては正しくないのです。実際にはようやく概念化する力、独自の観念操作が出来て、自分で自分の意見を持ちだしてくるところに達したのですから、親は喜ばにゃいかんわけです。これは反抗じゃなくてここまでになりましたという宣言ですから、たくさんに事象を増やしてどんどんと反対概念を明快に培いしっかりさせることが大切なのです。これが後々に健全な批判力のもとになっていくわけであります。躾を考えて、これでは反抗心が強くなるからというようなことで、制止をしたり方向転換をさせたりするような人的手段を講じるべきではないのです。自然に発生して自然に流れていく時の一断面的な様子に対しては、自然が解決するんだという、おおらかな気持ちでその子供を暖かく見守ってやることが自然なのです。これがその時の教育であろうかと思うんであります。


こうして反対という単純な概念であっても、そう思う気持ちには感情と同時に観念操作が当然必要ですから、それらが自由に出来るようになったということは初期自我の確立を意味しているのです。本格的な煩悩作りが始り仏から次第に遠くなっていく元が出来上がったと言う事でもある訳です。即ち主体を具え自分の価値観をもって好き嫌い等の人間的三次元的行動を起こして行くようになったのです。すると知的好奇心が際立って旺盛になり、これ何か、どうしてか、という知る事の快感を求めるのもここからです。分る事と分らない事とが分るようになってきたのです。この時にどんどん質問しどんどん答えてもらうことが知性を発達させる一番の元になるのです。知の面白味と満足感をしっかり味わさせてやるべく、次に疑問を起こし質問出来る材料を答の中にしっかり含んでおく事がポイントです。いろいろな理由も有りましょうが、早くから保育園や幼稚園へ入れてしまうと、親に付き回って朝から晩まで質問する様な訳にはいきませんから、親を通して学んでいくという心の疎通が不完全になってしまいます。それだけではなく早くからスケジュールで上から注ぎ込む教育をすると、どうしても与えられ勝ちになり、今それを知りたいのだ、やりたいのだが出来ないままに、そこに慣れてしまいそれだけ自発性が壊されていくのです。確かに知識は備り集団生活から多くの事を学習する事も確かです。ですが何がこの時の自然かというと、すぐに仲間の方がよくなり、親の監視や指示が窮屈に感じられ行動半径が日に日に拡大していく様になるのですが、その段階が健全に綺麗に躍動感をもって心に淀みなく自然の流れでそうなることが大切なのです。そしてそれがまた次への成長を円満に迎える事になるのですから。こうして育つ身心は、極めて流れがよく感性も情操も肉体も自然で輝いているのです。世界中で最も教育が進んでいると言われている日本が、教育が進めば進むほど駄目人間を作り出して社会を悪くしているというのは、本質的ではないし身心に無理があるからです。身心の健康を壊すような教育は地球から無くさなければいけません。そのためにも精神の成長過程をよく理解し、自然に添った教育でなければ不自然なのです。特殊教育はまた別ですが、人間として円満な人格を形成することは一番大切な事です。


こうした知の面白味を感じ始めると、空想が始まります。行動と観念とが分離していくのです。例えば廊下を歩くのでも、ようやく立って歩けるようになった時には、歩くということに全神経がいって一生懸命なんですが、歩くという行為が当り前になってまいりましたら、歩くという意識なしにパターンに任せておいて、他のことを考えながら他を向いてコテコテ歩いていくようになります。その時にドアが廊下へ開いていたり、予期せぬ所に物があったりすると、こうして歩けばいいんだという、単純な発想と決断で歩いていきますから、蹴つまづいたり、ドアにぶつかったり落ちたりするわけです。ここのところの内容をよくよく見ますというと、もう物事を概念化させてパターンで行為するようになっているのです。つまり純粋な行為自体であったものから、目的の為の手段として行為する段階に来たということです。心が人工的に思考の部分に移っていって、物との直接的な関係で直接的に判断をしながら行為するというんでなしに、頭の中だけで抽象化された目的に従って行為出来るようになったのです。


同時にその子供をよく観察しておりますというと、空想力が非常に働いておりますから、物語を勝手に仕組んでまいります。よく子供は嘘をつかないと言いますが、この空想が極度に知的興味として行われ始めた時というのは、言葉の真実性は最低の時です。それは現実と空想との境目が、第三者的に判断することが出来ませんから立たないのです。泣いて帰ると、親は「どうしたか」とか「殴られたのか」とたずねる。すると怖かったり悲しかったりしたから泣いて帰ったのですから、すぐその気になってしまう。「うん殴られた」「それは大変だ」ということになっていくのです。親が察知して誘導していきますというと、空想でどんどん進み、実際にはなかったことが次から次へ空想され子供の口から出ていくわけです。


つまりこの空想をしておる時に自然と親しんで、水でも、空でも、石でも、何でもかんでも直接的に触れさせると、最も人間的で身近で深くかかわって、自然の命を体で覚えるのです。これが豊かな情操の肥料になり、美しい感性から概念を、どんどん注ぎ込んでやることになるのです。都会の子供達は蛇口をひねった水で生活をしておりますから、水とはあれしか全然ないわけであります。あるいはプールの水か、喫茶店に入った時の水かぐらいだと思うんでありますが。本当の文化人というのはひとつのことに対して、より健全で高く豊かな概念をたくさん持ち、そしてそれを自由に美しい観念操作をすることで、心の奥行と広がりが培われ、潤いのある人格が形成された人のことです。その充実感が人生の味わいというものでありますから、幼いその時のちょうど空想が始まってから、一生懸命親と一緒に自然の中に入って、あらゆる事象に興味を抱かせ、そして手で取ってはすかしてみたり、匂いを嗅いでみたり、口に入れてみたり、特に水でしたら中へ入ってみたり、あるいは飲んでみたり、清流の美しさや音や優しさ、或いは自然の躍動感と無常感など、自然以外からでは与えられない、いろいろな触れ合い対話をすることによって、その子供は無限大に心がつながっていくのです。ですから精神因子が最高に調和がとれて最も健全な発達をしていくのであります。


この時に自然のない環境下で勉強ばっかりやって育った子供はどうなるのかと申しますと、これこそ危険で心の中に自然を宿していませんから、新鮮な感動で心が洗われ美しく弾力のある成長過程がありません。得になるかならないか、自分のことか人のことか、人のことだったらどうでもいいやと、こうなっちゃうわけです。流れも悪く躍動もなく、白けて実に不健康な精神生活をしているのです。ですから自信も誇りも信念も育ちにくいのです。とにかく自然と人間と深く溶け合って混沌としたところを、出来るだけ自然な状態を、長く長く持たせることが精神形成に極めて大切な土壌となるのであります。


突然お話の角度を変えますが、自己到達の窮めとして禅の修行があります。本来の自然に返る事により、そうした一切の不自然さから生じてくる心の陰りを根底的に浄化して本来の自由を得る修行です。本来の自然を失わせているものは、その物から始りその物で収らねばならないものが、概念の蓄積と観念操作をすることが身に付いた時からです。何故かと申しますと、その物を抜きにして空想物の観念の世界を本質的な存在であると思い込んだ架空の世界だからです。これを顛倒妄想と言うのです。観念で確信的価値付けしたもの、即ち自我という拘りを言うのです。この限りではいつも観念し続けていて、片時も静まらないのです。心が波立っていますから実際の本来が本来として見えないために、絶対確信が持てないのです。


本来の心に戻すためには、まず自分を徹底見つめ切らねばなりませんが、どうしても拡散して自分の一点上におさまりません。いかに教養がありましても、どんなに知識が豊かで、どんなにそのことがわかっておりましても、いざ自分の心を一点上に置くということをしてみますと、すぐわかりますように、これは一切の知識も教養ももちろん理性なんぞ全然きくもんじゃない。人間の心、一念の元を言うわけですが、人間の心というものは知性や、後天的に詰め込まれたような、概念とか考え方などで自由になるものではないということを、初めから承知をして教育というものを考えていかなければいけないのです。その一点の一心が把握できたらどうなるのかというと、それは見るところにちゃっと心がありますから、これはもう言葉以前の事実の世界です。見たら見たまま、聞いたら聞いたまま、と言うしかありません。見たまま、聞いたままがどうなるのかというと、馬鹿と言われたら、馬鹿と聞き、馬鹿で終わる力があるわけです。しかし幼少のころから概念操作ばかりをやって、キラキラした自然との関わりの中で育ってないと、どうしてもそのことが次の恨みとか妬みとか怒りとか、そういった恐ろしい感情を誘発します。馬鹿というたった一言から、自ら非常に大きな心の嵐に苦しむのです。それで修行の目的は、そういう根源を解決するのです。精神は瞬間に作用しているだけで、これを脱落というのですが、この瞬間の一点上にじっと置いて、その一点をも忘れきった消息が脱落であり無我であります。観念や概念の拘束を離れてその外に出た時の様子です。私達の心というものは、瞬時に生まれて瞬時に滅しておる解脱の世界に居るのですが、顛倒妄想のためにその自覚がないのです。瞬間瞬間に生滅していますので、全然ネチャッと連続していないんです。この心の様子を一回体得しますというと、後は紅炉上一点の雪と申しまして、真っ赤に焼けた炉の上に落ちた雪の様に、一瞬の出来事で終わって何の跡形もない綺麗な様子、喧嘩をしてもこっちを向いたら、パッと切れている。何事も災いにならない涅槃の働きとなるのです。


誰しも平和でありたいのですが、その源というのは、一人一人の心をこういうふうに解決をしていかない限りはあり得ないのです。なんとなれば自我という自己中心の価値観、自分の物差しというものをはずさない限り、利害も価値観も感情搦みで相反する訳ですから、根本的に平和に融合し得ないのです。六千年の、あの中東の得体の知れない戦いも、原因はそこにあり、一人一人が自分の心を解決して自然に目覚めれば、何も問題はおこらないのです。こだわるということは、自分の心の中に持ち込んだものを、捨てることをようしないからです。現実は、今見、今聞いているだけで、全部そうです。今思ってるだけなんです。後はなにもないのです。自然に滅して、空寂としておるんです。精神の根本は極めて空寂として、そして何の汚点も持ってないんです。心自体には欲望も何もない。それが縁に応じて好きに働いていく。その縁に応じていく時に、理想というものがあります。何々をしなければならない、したいというものが出て来る、これが自己中心の場合は、欲望という形になってまいりますけれども、そうではない、自己が脱落しますと、何々をしたいというものは、これは全人類的な光になって作用しているのです。まさに宗教的に言葉を使いますれば、煩悩がそのまま菩提であるということなんです。菩薩の働きなのです。


皆さん今、眼をお持ちで、そして耳をお持ちですが、本当に自然そのものを見てないんです。「何をぬかすか」と言われるかもしれませんが、本当なんです。常に観念が邪魔をしているからです。この癖がとれますと心がチラチラしません。その時に初めてありのままが見えるのです。そのままが見えた美しさ、自然の不思議さというもの、生きた生命体の躍動感というものは、自分に於いて存在している瞬間々々の体験感であり絶対確信そのものなのです。民族だとか価値観だとかの違いがどうのというような小さな境界ではないのです。
それが子供の時というのは、いきなりそこにあるということです。なんとなれば境がない自他不二の一元の世界ですから、即それです。それで出来るだけ子供には自然界が必要で、変な刺激を与えないように、変な観念操作をさせないように、自然の混沌を大切にしていくことが教育の中心でなければなりません。これだけをやっておれば、肝心要の事はキチッと出来ていきます。後の科学的なものや知識などは、時の状態に応じて教育すればいいのであります。知的興味を起こしたら子供は自然に、詰め込まなくてもどんどん求めて行くという存在であります。逆に言うと、嫌なことから逃れよう逃れようという感性自体がそういう指向性を持っておりますから、やはり理屈ばっかりじゃなくて、本当に人間まるごと教育とは何ぞや、どうすべきかということを、このレベル、こういう本質的要素をもう一度洗い直して見ましょう。そして本当の自然というものに親しませて、出来るだけ天然な心を培養保護が出来得るような家庭環境、学校環境、社会環境にする必要があるのではないか。こういうことが私の終始提言するところであります。


最後にはやはり私達一人一人が、心豊かに、そして人間の誇りを失わずに、堂々と生きるということが目的でありますから、自然の中の偉大さ、自然の摩訶不思議さ、そして運命も含めて人間よりもはるかにはるかに大きな無限な存在であるという実感。そこには慎みやらざんげやらが自然に育まれ、それらを通して死という恐怖に対しても安らかに向かい合う覚悟ができるのです。


医学の先生方とお話しをしますと、あるいは聞かせていただきますというと、肉体と生命という限りでしか生命を見ていないのです。生命は遠大であり、厳粛なことです。その生死をどういうふうに意識しておるかという、これが今生きている価値を非常に左右していくものであります。我々の世界で申しましたら、死を死とも思ってないわけです。今あることに総てを見ているのです。そして死というもの、それもいいだろうと。我々自身の価値観というものが、自分の、自己中心の尺度で出発している時には必ず肉体があります。この肉体を超えるということが悟るということなんです。超えるということはどういうことかと言うと、見る時には満身見る力、成り切る力です。聞く時には満身聞く力、成り切る力ですね。この時に相手と一体になっています。自他一如とか入我我入とか言います。我とするもの、自己とするもの、これが俺だという、そういう自己中心がないわけですから、目一杯生きているわけです。目一杯生きておるということは、実であるということ。実であるという時には、死という因縁が襲ってきても、それ自体も実でありますから、不安なく堂々としておれるわけです。
これからいろんな角度から人間をまるごと究明していかなければならないでしょうけども、この生きるとか死ぬとかいうことが、我々人間にとって最後の課題であり、どうしても解決つけないと不安からは救われないのです。ここにあらゆる問題を追求しながら直接的に拘わる私達の精神、精神抜きにして人生はないのですから、地球の問題も語れないわけです。精神を一番健全な状態にしてこそ、光明となり菩提として機能するのです。その根源は何であるかということを、哲学的に追求するのでなく、悩みつつあるその時に、この根源は何かということを自内省していくのです。自分のこの元はいったい何なのだ。誰がこうさせておるのか。何者が苦しんでおるのか、何者が悩んでおるのかということを、自分に向かっていつも問い続け、追求し続けていかないというと、机の上で文字面でこうやっていても、全然実態に触れていくことは出来ません。不安と欲望の元に向かって、存在自体を問題にして自己確立を求めるならば、けっして自然破戒や民族紛争の様な修羅場は生まれないのです。
最後は存在の根本である意識改革をもたらせない限り、どんなに高邁な提言をし、論理を尽くしてみても、ただそれで終わる可能性があります。一人一人が欲望を根源にして、利便性と合理性を求め、それが毎日の生活のリズムになっておるのですから、それを越えることは、よほど根源的に新しい高い価値観に到達する以外にはないわけであります。


この京都フォーラムが目指す、本当の幸福な社会、健全な地球づくりのために、この精神の問題を、もっと重大視していただきたいなと思っております。起こったことの、客体化されたものは、これはもう更に更に科学技術を発達させて解消していく以外にはないわけでありますが、根源的には作らないようにする、原因を作らないようにする。それは次世代にそういう希望を託す、それはやはり教育であり精神のルネッサンスしかないと思うのであります。その為にも身近な所には出来るだけ自然を自然のままにあらしめて、私達の生活のこのちゃんとしたグラウンドにしておかねばならないと思うんであります。
やはり今日も原稿のまま、とてもいきませんでした。私の言葉の矛盾だらけのところは、どうぞよろしければ私の方の門を叩いていただければ、また別の違った形でご納得いただけるんじゃないかなと、かように思います。どうも失礼をいたしました。

                     一九九一・七・二七  国立京都国際会議場にて

井上希道講演録
                 こころの自然

                   平成四年一月一〇日 印刷発行
                   著 者  井上希道
                   発行所  少林窟道場