心の決着 釈尊と悟り

井上希道

人間は誰でも不安なく、常に安らかにありたいと願っているし、人間としての誇りと揺るぎない自信を持って生きたいと思っている。又、自分を徹底信じたいし、人に対してもまたそうである。決心したことはどこまでも貫ける自分でありたいと願い、動じない人間でありたいと思っている。そうすれば判断も公平且つ高次に働くはずである。
 人間としての基本は、自分で考え、自分で判断し決断する。そして自分の意志で行動し、自分でその責任を取ることにある。これは健全な社会を形成し、互いに信頼し合うための人格の基礎である。ところが、人間の特性である精神機能は、豊な知性と豊な感性を持ち合せているが、それらに捉われている間は迷い苦しむことになる。想像力は欲望を極限まで増幅させ、様々に想像しイメージして感情を多彩に誘発する。そのために、しばしば自分の心に翻弄される、極めて不安定な存在だと言うことである。時には自分を呪いたくなるほど低次化したりするのだが、総ては自己自身が彩なす心の問題であり、自分の世界の姿である。
 我々は最後の厳粛な死を迎えるまで、少なくても人間らしい誇りと自信と安らぎを持たなければ、本当に意義ある人生ではない。それ以上に、自由で洒々落々の境涯を得ることである。真の自己を確立し自由を得ることは、人間としての悲願であり理想である。さすれば、自分の知性や感情に翻弄されることもなく、常に安定した人生を送ることが出来るのだ。問題は心そのものである。
 多彩に且つ複雑に作用する我々の精神とはどのような存在であり、どのようなプロセスを経て形成するのであろうか。と言う切実な疑問が湧いてくるはずである。
 これは人間の本質的な課題であり、これを解決すれば一切が明確になる。上述の如く成るために、「心の癖」を如何にして解決するかという命題と一致する。心を根元的に決着を付けるためには、ではどのようにすればよいのであろうか。
 話を少し昔に戻す。

仏法現前

心を決定的に解決つける事が出来るようになったのは、総て釈尊から始まる。その一粒種の迦葉尊者によって、釈尊の内容が総て以心伝心、冷暖自知によって伝えられたのだ。従って祖師の始まりは釈尊の一大事因縁を最初に伝えた迦葉尊者と言うことになる。
 その劇的瞬間の様子を見たように語ると、釈尊はよく霊鷲山と言う小高い山の上で説法されていた。そこは風光明媚で霊性が豊かにあった所に違いない。いつものように、十大弟子を初め雲の如く修行者が集まった。その日釈尊は、兼ねてより跡継ぎをはっきりさせておきたいと法を思う気持ちがあったので、いつもと違って身代明け渡しの説法を始めたのだ。一本の華(金波羅華という蓮の一種とかや)を手にし、やおらかざした。模様を語れば光学的にはこうなる。現象を越えた見えない心の上から言うと、釈尊は満身華になっていたのだ。「隔たり・即ち自己」が無ければ、それがそれだ。その他に何物もない。釈尊も無い。そのことが明晰に体得できていれば、「それはそうだ」と合点しなければならない道理がある。 皆それが何の事やらさっぱり分からなかった。「あれは一体何んだろうか?」と疑義する人たちばかりだったと言うことだ。今も昔も同じことらしい。
 ところがそんな師匠の腹の内をすっかり見透かした偉い奴が居たのだ。迦葉尊者一人、総てを了得して破顔微笑した。釈尊それを見て取って曰く、「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教外別伝有り。摩訶迦葉に付属す」と。

 釈尊によって一体何が興ったのであろうか。偉大な何かを発見されたのであろうか。正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教外別伝とは何であろうか。何を伝えたかったのであろうか。華をかざして何を示されたのであろうか。迦葉一人何が分かったのだろうか。迦葉は何故微笑しのだろうか。何故皆に分からなかったのであろうか。
 これがあの有名な「拈華微笑」であり、この時、地上に初めて祖師が誕生したのである。即ち、仏法(釈尊の内容)が生きた人によって、言葉ではなく、心を心で伝えるという、祖師が祖師を証明することによって、転々と相続されてきたのである。故に、「隔たり」を解決した人は総て祖師である。他は皆説かれた言葉を伝えていく世界である。
 禅宗が質を全く異にしているのは、そもそも出発からして、この様に根本的に違っているからなのだ。
 道元禅師曰く、「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏これ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん」と。

 凡そ二千五百年の昔に起こったこの一大事件が単伝の始まりであり、同時に釈尊の真意を伝える法が確立した。体験実証に依る内的客観性を師匠が証明するのである。その心印である内的客観性の体得を命としたものが禅であり、その始まりとなったのある。故にこれを一大事因縁と言う。釈尊の全分を生のまま、そっくりそのまま伝えるがために、禅を仏法の総府と言い、この釈尊の心を大乗の法と言う。一方、釈尊の言葉や象徴的な行為などを記述したものは、やがてそれは形式と経文読解の方向へと変化し、色々な戒律的教団を育んでいった。言葉の記録は知性の世界に於いて、哲学的思想的なものとなり学問化、芸術化され、仏教文化の華を咲かせることになる。これらは「隔たり」をとり自己を解決つけるには限界を伴ってくる故に、小乗の法門というのだ。
 大乗精神は釈尊より始まり、インドでは二七代を最後に衰滅した。が、大法は辛くも嫡々相承二八代の祖、達磨大師によって支那へ渡っていた。そして支那六代以降に多くの祖師を輩出し、禅の黄金時代を迎えたのである。禅は支那に於いて思想や学問そして政治などに多大の影響を及ぼしたのであるが、凡そ五百年間栄えた末衰退した。釈尊の心印は今より七百七十年前より、多くの祖師によって日本へ伝えられた。やがて支那では生きた大乗の法は断絶したのである。
 仏法が次第に東へ移ったので、これを仏法東漸と言う。そして今日、仏の教えは全世界に敷衍しようとしている。人類の存亡が叫ばれるとき、正に大乗の法門が本当に生かされて、人類の健全な継続が望まれるのである。

 第一祖の誕生より始まった謎めいた命題が、言語を離れた消息として、仏法と言う宝探しの始まりとなったのである。そして謎めいた命題は仏法を体得する上での関門と成り、各祖師方が使われた多くの言動が、中国において「公案(公開問題)」と言う形に確立されていった。この方法を主体にした禅修行を公案禅と言うのである。蓋し、学人引導と点検のための方法であって、各祖師方はみんな使った極めて日常的な事柄なのである。公案は中国に渡って生まれたというものでは決してないし、只管打坐を標榜する曹洞禅では使わない、と言う特殊なことがらではない。公案、何をか為す。只管打坐、何をか為さざる。
 いずれも手段であり方法に過ぎない。即ち、師家が学人のその人の様子に合わせて使った、「隔たり」の解決対応に他ならない。その時の言葉や行為が尋常では計り難いが故に、公開問題として歴史に位置付けられたのである。そうした事柄を修行の助けとして参考にせよと、集大成されたものがあの碧巌録・無門関・従容録等々である。加えて一切の祖録がそれである。祖師の結晶であり涙である。釈尊の心であり血である。誰か是を用ちいざらんや。
 道元禅師の、いわゆる「釈迦牟尼仏これ即心是仏なり・・・、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし」と言われた命題は、極めてすっきりとした公案なのである。正に釈尊の心であり仏法であり、これを明らかにするための只管打坐であり修行なのだ。
 東漸し本朝に至って既に七百有七十年を経たり。古道を慕う者無きは仏法滅亡の兆ならんか。恐るべし、悲しむべし。

釈尊は何を伝えたか?

釈尊はカビラ城の王子に生を受けながら、享楽を享受するどころか、知性の成長拡大にしたがって日増しに疑問煩悶を駆り立てていった。生来既に自己の内へと思考が向かうところまで縁が熟していたのだ。普通は興味の赴くところ、楽しく面白い事柄へと、外部に向かうものである。それは見聞覚知の外部刺激に対して、たちどころに誘発させられるからである。釈尊は生まれながらにして、既に外縁に誘発させられる段階を越えていたのである。つまり、外縁に反応する瞬間の質が、個人的興味などと言ったものではなかったのだ。その存在理由や因縁のよって起こるいちゝゝの事柄が、彼には問題として映っていたからである。世に言われている生老病死の四苦がそれである。美しい舞姫が笑顔一杯で楽しげに踊る。彼にとってその様子は「あの様な事をしていて何に成るんだろうか? 一日は忽ち過ぎ去るというのに・・ 私を楽しませる? とんでもない、楽しいどころか、その様なものを見れば余計に、見て時を失う空しさも加わって苦しくなるばかりなのに・・」。春の花を見るに付けても、「今はあの様に美しいが、忽ち朽ち果ててみっともない姿に成るというのに・・・、人は何故花を見たぐらいで浮き浮きとし、更にあの様な宴とか言う虚飾までして自分を誤魔化して生きているのだろうか・・・?」
 彼には国一番の美しい奥方が居て、ラゴラと言う一人の子供もあった。それとて、「人は運命的発生的に生まれてくる。若い間は美しくはつらつとしているが、どうしてか病にも成り、老いさらばえて死んでいくのだ。両親も私の妻も子供も、そして自分も。一体この厳しい現実の掟はどうなっているのだろう?」。こうした彼の煩悶は、学問的・哲学的に追求すればするほど分からなくなり苦しんでいったのである。
 即ち、動物人間としての感応作用に翻弄され楽しむという世界は終わっていたのだ。斯くして釈尊を「裟婆往来八千遍の人」と言う。人世を八千遍も繰り返してくると、どんなに楽しいことをしてみても畢竟歓楽極まって哀情多しで、総て無意味なことばかりだと言うことに帰結してしまっていたのである。現象世界のあらゆる事柄は究極的には総て滅び尽くして空しく無くなるという真相を、経験を通して理念的哲学的に知り尽くしていたと言うことなのだ。
 知性によるそうした深い理解と形而上学的疑問、それに加えて無常観や悲壮観や虚無感といった感性が働けば、或る方向へ意志決定する以外には道はない。
 人間的には裟婆往来八千遍の間に総てが洗練されていた筈である。人情に於いても責任感や愛情面に於いても、勿論知力に於いてもである。家族の悲しみやすがるような願いなどが分からない彼ではない。それ以上に彼をとらえて離さなかったものが有ったのだ。その時、既に個としての存在を超越し、絶対観に達していた。それが彼をして釈尊たらしめる宇宙的大疑団だったのである。
 従って彼にとっては、国王という裟婆の立場も、城や一切の財産も、家庭も家族も、この全人類的根元の大疑団に対しては、只空しい関係でしかなかった。ここに彼の苦しみは極限を迎え、遂に一切の裟婆的関係を裁ち切り、城を投げ捨ててしまう運命を迎えたのである。歳十九と言う多感なりし時なりと。(異説には二十九とか。当時の二十九は既に中年なり。諸事情から見て疑わし)

 同志六名と共に決死の覚悟は言うまでもなく、一大事命題解決のために出城す。彼岸を目指してなり。菩提心とは、げに菩提心とはこれが標本なり。是を遮るもの、何物か有る! この菩提心こそ釈尊、否祖師の命なりと知れ!
 今を去る遠く二千五百前なりと言えども、時は何時も時なり。思えば断腸の極みなり。我れ是を思う度に、限りなき尊さに涙して止まず。抱道の士よ。この高恩を深く思え! 稽首臆不能 南無大恩教主釈迦牟尼仏。

 直ちに著名なる仙人の許に身を投じ、寝食を忘れてあらゆる苦痛に望む。肉体を極限に晒して耐え続けるならば、胸中の大疑団が解決するであろうと言う教えであった。試練を積めども心的作用は一向に行き止まりがない。あったら大変である。痛みなどを堪えている限り、疑団の出る余地は無いが、止めると忽ち現れてくる。出城以来の煩悶苦痛はそのままであった。聡明な頭脳は、結果が現れないその苦行に限界を見たのだ。思えらく、「学べども我に益無し」と。難行苦行すること凡そ五年。肉体鍛錬と精神問題の解決とは無関係であると言うことを、彼自身の内で結論付けたのである。
 そうした修行中の姿は単純化した直線的行為故に、迷い無く見えるし清々しい。しかし、その条件から退くと、以前のままの精神構造故に、根元的には一向に解決されたものはなかった。個としての意識が始まると、大きな因縁でなくても忽ち乱れてしまうのだ。その修行は一体何だったのか、と言う否定のための疑問が起こる。当然ではないか。人一倍熱心であった彼は、潜在体力も消耗し尽くしていたのである。
 仙人の許を辞して人里まで出た。霜辛雪苦、痩身危なりだ。遂に路傍に倒る。と乳搾りの娘が通りかかり、乳を供養す。くしき因縁であった。思わず供養の乳を恭しく口にした途端、彼は、「この気持ちは一体どうしたことだ!」と自分の心の様子に驚いたのだ。頂いた乳の美味しかったことと、嬉しさ・感動・感謝の心が湧き、それが何とも言えなかったからである。その時、大疑団に苦しみ続けていた心が一瞬切れて、嘗て感じたことがない、ふくよかで心地よい、その心を見逃さなかったのだ。苦しい修行中には無かったことであり、彼の人生に於いて味わったことのない別世界に初めて触れたのだった。
「しかし、あの様な清々しくて心地よい心はどこから起こってくるのだ? 自分とは一体何なのだ? 以前より苦るしんで来た問題は、どうすれば解決が付けられるのだろうか?」
 彼はここで心の不可思議な作用に気が付き、「自分を苦しめたり、喜ばせたりするこの得体の知れない心とは、一体どんな存在なのだろうか? もしかすると、自分が死ぬ思いで取り組んでいる疑問も、心そのものの問題ではないだろうか?」と言う疑問に集約されてきた。これが心の追求としての禅の始まりとなったのである。
 漠とした今までの修行とは異なり、瞬間に現れては消え、心を騒がせてはそれが拡大していく。その作用を思うと、心自体に無限の深さと力を感じて、そこへ着眼が絞られてきたのだ。それは体を鍛練することにより精神を鍛えるという、従来の修行では解決されるものではない、と言う決定的な反省でもあったのだ。

 河で身を清め心を新たにし、威儀を整えて樹下石上に座した。自らに模様する心は取り留めも無く際限も無い。思念思惑は朝から晩まで続く。思いはありとあらゆる場面を想像しイメージし続け、而も激しく感情を揺さぶる。そして色々な感情が出てきて、そして苦しみと言った心になったりする。何も為すことなく静かにすればするほど、念想観の独壇場に如何ともすることが出来ないのだ。
 こうして何日も自分の心のうつろぎに埋没していた。やがて、
「こうした精神現象は何時、何処から、何によって起こってくるのであろうか?」と、瞬時に出没する心自体に、完全に注意が向けられたのである。全く方法論のない状態で、自分の心を極めるということは、釈尊が如何に理性に富んでいたかと言うことである。それは自分に模様してくるあらゆる心の姿を集約し演繹し、科学的に論理的に推敲を尽くしきったかと言うことなのである。行き着いたところの結論は、
「外からもたらせると言うものではなく、自己の内に於いて現れて、そして消えてしまうものだ。一体何処から? そして何処へ? その根元を極める以外には自分の大疑団を解決する道はない。そしてそれは一瞬の世界から起こってくる。それは総ての心が始まる以前の世界に違いない。と言うことは、そこから総てが始まるのではないだろうか? 苦しみが始まる本が分かれば、それが終わる世界もはっきりするはずだ!」と。
 この方向性は正しかったのだ。
「では、どのようにすれば掴み所のない、一瞬と言う心の世界を明らかにすることが出きるのだろうか?」
 ここまでは突き詰めたが、流石の釈尊もそれ以上は如何とも出来なかった。と言うのは、一瞬とは意識以前の世界であり、知性で認知した時は、既に時がずれていて或る形になって現れた跡形を捕らえてのことである。即ち、知性では届かない虚空の絶対時間、つまりゼロ時間とゼロ空間であり、畢竟一切の存在を越えた世界だからである。認知する作用自体が、ゼロ時間・ゼロ空間の絶対世界を相対化し抽象化し変質してしまっているために、永遠に届かなくなるからである。彼はここまで道理として極めていた。自分を被実験者として、模様される作用を徹底観察し、知性の限りを尽くしていたのである。
 だが、認知する知的作用が「隔たり」となり、迷いを生む元であると言うことなど分かろう筈もない。したがって「それを捨てればよい」と言う決定的方法が分かり得なかったのは当然である。
 しかし、「全く手の着かない一瞬の世界が心である」と言うところまで達した頃には、あの激しく責め立て苦しめていた、大疑団から起こる激しい感情作用は収まっていた。それだけ問題の焦点が見え始め、深く論究する知的探求心から、深い冷静さを得ていたのである。
 そして大疑団が彼をじっとさせていなかった心的軋轢は、こうして抽象的な論を尽くしきった後、自分の上に模様される見聞覚知との関係に問題が及んでいった。当然である。
 見聞覚知は現実的な現象世界であり、その感覚刺激から限りなく思惑が登場する心的事実にたいし、天才を具備した彼が問題にしないはずはなかった。
 見聞覚知は事実であり現象作用である。げに、彼が大悟した後に、舎利子に説いた「摩訶般若波羅蜜多心経」の「眼耳鼻舌身意」が「色声香味触法」として作用するというそれである。感覚機能は体と共に安定的に存在するが、色声香味触法の作用は瞬間的存在でしかない。目を開ければ光学的に総てそれがその様にある。閉じれば一切が消滅する。事実として眼には何も無い。別の方向に向けて目を開けば、そこには別の世界が瞬時にして出現する。色声香味触法の作用総てが、瞬時の完成した存在で、しかも完全に消滅して無くなっていく。この様に、有って無いという因縁の限りの瞬間的現象に過ぎないと言う事実を、体験的に容易に理解し解決していたはずなのだ。彼が如何に事実である現象と精神との関わりを深く追求したかと言うことが分かる。そして後に、決定的にそれを確証したとき、総て自然の作用であり、それがそのまま独立した完成された世界だと知った、その超越を「無」で表したのだ。

 ここまで明確化した彼は、或る重大なポイントを発見することになる。それは、眼耳鼻舌身意は色声香味触法として作用し、感覚刺激として現象化するが、その機能と作用とが一体であり現実であり、知性的観念的な想念世界以前の、純粋な事実だけの世界であると言う厳密な発見である。熱いか冷たいかは触れた瞬間に分かる。つまり、分別のような知性的なものは一切必要がない端的極まる世界であると言う気付きであった。それがそれだということである。彼がここまで到達するのにどれ程の時間が経過したかは定かではない。暗中模索の中で、推敲論考と事実観察との繰り返しには可成りの時間を要したと思われる。

 この大事な発見は、次の結論に達して、彼をいよいよ端的な実践修行に走らせるのである。即ち、目に執われ、耳に囚われて心に問題が生じると言うことは、瞬間の事実の世界と、認知し思惑する知性の世界との境がはっきりしていないからだと。ここにきて行き詰まったままになっていた問題点が判明したのだ。
「事実でないものがあるか? あったら出して見よ!」と自問自答する。
「無い。無いものは出しようがない。右を向いても左を向いても皆事実ではないか。聞いても触ってもだ」
「しかも事実は総て瞬間、今の存在でしかないぞ」
「だとしたら、瞬間の事実には、観念的な言葉や理屈や想像的なものは存在していないのが本当ではないか。寧ろそれらは不純物であり、介入してはならないと言うことではないのか!」
「この瞬間の純粋な世界が確立すれば、心はそれに則して作用する筈である。何となれば、事実とは今の瞬間であり、心も瞬間の作用でしかないから」
「そうすれば眼耳鼻舌身意の刺激に対して、本能的衝動的に反応する、いわゆる支配的連鎖関係から解放されるはずである。何となれば、眼耳鼻舌身意は瞬間に色声香味触法と現成して終わっているからだ!」
「総て一瞬、一瞬の世界であり、当然それは独立し切れている裏付けだろう。ただ、連続する何かの要因が有って、それが自分を苦しめているに違いない!」
「それは心が本当に完成した瞬間ではないからであろう?」
「とすれば、その何かの要因も、本当の純粋な心ではないと言うことだ。完成し終わっている本当の瞬間世界を知らないから起こる仮想存在では無いのか?」
「完成した本当の瞬間世界が、つまり永遠世界と言うことなのか!」
「では瞬間とは何だ?」
「総ての存在その物だ。感覚作用もそうだ」
「しかし、それを認めたら観念の作為が介入し、純粋な世界は失われてしまうから分からなくなるだろう」
「存在を見失ってはならない、かと言って認めてはいけない」
「そうか! ここが本来の瞬間、純粋な世界なのだ!」
「そうすると、とにかくすぐ見失う癖を陶冶しなければ、瞬間の把握は出来ないぞ」
「その見失う癖とは、瞬間に出る諸々の思惑のことだ。これを早く発見し、速やかに捨てたとしたどうなるのだ?」
「捨て尽くすと瞬間の世界が明確になる筈だ! 何となれば、そこにあるものは事実しかない。他に何物もない世界だから」
「今、自分がこの瞬間、この様に考えていることも事実だが、事実と認知した時、その事実も瞬間も既に無い」
「と言うことは、事実を認知するその精神作用自体が邪魔をしているのだ!」
「そうか、「知る」と言う精神行為をも捨て切るということか!」
「よし! 方法が分かったぞ! 出てくる物は総て雑念として切り捨てて、捨て尽くせばいいのだ!」
「捨て尽くしきった時、過去の総てが切り離されて、本当の瞬間の世界がはっきりとし、そこから起こってくる心の世界も明確になるはずだ!」
「私を苦しめた総ての問題は、その一瞬で解決するであろうし、その瞬間に於いて苦しみも解けるであろう!」

 こうして到達した絶妙な実践用方法論は、毎日経験観察と、試行錯誤と、深い論考の末確立されたもので、決して思いつきや自然発生的なものではなかったのである。おそらくは二、三年を要したことであろう。彼自身、もうこれ以上疑う余地の無いほど、徹底観察し推敲し尽くしていったのだ。従って、尽くしきるに従って確信を増し、自信を持って実践修行出来るようになっていったのである。

 それからというもの、来る日も来る日も、ひたすら雑念思惑との戦いであった。正念相続の得難きことは人皆同じである。だが、釈尊たる所以は尋常の努力ではなく、尋常の意志力ではなく、尋常の疑団ではなかったのだ。当然自己の全分を注ぎ込んでのことである。しかし、身に付いた癖というものは、構造化し性分になっているため、瞬時の油断で忽ち自己を見失ってしまう。無常の凄まじさは総てを押し流し去っていくのだ。

 本来の世界は、具体的なこのままの世界である。無限の時間と無限の因縁が絡み合った、不可思議不可商量の世界である。が、常に今の様子であり、その他に何も無い。自分をしっかり護って雑念煩悩にさらわれない様にしようとするのだが、結局意識の外の様子、認識以前の状態を知らない内は護りようがない。直ぐ自分を見失ってしまう当初の釈尊は、この点に於いては我々と全く同じ只の素凡夫だったのである。

 やがて雑念が鮮明に見える様になり、切り捨てるということが何を意味しているのか分かり始めたのだ。モグラ叩き同様の状態ながら、ぼやっとした無自覚時間が次第に減少し、それだけ観念の拡散状態を捕らえることが可能になってきたのである。
 分かりやすく言うと、精神行為の様子がスクリーンを見るように、自分の内面をじっと見つめることが可能に成り始めたと言うことである。それだけ即今から逸脱して自分を見失っていることの自覚が、早く、しかも明確になってきたのだ。
 彼は毎日毎日、昼夜を通して雑念と戦い、見失っては自分を取り戻すことに総てを掛けて努力したのだ。戦う相手がはっきりしてきたことは、鮮やかに切り捨てられることでもあった。

 長かったその努力の甲斐あって、雑念の発見も次第に早くなり、やがて念の起こった瞬間が発見できるほどになってきた。そして、切り捨てた切り口まで見え始めたのである。ようやく修行らしいことが出来るようになってきた。

 とうとう念が現れる瞬間が分かると同時に、出た念が瞬間に切れるようになったのだ。あれだけ痛めつけられ通してきた観念現象の拡散作用が、思うように切り捨てられ、処理征服できるようになった時、有る事実に気が付いた。この出来事を境に、修行が大変楽になり、又面白くなってきたのである。この時初めて安らかな深い呼吸を味会うことが出来た。そして心静か自分の存在を知り、尊いとさえ感ずることが出来るようになったのである。いや、心からある種の痛快感を覚えるのだった。思えば長かったあの苦しみの呪縛から、ようやく解放されてきたのである。

 即ち、観念として発動する以前の「何も起こらない」一瞬の世界があることを初めて知った。そこは何も無い、からっとした空白の世界。「隔たり」がないから癖も拡散も起こる隙間のない世界。一切の災いがない世界に気が付いたのだ。そのままが本来だったのである。そこが心の始まる瞬間であり、心として作用する所だったのだ。彼は「何も無いので、何もする必要がない」という決定的な気付きを得たのだ。
 何かしようとする、認めて能動的に働きかける存在が自我だったという気付きにまで達したのである。
 有るものは、只自然の様子ばかりだということを知って、彼は大いに驚いたことであろう。
 目や耳に諸々の色や形や音がある。それが何の意味も理由もなく、厳然として、既に、只、是の如く有る。自己以前の様子、意識以前の天然の様子がはっきり分かったのだ。

 ここでようやく事実と思惑との明確な区別、現象が具体的な客観性の有るものと、観念や感情と言った内的作用の世界とを切り離す事が可能になっていたのである。それが出来るようになった彼は、雑念も放置しておれば次の瞬間綺麗に消滅していると言う事実を発見した。
 観念作用も、総て一瞬の働きに過ぎなかったことを知って、出てくる雑念に対して、少しも問題意識を持たなくなっていたのである。
 三祖大師曰く「真を求むることを用いざれ、只すべからく見を止むべし」。又一宿覚と言われる六祖下の永嘉大師も「真を求めず、妄想を除かず」と言ったのはこのことである。一切の観念的なもの、及び感情的なものを、心に取り上げず、そのままにしておけるところにまで達したのだ。
 とうとう観念と感情の起こる元、一瞬の不動の世界に帰結させたのである。だからこの方法論が生まれたし、それが実行出来るのである。

 とにかく前人未踏の心の世界を解決つけると言う、その確かな方法を斯くも明解に突き詰めたと言うことは、流石に釈尊だったのである。

 しかしこれで結論が出たかというとそうでは決してない。努力を尽くしてそこまで心を純化させ単純化させたものであって、努力という条件下での、ほんの薄っぺらな心境なのである。だから油断をすると、たちどころに自分を見失ってしまうと言う程度のものでしかない。人生してきて培われた「隔たりの癖」が、今なおそのまま生きていて、煩悩となる元が厳然とあると言うことなのだ。そのことも散々体験し観察して充分知り尽くした彼が、分かったという事ぐらいで満足し納得するはずがない。もししていたら釈尊は無く、仏法も発見されなかったのである。

 修行の急所として、とにかく心に起こったことは総て捨て尽くしていけば、必ず根元的に解決が付く解脱の世界があることを、体験と観察からそこへ到達した結果、そう確信したのだ。

 それからというもの、いよいよ寝食を忘れ、来る日も来る日も、ひたすら捨て尽くすことに専念していった。出てくるものは善悪を問わず、総て無視し切り捨てていったのである。否、一切の念を取り合わないようにし、そのことに油断しない努力をしたのだ。されば、雑念は勝手に自己消化して消滅するので、ひたすらほっておく捨て方に専念し続けたのだ。感情は殆ど機能停止し、無表情極まりないところまで漕ぎ着けたのである。

 世間で言う落ち着くとは、感情が静まることである。すると、知的作用も自然に沈静化し、反応作用が至って緩慢となり、おっとりとし堂々としてくる。誰でもである。結果として自分がすこぶるよく見えると同時に、身と心とが同化するほどに深い静けさを実感する。誰もが経験している事である。
 そうした落ち着きなどとは程度が全く違うのだ。精神構造自体の大変革である。捨て去ると言うことは単純化することであり一元化である。一切を捨てるのだから赤子になることである。精神が構造化する以前の世界であ
る。利口な者が馬鹿になることがどれほど困難か、やってみた者なら直ぐ分かることだが、結構大変なのである。
 連続する観念現象は、一瞬の一念が次の念を刺激誘発することだが、これを破壊し捨て去ると言うことは、間髪の余地がない早さで繋いでいく見えない金の鎖を切断することである。しかも、相手が尽きるまでそれを続けなければ結果が出ないと言う仕事なのである。
 坐禅修行というものを大胆に狭義に捕らえて、精神の観念現象を工学的物理学的に言うとすればその様な事なのである。本当に真剣にやる場合の初期段階は格闘技と思えばよい。雑念拡散という自己喪失させる姿無き亡霊との戦いである。「隔たり」の強い初期には、気違いになるかと思うほどの苦しみを伴う事があるのだ。が、その後は水が引くように解けていく。

 とうとう何の力をも用い無いなくなった。これこそが本当の実力となり境涯となる修行なのだ。やがて何も無い世界が現れ、次第に長くなってきた。身心が一つに収まり、隙間が無くなってきたのである。時間の長短もなくなり、安らかに、只、忽念と坐禅するばかりとなったのである。「隔たり」が取れていると言うことなのだ。

 ここまで漕ぎ着けると、守るべきものが無くなり、体が急に透明感を模様してとても軽くなってくる。自分の行為全体を、何の意識もないのに深く明らかに自覚しているし、しかもその自覚が連続していることに気付いた。精神現象も総て明晰に把握していて、身心の動き全体が完全に知性の半径内に収まっているのである。
 彼は見聞覚知のまま、その消息としての自覚が全くなくなって、歩いても坐っても、食べても寝ても、そうした自分の動く事柄に一切関わらなくなってきたのである。いよいよ徹し切る一歩手前までに成ったのだ。

 遂に彼は、念を出すべく努力しなければ出てこなくなってしまったのである。この現象は、(言葉と概念とが一体になって思念を形成する)過去の情報世界から脱出し始めたと言うことである。本来の瞬間の世界と親密になり、過去と言う固定化した意識の拘りの世界が隔絶し、脱落してきたと言うことでもある。畢竟自己がとれ、拘りの根元が無くなってきたということなのだ。
 白隠禅師は、ここまで達したならば「喩え大地を打ちはずすことがあっても見性(大悟)する事疑いなし」と言われた。白隠禅師に嘘はない。

 多年の研参、結果自然になる。彼は遂に自己を全忘し、宇宙に蕩尽し切ってしまって何も無くなってしまった。「隔たり」が取れれば皆そうなる。時空間を超越したまま、時は幾ばくか流れていった。

 当然ながら身も心も放ち忘れた彼は、一切の知覚作用すら超越していた。身も心も落ちてしまって無くなると、音があっても体を透過して何もない。目に色形が光学的に映っていても、その事を取り上げる主体的なものが一切無いのだから、作用が作用にならない。意識界との境が完全に確立した、否脱落底の作用である。道元禅師の言う「非思量」が是れで、心意識も念想観も勝手に浮遊拡散する状態ではなくなったのである。
 この消息を「身も心も無い」と言い、「無我」と言い、「無」とも「空」とも言う。「皆空」であり「真空」である。「自己無ければ、自己ならざる無し」と言うのは、この真実の世界を実証した人の力である。理論めいた表現の一種ではない。三昧我れ知らず。無論時間などはない。純粋機能のみになって大自然の真っ直中に入ってしまわれたのだ。死に切ったのである。

 このままだとただの枯れ木同然である。岩や雲と同じだ。勿論、自己を忘ずるとはこの様子である。一度はここに突入しなけば「隔たり」である心の癖は取れないのだ。「隔たり」によって、釈尊拈華の真意が個人的思惑で眩まされ、それで分からないと言う仕組みなのである。心の癖をとるための修行である。そのための坐禅である。

 静寂の朝まだき、坐中の視線を徐に上げると、眼中に明けの明星が入ってきた。その瞬間、明星の縁によって我に還った時、「隔たり」が全く解け落ちていた。死から生き生きと蘇ったのだ。「絶後に翻身し来る」とはこの事である。

「奇なる哉、奇なる哉」と、あれほどの大疑団が一時に一切明瞭したのだから驚いたは無理もない。
「何と! こんなに真実の世界だったのか。このままで良かったのだ。少しも問題はないではないか!」と。
 城を捨て妻子を捨て、名誉財産等々、裟婆世界で最も尊いとし大切とするものの総てを捨てるまでに苦しんだ大疑団であった。そうしてまで努力勉励しなければ疑団の解決は得られなかったのだ。

 今日只今、夢から醒めた彼は、「有情非情同時成道、山川草木悉皆成仏」と。また曰く、「本来本法性、天然自性心」と宣いき。驚きは勿論、欣喜雀躍としてしてそう叫んだのだ。その声、地獄の底から天魔鬼神のど肝を貫いて三界に輝かしく轟いたことであろう。

 これが「一見明星」の一大事因縁である。釈迦牟尼仏の誕生であり、仏法が現成した世紀の瞬間であった。ここに仏法現成と、大悟の消息を宣言したのである。
 惟時、今を去ること二千五百有余年十二月八日、暁天もやや白らみ始めし朝霧の中ならんか。まさに尊中の尊なりしなり。
 自然は勿論、総ての機能及び作用がそっくりそのまま光明であったことを初めて明らかにしたのであった。大自然の絶妙なる様子と働きが判明してみると、自己とするもの、自分と言う存在が何も無かったことに気が付いたのである。
 有るのは自然の機能と作用の関係性しかないと言うことであった。それも総て変動していて決して固定的に有るものではなく、只、その時、その場の瞬間存在だと。関係性故に、もとゝゝ自他ながら自他の区別がないと言うことなのである。即ち、自分と他人とは確かに現象的存在としては有る。しかし、それも自然の様子であって、個々いちいちそれぞれの因縁が違うから違う存在だけだと言うことである。因縁生故に、本より自他共に脱落しているのだから当然である。その事は「隔たり」がとれると皆分かることであると同時に、「隔たり」が取れなければ絶対に分からない世界なのだ。蝉が殻から抜け出て初めて大空を自由に舞うことが出来るのと同じである。たった殻一枚の違いながらその作用は天地の差なのだ。

「隔たり」が取れた証しが体験であり消息である。是れが仏法の命である。即ち、迷いが取れて大悟したと言うのは、過去と今と、夢と現実と、作用(現実)と観念(虚像)と、迷いと悟りとの涯際が明晰になったことを言うのである。瞬間、瞬間、それで完成し成仏しておると言う自覚は、涯際がはっきりしたと言うことなのである。それが悟りである。

 こうした本当のことが分からないがために、「有る」とか「無い」とかと言う固定的に定義付けした概念を認めて囚われるから、意識によって自他が仮想的に、対立的に存在する、いわば知性における想像的構築物に過ぎなかったと言う発見である。
「隔たり」が取れて自他不二、自他一如の様子が明瞭した結論として、結局心に他人が宿ると、内的に既に対立してしまうと言うことなのだ。それも総て「隔たり」によって起こる知性と感性の幻夢だったと見破ったのである。完全なる平和は、「隔たり」を取れば、自ずからそこにちゃんとあるのだ、と言う釈尊の声が聞こえてくる。その耳や如何。

 釈尊在城の時、何故あれほど苦しんだのか。それは彼が余りにも知性的にも感性的にも優れていたからである。内的に深くそして鋭い判断力と想像力によって、精細なイメージを構成し、それが負の感情を極度に増幅したものである。
 華やかに舞う舞姫という存在を、美しいと見、素晴らしいと感じて、心を豊にし瑞々しくすれば極めて生産的であろう。同じ現象なり存在を見るのに、その始まりやその結果を思い、究極的にはあの美しい女たちも、いずれ腰をかがめた皺だらけとなり、自分のことさえままならぬ老人となり、やがて死ぬのだと想像すると決して楽しくはない。そうした現象自体に疑問を抱いたとしたら、それは誰もが苦しむこととなる。
 犬や牛馬たちは決して自分が死んだり殺されたりするなどとは想像しない。それだけの知性がないからである。かれらは単に、今、生きるための縁に従っているに過ぎない。至って単純であり端的なのだ。人間が斯くも苦しみ、国家を上げて殺し合いまでするのは、総て知性と感性の作用に翻弄された姿に過ぎないのだ。
 彼が理屈無く端的に見ていたならば、決して苦悩しなかったし、その代わり釈尊足り得なかったのである。そうした「隔たり」からの呪縛から解放された時、自分が苦しんだメカニズムが瞬時に明瞭して、再び迷うことが出来なくなったのである。

 この天然の真理は、彼が自己を全忘し「隔たり」を尽くし切った時、そのものと同化していたことに初めて気が付いたもので、元もと自然そのものの様子なのである。天地と同根、万物と一体の真相を言うのだ。自然には執着も拘りも、善も悪も、自他も悟りや迷いも無い。一切が一瞬の本に完成し脱落し消滅している、その事実を徹証したのである。

 一度死にきって、枯れ木となり岩となった自己超越の世界から呼び覚まされ蘇ったので、枯れ木や岩の如く自然なのだ。即ち、執着も無く自他を越えた解脱の精神構造なのである。それが機能し作用しているので、その質が全く異なるのは当然である。ここが成仏した大力量底の尊い所以なのである。
 誰かこれを疑わんや。若し疑義する底の漢あらば、疑は自ら暗中盲縛に於いて生ずることを知るべし。日用光中、僧と俗とを問わず、生活全般、只、作用の是の如くある様、遂に不可得不可商量なることを知るべきなり。

 樹下石上六年端座の心印は、この忘我の結果、死より蘇った消息である。坐禅修行の目的は夙にこれを得んがためなり。道元禅師曰く、「人々分上豊に具われりと雖も修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と。祖曰く、「参は実参なるべし。悟は実悟なるべし」と。斯くしてこの心印を正伝するは、菩提心と正身端座なり。不惜身命の打坐にあらずして何ぞや。

 迦葉の破顔微笑は、釈尊が余りに簡潔に端的を示されたので、只、破顔微笑したまでだ。その他に何物もないから無色透明なのだ。穿った言い方をすれば「了解と同意と賛嘆、それに只の微笑み」としてのものだった。迦葉は既に「隔たり」の癖を陶冶して端的の人になっていたので、釈尊の仕草の総てが「そのまま、そのもの」として同化していた。
 この一大事因縁の大事を、釈尊はとっくに知っていたし承けがい喜んでいたのだ。この端的の消息はそんなに不明瞭で不確かな世界ではないのである。只、釈尊は迦葉が本当に至り得た完成者であることを、公衆の面前に於いて、大法の人として彼の存在を確立しておきたかったのである。つまり、特別に伝えるべき何物もなかったのである。が、大事なことは、自分の「隔たり」を解決して何も無くなると、総てが明了すると言う確かな体験実証の自覚である。「何も無い一切皆空」を体験した確かな証しを証明に依って伝えることは、仏の内容をそっくり伝えると言うことなのである。

 釈尊は大衆の前で、「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教外別伝有り。摩訶迦葉に付属す」と。これで迦葉尊者が祖師として証明され確立したのである。
 坐禅する者はその重大性をもっと自覚して、「隔たり」を本当に取る修行をしなければならない。そして迦葉尊者の復活底とならねば、法の児孫とは言われないのである。少なくてもその人たらんとして修行すべきではないだろうか。

震旦初祖達磨大師

世尊霊鷲山上に於いて「吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙法門・不立文字・教外別伝有り。摩訶迦葉に付属す」と宣いしは、この心印の証明なり。迦葉は阿難に付属し、相承代々単伝し来たって、第二十八祖達磨大師は震旦(支那)に来たって初祖たり。
 インドの或る国の第三王子であった彼は、般若多羅尊者の心印を照破し、達磨(通大の儀)と改名す。師の遺嘱に依って東方に旅立ちをすることになった。インドでは大乗の心を本当に求める人が居なくなってきて、正法の断絶することを恐れたからである。何が故に。只、大法重きが故なり。この法滅びなば、人間が本当に救われる道が分からなくなってしまうからである。出航三年の後、支那広州に漂着す。途中三度の極難に会われたそうな。歳既に百二十余であったとか。もったいない限りである。
 今をさかのぼる一五〇〇年前の出来事なりき。すでに支那ではあちこちに寺も建てられ、仏教は学問として隆盛を極めていた。がそれは仏教思想、仏教文化というものである。機械の説明書は充分理解したが、実物が届いていなかった状態であった。真実の佛法を体得された達磨大師が来られたという噂はたちまちに広がった。人を集めようと思えばすぐにでも大教団ができあがったことだろう。
 ところが自らを仏心天子と名乗る梁の武帝に請われて登城したが、是の道には只のがらくた同然だとして夜逃げした。これ大法重きが故に。当時仏典の翻訳と字句の研究メッカとして、最大を誇っていた頭脳集団の大寺院である崇山少林寺へ入った。達磨大師は思えらく、
「仏法は言句中に非ず。誰か超跳出の器あらん。でなければこの法を伝授すること能わず。この法を得ること一大事因縁なり」と。真っ正面から心底より受け取ることのできる人の稀であることを、自分でやってみて覚えがある。磨祖大師は一室で、只、面壁坐禅をされるばかりだった。「大器の人、看よ看よ。これだ、これだ!」とばかり全分を露呈して、「只」坐禅していたのである。身心脱落の打坐、迷悟いずれにか有ると。磨祖に教えを乞おうとする者たちは、取り付く島もなかったのだ。文字言句上の人は、古今東西皆そうである。

 幾星霜の間も無駄ではなく、遂に大法の人が現れた。なんと面壁九年の後である。正に冬が訪れようとするの日なり。必死の懇願にもかかわらず、磨祖は常の如く、振り向くことなく、只、坐禅するばかりなりき。否、「この露堂々を切によく看よ」との底意も、この時知る由もなかったのだ。
 彼の烈士は外で立ち続けた。儒・道・仏の道理を窮め尽くした俊才である。釈尊の如く苦しみ、最早磨祖の教えを請うの他無しとやって来たのだ。陽落ち、冷気下だり、遂に雪降り始め、最後の試練石の時来る。降り続く雪中、大法を求むるの人微動だも無し。求道者とは是の如くあらねばならぬ。
 夜中の雪、彼の腰に至る。陽出でて磨祖それを知る。哀れんで曰く、
「汝雪中に立って何事をか求む」
師曰く、「只願わくは和尚、慈悲甘露の法門を開いて、広く群品を度し賜え」
磨祖曰く、「諸仏無上の妙道は曠劫に精進して、行じ難きを能く行じ、忍び難きを忍び、豈小徳小智軽心慢心を以て得べけんや」
 と云いて振り返らず。師、磨祖の慈訓を聞いていよいよ不惜身命となる。雪の試練石、彼をして遂に自らの臂(ひじ)を切断せしめ、祖に呈す。祖、深く是れを首肯す。ここに至って入門を許す。達磨大師の神足・二祖神光慧可大師その人なり。

 しかし、決着がついていなかった迷いの真っ最中の出来事である。
磨祖に懇願して曰く、「心未だ安んぜず。乞う、師、安心せしめ給え」と。
祖曰く、「心をもち来たれ。汝がために安んぜん」
師曰く、「心を求むるに遂に不可得」
祖曰く、「汝がために安心しおわんぬ」。心というものを固定的に有ると認めて特別視していたのじゃ。今、そんな心など何も無い、と言うことが分かったらそれで良いではないか。苦しみという心が、別にどこかに有るものではない、と言うことが分かったか! 
 ここで本当に決着が付いて、心底から安心したのである。まさに鈍中の鈍、菩提心の結晶である。身命を堵しての求道心は何ものも寄りつく余地がない。真なり、実なり。これが本当の菩提心であり標準である。真露堂々なり。箇事了畢、行き着いた処、これを仏法と言う。それを悟りと言う。その人を仏と言う。元々一杯一杯故に、本当に信じて行じ、振り返り見る事なくんば隔てなし。行は徹するを宗旨とす。真中の真を得んがためである。心の解決を求めて身を捨てて本当にやれば、誰もがそうなると言う標本である。本当に自己仏と相見すれば人生の大事ここに極まれり。
   少林の雪にしたたる唐紅(からくれない)に 染よ心の色あさくとも
 切り落とした時の鮮血、あたりの雪を染めた。菩提心の象徴である。人生は短いぞ。お前も死ぬ時が来て狼狽えるなよ。少しでもいいからこの雪中断臂の人を見習ったらどうじゃ、と。これ第二祖、神光慧可大師の誕生なりき。
 辛くも釈尊六年の端座、達磨面壁九年の心印は、断臂の神光慧可大師に正伝す。雪中の鮮血こそ、釈尊出城の血涙ならんか。これを伝統するは、我らの菩提血涙のみ。西天の二七、唐土の二三とある。インド二七代、支那二三代(曹洞宗)と続き、日本へ渡ってきたということである。誰かその人をしのばざらんや。誰かその人にあらざらんや。

高祖道元禅師

本朝の道元二三歳のみぎり、貞応二年(一二二三年)支那に渡り、正師を訪うて探すこと三年。遂に如浄祖にまみゆ。祖は第五十世の正嫡なり。師遂に浄祖の心印を得て還る。一二二七年なり。五年の後、京都宇治に叢林興聖寺を開闢して、日本曹洞第一祖にして世尊五一世の道統を敷くこととなる。
 ここに於いて逸材の懐弉現る。刻苦勉励、遂に涅槃妙心の消息を正伝す。正法眼蔵随問記に曰く、
「嘉禎二年朧月除夜、始て懐弉を興聖寺の首座に請す。即ち小参の次で、初めて秉拂を首座に請う。是れ興聖寺最初の首座なり。小参の趣は、宗門の仏法伝来の事を挙揚するなり。初祖西来して、少林に居して機を待ち、時を期して面壁して座せしに、某の歳の窮臘に来たり参じき。初祖最上乗の器なりと知りて、接得して衣法共に相承伝来して、児孫天下に流布し、正法今日に弘通す。当寺始めて首座を請し、今日初めて秉拂を行わしむ。衆の少なきを憂うること莫れ。身の初心なるを顧みること莫れ。汾陽は僅かに六七人、薬山は十衆に満たざるなり。然あれども皆仏祖の道を行じき。是れを叢林の盛んなると云き。見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹豈に利鈍あり賢愚あらん。華は年々に開くれども人皆得悟するに非ず。ただ久参修持の功により、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり。是れ竹の声の独り利なるに非ず。又花の色の殊に深きに非ず。竹の響き妙なりと云えども自ら鳴らず、瓦の縁を待ち手声を起こす。花の色、美なりと云えども独り開くに非ず。春風を得て開くなり。学道の縁もまたかくの如し。是の道は人々具足なれども、道を得ることは衆縁による。人々利なれども、道を行ずることは衆力を以てす。故に今心を一つにして志をもっぱらにして、参究尋覓すべし。玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いずれの玉か初めより光りある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ。古人の曰く、光陰空しく渡ること莫れと。今問う、時光は惜しむによりてとどまるか。惜しめどもとどまらざるか。すべからくしるべし。時光は空しくわたらず。人は空しくわたることを。人も時光とおなじくいたずらに過ごすことなく、切に学道せよと云うなり。かくのごとく参究を同心にすべし。我独り挙揚するも容易にするにあらざれども、仏祖行道の儀、大概みなかくの如くなり。如来の開示に従いて得道するもの多けれども、又阿難によりて悟道する人もありき。新首座非器なりと卑下する事なかれ。洞山の麻三斤を挙揚して同衆に示すべしと云て、座を下って後に再び鼓を鳴らして首座秉拂す。是れ興聖最初の秉拂なり。懐弉三十九の歳なり」と。

 元古仏は懐弉師より二歳若く、当時は数えで云う習わしなれば三五六であろうか。道元禅師は三歳にして父を、八歳に母を失う。一三歳で叡山へ上がり、一四歳にて出家す。切実な無常観に裏打ちされている彼はきっての俊才、修行勉学の精神も並外れていた。日中の修行は基より、叡山に蔵する書籍は悉く読破す。あの一切経を三度拝覧してのけられたのだ。彼思えらく、
「釈尊は本来本法性、天然自性心と。されば何故に三世の諸仏は発心修行して成道する必要があるのだ」と言う大疑団が起こった。
 初めからみんな仏ならば、このままで成仏しているというのら、三世の祖師方は何故命がけで修行し悟らなければならないのか。釈尊の云われることとは矛盾しているではないかと。
 どちらが本当なのだ?
 何のために修行するのだ?
 修行して何を悟るというのだ?
 仏教の哲理は理解し納得出来たものの、釈尊の云われたことと祖師方の行履との食い違いで、無常観にせき立てられていた彼は仏法というものが分からなくなってしまったのである。
 叡山の高僧方に尋ねても解せず、遂に京洛の高僧碩学の宗師に尋ね廻ったが了せず。その頃、初めて禅を伝えたという栄西禅師を紹介され門を敲く。禅の容易でないことを痛感し、栄西禅師の没後、高弟明全に師事して修行に励んだ。足らずとして二三の歳に入宋し、正伝の仏法を求めてあの支那大陸を三年の間、師を求めて廻ったのだ。ところが、真正の師に遭遇することが出来ず、空しく諦めて帰国のために船待ちをしていた。心中を察するに余りある船待ちである。

 そこへ独りの老僧が、椎茸を買いに来た。その量が些かなものであり、毅然とした老漢に利発な彼は何か深く尊いものを感じたに違いない。それが起縁となり、話は無念の帰国のこととなった。今の天童山は明眼の大宗師 如浄禅師が住されていると聞かされて歓喜同行し、ようやく本腰を入れて修行に入ったのである。
 正師に遭えたことで、安心をしたのはしたのだが、一向に疑問が解けたわけではない。従って心の真ん中に居座っている命題に対して、常に悶々たる状態であった。道理は尽くしきっていて、分からないと言う事柄は全く無いのだが、根底から釈然としていない自分をどうしようもなかったのだ。

 或る夏の真昼間、それも灼熱の下で、例の老僧が腰をかがめて椎茸を干しているところへ遭遇した。その姿がいかにも痛々しく見えた彼は、思わず駆け寄って声を掛けた。これが彼にとって勝縁となったのである。
「その様なことは、貴師の様な御方がなさらずとも、若い雲水さんにさせたらよろしいでしょう」と。さに非ず。老骨たりとも菩提心は衰えず。老僧は毅然として彼を見据えて曰く、
「他は是れ我に非ず」と。お主、聞けば大法を求めてこの大宋国へ来られたとか。ならば、もっと真剣に、自己究明に徹したらどうなんだ。第一、俺を看たとき、既に目に転却されて妄想しておるではないか。人のことなどを心配して、自分を失っているようでは駄目じゃ。貴殿は見る底が分かっとらん。自己を運ばずに、只、看よ。それが修行と言うものだ。俺は、これを、只、しておるのじゃ。そのことがお主に看えんから、そのようなつまらぬことを言うのだ。それに、人の修行はその人の世界で、俺の修行ではないのじゃ。分かったか! と。

 彼は老僧の真意がまだ分からなかったと見えて、再び醜態を現した。
「ではございましょうが、この日中でなくても、陽が傾いてからなさっては如何ですか」と、俗念の親切で言ってしまった。ああ、分からん時は分からぬものだ。その杖で、何故意根勦絶するまでぶん殴ってやらなんだのだ。小乗の親切は道を殺すとあるぞ。次いでだが、大乗の怒りや不親切は大きな慈悲であることを知れ!
 老僧殿、お主は手ぬるいぞ、だから法が滅ぶのだ! そこで古老、目をひんむいて曰く、
「又、いずれの時をか待たん」と。こら! まだその様なピントはずれのことを言っておるのか! 修行は今、この瞬間のことであろうが! 瞬間に妄想しておることすら分からんようでは修行者ではない。そちは未だ着眼点すらも分かっておらんではないか、情けない! 何時の時を待って修行すると言うのだ! 今しか無いというのに、と。
 心を解決つけるためには「隔たり」を取らなければならない。その修行であるなら、一瞬が着眼の急所である。自分の生活全般、人生、修行が、今、是の如く起こっていると言うことである。これを捨ててしまったら何にも成らないのだ。

 だから本来の呼吸とはどうあるべきなのかと、自分に模様している呼吸に向かって追求するのである。
 本当の一歩はどうあるべきか、と一歩一歩その行為そのものを参究しなければならない。
 一箸をどのようにすれば本当に運ぶ事が出来るのかを、実際に参究するのである。
 本当の一噛みを参究するのだ。
 本当に見るとは?
 本当に聞くとは? 
 本当に味会うとは?
 畢竟、自分を片時も見放してはならないので、無自覚無意識行為が最も無意味な時間だと言うことになる。ひっくり返せば、行為と心と離れていると言うことは単なる動物行為であり、無門慧開禅師の言う「依草附木の精霊ー草木に目鼻を付けた化け物で、何をしでかすか分からぬ生き物」となる。
 彼はまだ、「今一瞬の追求」と言うところに達していなかったために、見聞覚知に翻弄される状態にあったのだ。だから親切も小乗的にしか働かなかったのだ。
 只見て、只合掌礼拝して、只去れば良かったのだが・・・。

 二度の煮え湯を被った彼は、流石に髄まで轟いたとみえ、「忽ち去る」とある。何処へ言ったとや思いそめけん。
 修行者が命がけになったとき、行くところは只一つ。それは修行場である。禅堂に決まっておる。彼が長く決着が付かなかった原因は、「瞬間の自己」に着眼が定まっていなかったからである。後に「仏道を習うというは自己を習うなり」と慈訓されたのは、聡明なるが故に、理が常に先行して足下を見失っていた事の自戒からなのである。一瞬の自己、即ち眼耳鼻舌身意が色声香味触法として作用する総てを、絶対に見失ってはならぬ。無自覚行為は単なる習癖化した動物的行為だと言うことを知れよ、と示され、その癖を破るための修行であると言っているのである。さすれば、現実の現象には分別・是非の想念が全く無い、脱落の様子が明確になるからである。
 彼はこの老僧にしたたか駁されて、初めてこの重大な一点に気が付いたのだ。何か知らぬが、修行の方法がはっきりとしていなかった彼自身であったので、この老漢による頂門の一針に深く感謝したことであろう。彼の修行が、この瞬間より一気に軌道に乗ったことは言うまでもない。

 ある日、ある時の坐禅中、隣の修行者が居眠りをしていた。それを見た祖は、
「軍人は夜る昼る無く、命を懸けて国を守り、百姓は朝から晩まで過酷な農作業に精を出して頑張っておる。なのに修行者は耕さずして喰らい、織らずして身に纏っているではないか。修行者は修行するのが本分だからだ。然るに、命がけで坐禅しなければならないというに、居眠りをするとは何事か!」
 と言ってそれをしたたか打った。
 時、法縁純熟していた。隣が打たれた衝撃で、自己を全忘していた彼は脱体現成、「隔たり」がすっかり落ちて真正に蘇ったのだ。そのとんでもない消息に驚いた彼は、明らかに正法眼蔵、涅槃妙心の消息を体得したのである。「参学の大事ここにおわんぬ」と位置づけた解脱の心印を了畢して、浄祖の室に於いて証明を得られたのだ。歳二七、嫡々相承して第五一世の正嫡となったのである。
 この勝縁を喜ばずして又何をか喜ばんや。

 帰朝して曰く、「糸毫の仏法無し。僅かに柔軟心を得たり。我れ眼横鼻直なることを知る」と。仏法などと言う特別なものは無い。誰もが日常生活し使っている見聞覚知のままだし、眼耳鼻舌身意のままだし,色声香味触法として、今、只是の如くあるだけだ。「隔たり」が取れてみると、一切気にかかることが無くなっており、至って安楽なのだよ。実は是れが仏法であって、知らぬ者が知らぬだけなのだと。
又曰く、  言い捨てし その言の葉のほかなれば 口には跡をのこさざりれり 
と。 諸君! この道歌を如何と看らるゝや聞かまほし。命がけの後の話であるところに目を付けよ。如何に修行せんとすや?

本当の世界を悟るためには

迷い苦しむのは何時か?
 捉われ拘るのはいつか?
  喜び悲しむのはいつか?
 この単純な疑問の答えは、「今」であり「一瞬」の出来事なのである。永遠に「一瞬・今」の世界である。明日も、一年先も、一億年の先も、本当の時はこの「今・一瞬」の世界でしかない。過去も未来も皆概念と想像の構造物に過ぎないのだ。
 原因が有れば必ず結果自然になる。結果のあるところ、必ず原因がある。よって「今」が結果であれば、原因の過去が有ったのだ。つまり過去が今になっていると言うことだ。「今」が原因であれば結果は必ず起こる。それが未来である。「今」がある限り必ず「未来」があるのだ。「今」は因果同時なのである。今を離れて過去も未来も無いと言うことを知らねばならない。

 では、苦しみや拘りから救われるのはいつか?
 解決するのはいつか?
 この答えもやはり「今」でしかない。だから「今」は永遠であり、始まりもなく終わりも無い絶対な世界であることが解るであろう。
 さて、「今」でないものがあるか?
 見るもの、聞くもの、喋る時、思う時、寒いと感ずる時、空腹、不平、不満、総て「今」の出来事であり「縁」のもの、関係性の現象に過ぎない。固まった永遠なものが一切無いから、関係性次第で何にでも成る。条件次第で自由自在な世界なのである。竹密にして流水を妨げずだ。
 又、総ての現象は、無常と言う流転によって起こっている。無常とは「今」の働きであり、宇宙の命である。総ては「今」の流転の綾模様でしかない。言い換えると、人間を含めた宇宙総ての生命現象の営みの姿が「今」の様子なのである。この絶対な「今」は純粋にして単純の極である。それが「今、その様に只ある」ということである。どんな事であっても「今・只かくの如く在る」世界でしかない。「今」とは前後が一切無い世界だと言うことである。この世界を彼岸とも涅槃とも言い、それを自覚した消息を悟りと言う。

 この前後の無い、「それだけ・その物」の世界を無心とも言う。知性的なもの、理屈や拘りが一切無い純粋な世界である。だから、悟るには「今・その事のみ」、端的になり単純一元化すればよい。早い話が「今」に徹すればよい。「只」あれば自ずから「今」になっている。
 有って無いのが「今」であり、「只」である。「隔たり」の無い世界を言う。これが脱落である。これが解脱である。悟るにはとにかく「今」になり切ればよいということである。その消息を知ったときが悟りである。それを得る修行が坐禅である。坐禅はただ坐禅である。これほど端的な法はない。
 要するに坐禅に成り切って坐禅を越えるのが要訣である。この消息が永遠の光明であり救いであり、仏の内容なのである。仏陀の精神であり復活である。誰もが既にそうである。この重大なる真理を仏法と言い、救いの道を仏道と言う。

 修行でもなんでも要点がある。如何に早く、誰でも確実に、楽に目的を達成する方が良い。悟るためには、拡散を収め、今の瞬間に返ることであるから、そのために雑念を切り、瞬間への帰着努力を続けるしかない。それが坐禅当初の修行である。勿論、努力や信ずる力や、注意力等が異なる限り、こうした経過は皆同じではない。それぞれの癖が違うので、通過の様子も、苦しみ方も違う。しかし、自分で自分の心が手に取るように明らかになっていくメカニズム、「隔たり」が取れればみんな端的になるメカニズムは同じである。

 決定的に大切なことは、根元的な大きくて深い疑団を持つまでに、心という存在に対して突き詰めていくことであり、菩提心に鞭打って努力することと、小成に安じないことである。勝手に法とか悟りとか禅を、定義したり決め事などをしてはならないと言うことだ。

 修行の実行に当たっては二つの重要な要素がある。
一つはひたすら坐禅することであり、他の一つは参師聞法と言って師より良く法を聞くことである。聞いて自分が理解したことが正しいかどうかを、もう一度思惟し推敲して、師の言わんとしたことの真意を確かめることである。もし疑問の点が有れば、必ず尋ねて理解し、方法を間違わぬ事である。確信した方法に従って、微塵も疑義の心を起こさず、且つ間断なく実行することである。修行のプロセスは、概ね次の通りである。

(1)悟りを得るということは釈尊の精神を得る事であり、仏法を体得する事である。そのために諸々の欲望を捨て、真実の道を得るぞという大願心を、常に神仏に誓い自分に誓うことである。そして祖師を深く尊崇敬愛し正師を求めることが第一である。
(2)正師に出会うことが出来たら、只教えのみを信じて、その通りをひたすら実行することである。
(3)瞬間の自己(一呼吸)を見守り、雑念を払い、これを継続する事である。ところが、構造化し身に付いた癖の力は大きくて、忽ちに自分を見失ってしまう。それ以上に努力する事である。最も苦しい時である。
(4)雑念を強制的に切断し、自己を取り戻すための補足とし、又偏り緊張を防ぎ、身心の流れを良くするために、一息するごとに体を左右に捻る事である。睡魔を避ける妙案でもある。
(5)事実の瞬間と、雑念の瞬間とがよく分かり、自分を取り戻すのに力みがいらなくなってくる。苦しみ辛いのはそれまでで、事実と思念との境が分かってくると坐禅がいっぺんに楽になる。
(6)やがて拡散が治り、雑念が出ても着いて行かず放っておけるようになる。この頃になると念想観、心意識がちらっと出たらすぐに分かるし、切り捨てた切り口、つまり何も無い世界が分かってくる。坐禅が大変面白くなり、日常の動作全般に対して、瞬間瞬間の連続的自覚が可能となり、妄りに心が働かなくなる。が、ちらちらと雑念は出没し続けるので、油断すると見聞覚知に心を執られてしまう。
(7)やがて概念のない念、前後のない念が手に入る。そして、本来の様子が分かってくるので、何もしてはならないと言うことが判明する。何かすると言うことは、自分を運び法を汚していると言うことが分かるからだ。平等一元の安らかな世界に任せきって、「只」あればよい。後は徹するだけである。本当の修行は、即今底のみ、ただ瞬間々々のみ、ここからである。感情の静まりが、人には異常に見えたりするほど冷静たらしめる。見聞覚知のまま、成仏している様子がよく分かり、言葉や概念以前の現状に納得して、何らの疑問もなくなってくる。祖録がよく分かるようになっているので、ややもすると知的満足を刺激するので、出来るだけ読まない方がよい。
(8)本当にそのものに徹し無我へと突入する。空の体得である。躍り上がって歓喜する瞬間である。「隔たり」が取れてみると、それ自体が仮想のものであったことが判明する。涅槃であり悟りである。本当の今であり、過去が脱落し総ての拘りが起らない世界となる。我々が自然に携えている機能全体、只縁に従って作用しているだけであり、心もまた、即今の縁に即して作用しているだけで、どこにも、何ものも無い、と言うことが決定的になった瞬間である。色即是空、空即是色の消息を得て、本当の只管が分かったのだ。この境界に於いて、初めて裟婆世界にあって自分を見失うことなく、淡々と本分のままに関われる。
(9)これより悟後の修行である。悟りはそのまま巨大な信念となり力となる。その事が面前にはだかるから本当の自由ではない。悟りをも捨てる修行である。悟りでも雑念でも、認めて持ったら煩悩である。何もなければ、縁に従って何にでも成る。それが本当の自由である。悟りを捨てる方法は、何でも「只」する事である。法も悟りも仏も、総て心から払いのけて、純粋作用の一直線で、「今」を送るのである。只管の万里一条鉄しかない。
(10)悟りも法も落ちて大成する。大悟である。大真理は真理とすべきものもなく又真理で無いものもない。ここに於いて大恩教主釈迦牟尼仏と同境界となり、天上天下唯我独尊となって世界を照し、命の深遠悠久に任せて堂々と生死を楽しみ、限りない自信と安住力をもって人を救い世界を救っていくことになる。ここに到っても尚、古仏は只管を練ったのである。大燈国師曰く「仏祖際断して吹毛常に磨し、機輪転ずる所虚空牙を噛む」と。悟り尽くし捨て尽くして、尚、今、磨くものも無い世界を磨いている。何事も全く言うことがないので、言葉も忘れてしまって口さえ開いたことがないわい、と。これでは釈尊も手が着かぬ。きっと礼拝したであろう。

 真実の努力には必ず素晴らしい境地がある。原因があれば必ず結果が伴うからだ。祖師方の尊い教えがあればこそ、今、やれば誰でも救われる。法は法に通じ、真実は真実を育み、心は心に通じていく。それが道だからである。だから道のために道を修して居ればよいのである。菩提心である。
 人間はやはり真実を最も愛し大切にしている生物であり、理想とともに惨悔して改めることが容易に出来る本来があるがゆえに、人間は限りなく尊い存在であると確信している。人間の中心は何処までも精神であり心である。その又中心は真心であり向上心であり慈愛である。又反省惨悔であり理想であり忍耐である。欺瞞も裏切りもない精神である。そこに到るためのこの大法を何よりも大切にする尊厳性である。
 全世界の人々と将来世代の平和と幸福を切に祈る時、運命は電光の如く時光は矢よりも速やかなことを恐れると共に、「他は是れ我に非ず、又何れの時をか待たん」と言われて激励された祖師の叫びを大切にしたいものである。やはり祖師の復活を急ぐべきでは無かろうか。何れの所にかその任を恣にする底の漢かある。参。

後書き
 これは祖師の再来を願うこと切なる思いから成ったものである。只、心を極めること最も急を要すること柄故に。その理由は、社会の荒廃は上たる政治家・企業のトップから始まり、恥辱の心なき低俗書籍やマスコミ等、枚挙するもその域を越えて存在する実状に於いて、真実なる方向を定る地図と羅針盤無き今日、畢竟何によってこれを定めん。