フランスの精神現状

フランスの精神現状(1)
【フランス偶感】

平成16年9月23日道場発。24日パリ着。25日ドイツ寄りの地方都市ナンシーの近郊、カソリックの聖地シオンの寺院に到着。26日世界宗教者平和会議に出席。講演。27日平日(月)なのに10数名による10時より5時までの熱烈なる参禅会。続いて質疑応答夜12時まで。28日よりディジョン郊外の矢崎道然大居士のお城に滞在。10月1日パリ発。2日関空着。無事帰山。

フランスの精神基盤が崩壊し始めている

ヨーロッパは歴史的にはずっとキリスト教であり一神教でした。パリー東部のドイツよりにあるナンシーという十万都市の近く。歴史も由緒も有る大僧院で、「世界宗教者平和会議」が有りましたが、各司教方は皆さん背広という出で立ち。他民族間でそれぞれの若者が自分達の宗教色を誇示し始め、若者の間で宗教摩擦から民族対立の要素を孕んできた為、防止策としてミサを除く公的社会的な場にあっては司教たりとも衣を着られなくなったと聞きました。民間スタイルで而も内容はバイブル範囲を出ることもなく、極めて常識的な論調ですから、その為に急速に民意が離れているのです。
 これは自己追求としての実践修行がないため、根源を穿っておらず、従って自信も信念も乏しい為に変化する時代性にマッチ出来ない必然的な結果と言えるものです。フランスでは一般の人達の多くはミサにも行かず、背広の司教様に対しては信頼も尊敬も見受けられませんでした。やはり警察官は警察官としての制服であってこそ、一見して自己反省を促すという具合に、それぞれの立場を視感覚的に識別して、それに対して自然な信条として反応することに、制服には深い社会的意義と価値が有り、当事者も責任を感じその気になる要素なのです。

大僧院が崩壊しつつあるのは何故か

その豊かな歴史と環境等を備え持ったカソリック系の大僧院が国の物件となり、単なる観光資源化しつつあるのです。それもここ一二年の間です。しかもじんわりと全国的拡大傾向にあるのです。修行僧激減による機能不全と、教会離れにより経済的にも成り立たなくなった結末とのことです。今は一部レストランとなり、又ホテルに改装中で、俗化した僧院は如何にも空しい空間でした。嘗ては真剣なる僧達が神の心を求めて清浄な日々を送り、如何にも厳粛だったはずの佇まいは単なる古めかしい建物と閑静な環境としての公園に過ぎません。私にとっては勿体ないだけでは済まされない、こうした傾向が及ぼす精神の俗化を恐れるのです。
 日本の寺院も同様です。朝厳粛にお勤めしている本堂の前を、車か降りてちらりと目を向けるだけで素通りする人達ばかりです。これが現代の日本人精神です。一世代前は、殆どの人はちゃんと立ち止まり、何割かの方は上に上がって正坐し、一時の敬虔なる合掌を手向けていました。その頃は今のような殺人事件やいじめや虐待など、ほんに珍しい程しか起きなかったのです。社会全体安全で静かな良き時代だったのです。
 つまり人間に尊厳性や徳性が希薄になれば成る程、人格低下と共に自己中心的となり、自己管理不全が諸々の社会悪を為すようになるのです。エイズも麻薬も蔓延率が最も高いのがフランスなのです。これは何でもない自律不全だから起こることです。既に次世代に於いて精神の中心である誠意誠実、忍耐努力、道義人格などの崩壊が進んでいることからも、将来のフランスは不安定の度を増していくのは日本以上です。急ぎ国の教育を根本から見直さなければ大変なことになっていくでしょう。伝統精神の基盤は教会によって保持されていましたから、教会の健全な存続は極めて意義深いものがあるのです。

セクシャリティを容認した国、フランス

この言葉は初めてでした。質疑応答の一つにセックス問題が有り、中学生でもセックスがしたければしてもよい、と言う国公認の方策に、地方住民から危機感を募らせた意見が有って、しばしこの問題を発端として人間の本質について言及し、人類の将来を語り合ったのです。
 セックスによる一時の快感を呈するあのホルモンは、自尊心も恥じらいも名誉も何もかも白紙状態にする強烈な物質です。これらが若くして屡々脳内に供給されていくと、麻薬的作用のため、次第に快楽主義、安易無責任主義となり、無関心、無感動、虚脱感をもたらせてしまう恐れが高いのです。言うなれば、精神構造が極めて脆弱となり精神奇形人類になり易いのです。
 何故にこうした成人領域の行為を認めるのかと言えば、それさえも否定し束縛すると、非道な行為が更に蔓延するからと言う理由だそうです。こうした短絡的な国策が続く限り、フランスの未来は迷動していくこと間違いなしです。何となれば、その少数派の若者達もが、これからのフランス社会を構成していくからであり、彼等の為の保護的政策と表面的な教育を取らざるを得なくなっていくからです。

ヨーロッパで坐禅が求められる理由

ヨーロッパ、特にフランスやドイツは実証主義の民族です。神を否定し侮ったりはしていませんが、バイブルを神の心とし真理として信じていた時代から、確かに信ずるに値する実証性が求められる時代を迎えました。幾ら信じても信仰しても、一向に眼に見えて来ない神の慈悲と誠意に、期待し待っている信仰への精神力が尽きてきたのです。現実としては不安定要素が増すばかりで、世界中に起こる欺瞞も各種の闘争も増え続け、テロのもたらす残虐非道な行為は身辺を不安に陥れています。最早祈りによる不確実な期待など信じ信仰する気に成らなくなっているのです。この気持ちも様子も実に良く分かります。
 神は滅びずとも、信仰する人自身の心から神が消えているのです。信仰や神は外に有るのではなく、総て心に有ると言うことが分かっていない信仰だから、幾ら祈っても人格的な向上も救いも無いのが当たり前です。信心するその人の心が清淨にならなければ、どれ程観念的な祈りを尽くしても根本は変わらない、と言う事実です。この事に気が付いていない観念的感情的な信仰であり祈りである以上、混沌は免れることはないのです。だから混沌と信仰とは紙一重です。信仰から戦争が起こるのは、執着を神に対する絶対的信に高めたマインドコントロールの為です。
 禅に(少林窟の)触れた人達が目を見張り、熱い眼差しを以て期待するのは、身体を呈して修行すれば自然に自浄していく、その実証性にあるのです。確かに訪れる静寂は彼等が嘗て味わったことのない世界であり、不安感が消えて安らぎと、人としての優しさや温かさが自らの内に湧出してくる事実体験に痛く驚いたからです。
 今回のたった一日という短い坐禅でありながら、彼等の素直さと従順さは驚くほどの成果を出したのです。これは私自身も驚きました。他人の体験からではなく、自らの努力によって確かに得られる「道」。それが坐禅であるという確信にまでの信頼は、彼等全員の興奮に似た感動がそれを物語っているのです。
 彼等は以後、本当の坐禅をして自らが清淨に成ることによって、本当の神の心を知ることが出来るでしょう。邪心も拘りも迷いも執着も薄らぐに連れて、感謝と思い遣りと温かく素直な心に神を見るからです。そうなって欲しいと願っています。

ヨーロッパの教育界に届くことを夢見て

そうした期待から、二回目は来年は四月の中旬三日間、二十名まで。第三回目は、七月から八月にかけての五日間、五十名までと、具体的な計画が瞬く間に盛り上がりました。いよいよ本格的な少林窟道場の禅が始まろうとしています。而も、少林窟道場そのままを実践するもので、着物に袴姿の坐禅を輸出するのです。当初は作務衣で、その上に袴と言う出で立ちですが、これでも充分気合いが入り、その真剣みが目に浮かびます。
 その成果は必ず草の根的に広がり、遠からず教育界にも響くはずです。彼等は既に出版等を視野に入れ、社会的に良い風を送りだして空気を一新しようとしています。自らの国家が危機的になる前に、確実な精神基盤の確立を目指して救いたいという祈りと危機感があり、幾人かの人達は使命感さえ抱いています。日本発の禅精神が、世界の精神教育面に役立てればこの上ない法の幸いです。
 私は既に日本の幾人かから、こうした私の理念に共感共鳴し篤い期待を受けています。今、時節到来の感がし、静かながら深い思い入れに心が満たされていて、使命感と共に突き進んで行かねばと決意しているところです。自分の道であると共に、人類的使命に協力して下さっている士にも酬いたいと念じています。
 知らなかったとは言え、殆どヨーロッパの中心でありキリスト教文化圏に於いて、禅がこのように深く受け入れられる程、根本的救いの道が求められるとは思っても見なかったことです。と言うことは、確実な結果を得る正に実証文化の世界だからこそ、寧ろ当然なのかも知れません。フランスから始まろうとは驚きですが、実に結構な法縁だと喜んでいます。

フランスの精神現状(2)
心の開けは信頼と尊敬から

心の開けは信頼と尊敬から

 フランスの坐禅会が大変素晴らしいものであったことは既に述べた通りです。予想を遙かに超えた成果があり、少林窟道場の禅に対して、絶対な信頼を抱いたことは言うまでもありません。参加者の多くはインテリで、各方面のリーダーが殆どでしたから、次回からの参禅会は彼等の門下生が加わり、人数の膨張が問題化しそうです。茶話会では色々な質問が出た中に、これは面白いし有意義だと思ったのは、性の話しからです。セックスに関する話しは卑猥に語れば猥談になるもので、ある種危険を伴い問題化するものですが、命に関わり人類の将来全体に拘わることですから、私もつい熱が入りました。法の人が説けば皆法です。口から出放題をモットーに自由に説き来たり解き去った結果、結構彼等は感銘深く聞いていました。多分初めて耳にした大乗精神からの人間学は、可成りインパクトが有ったようです。
 その後が面白いほどオープンな雰囲気となり、色々な話しに展開し、益々心の開けが進みました。その底流を為したものは心の真実なる触れ合い、つまり深い信頼関係による親しみです。その後は、こんな事まで聞いて良いのかと言うような、プライベートではあるが全体の問題でもある家庭問題、教育論や夫婦関係など、真にユニークでセンスの良い質疑応答が続いたのです。心の真実なる触れ合いが非常に人間関係を良好にし、信頼親密が大きな解放感となり、その上での深い会話が知性や感性を満足させていったのでしょうか。希望を伴った信念がぐんぐん高まっていく、それが全身に伝わってくるのです。本当に皆さん幸せそうなお顔で、十二時になっても誰も帰らないのです。御婦人が多かったにも拘わらずです。
 結局はフランスとか日本とか、国籍や人種の違いなど問題ではなく、本当に豊かな心で安心して交わり語れる事の心地よさが有るか無いかが問題であり、この心如何によって平和に成るか否かなのです。これが一人々々の心に充分に有れば、総ての人々は幸せ観を共有し共感し合えるのです。世代の違いも関係なく、勿論お年の方も二十一~二の黒人女性も、みんな禅を通して改まった自分の存在感に、自らに感動し他者に感銘していました。こちらも同じく感動し、久しぶりにこの種の心地よい驚きを味わいました。考えてみるとこの出会いの因縁は、彼等にとって良い意味に於いて精神文化の転換期だったのではないか。自らを掘り下げると共に、現代社会の歪みと、過去の信仰に関する条理の問題に光を注ぎ込む動機になったことは確かです。

続く大事件が神を不在にする

その心的背景を為しているのは、同じ人間がしでかした幾つもの大事件を目の当たりにしたことです。それらによって不透明感を増し、大きく精神が揺らぎ人間不信と不安を触発したようです。神を信じ信仰する心のゆとりが無くなった理由も、ここに可成りあるように思えるのです。 薄らいできたベトナム戦争の悪夢を呼び覚ましたイラク戦争、ドイツ東西の壁が崩壊し、超大国ソビエトの消滅、チェリノブイリ原発事件、ニューヨーク貿易センタービル破壊から再びイラク戦争突入、パレスチナ・イスラエルの攻防等、皆独善性と傲慢なる主張や油断や人間不信による疑心暗鬼から、憎しみ怨の心へと増幅していった故の事件です。怨の応酬は最早人間の良心を全く失って凶暴化した、弱肉強食の野獣でしかない行為です。それらを目の当たりにして変化しない心など有り得ない筈です。 地球の位置や民族や文化の違いなど関係なく、等しく感じたのは人間に内在する、途轍もない横暴さによる不気味さ怖さではないだろうか。人の命を尊ぶより怨を果たす為に無差別に殺し、良心がありながら恨み憎み、殺すことに使命感さえ抱くことが出来る、同じ人間の心に一体何を信じれば良いのだろうか? 人間として誰しもが思いを致すところです。 こうした事件が世界規模で起こり、どの国も無干渉ではいられない危機的状況は、生活者レベルに於いても決して人事では済まされ得ない程、日常化した切迫感となっているのです。神の暖かさよりも、信仰による清浄な信念よりも、直接的な危機感によって心が寒々とするのは当然で、神の光も信仰の力も人間の深い業の厚い雲に遮られて次第に暗闇へと進行しているのです。

神を失うのは人間の業による

これは私見ですが、彼等自身ずっとバイブル上の信仰であり、それ以上の救いも神も存在理由も語れないし求められない歴史的状態にずっとおかれてきました。それ以上を語り、科学的真実を発見して語った人達は、極めて独善的で横暴な宗教裁判に掛けられて処刑された恐怖の事実がある。かつてのそんな決定的束縛と旧態依然とした神学理論からは、今日的納得のいく精神文化の開けも希望も見えてこないもどかしさが案に深まってきたのではないか。このような時代を迎えた今日の社会現象として、神有るが故に絶対的であった教会が崩壊して、単なる歴史的遺産としての公園になり、莊嚴厳粛な空間が一期に俗化していく様を目前に見た時、万能絶対なる神の威厳は、あっけなく崩れ落ちたに違いないのです。
 恐らくみんな無意識の内に感じ出したのは、自らが信仰していたはずの神への信仰が、実は体制によって作られた雰囲気や流れに拠ってそうさせられていたのではないかと言う無意識での思い。神の宿る教会が国家とその精神的絶対力を支えてきたのに、根本の教会が護れ得ない神が、どうして自分達庶民を救えようか。そんなことなど有り得ないではないかと思い始め、それも常識にまで一般化したかのように私には見えるのです。
 だから、もうそのようなお伽噺に似た信仰という縫いぐるみから抜け出たいのではないかと。詳しい説明を聞きながら境内を廻り、キリストの十字架姿の前に来てそれを話題にした時、一般論の正当性普遍性は常識として受け入れては居ても、キリストが万民の苦しみを一身に引き受けてくれた事に対する感謝と、その大きな慈悲に対する苦しみの共感は、もう色あせていて、寧ろ惨たらしい残酷さから怨と憎しみを喚起する血生臭さを感ずると言うのです。この感じ方は我々日本人と共通するもので、十字架のキリストから神の神々しき絶対慈愛は日ごとに消え失せているようです。これが今見る西欧キリスト文化圏の一精神的姿であり方向性です。キリスト教は確かに大きく揺らいでいて、各所に崩落が始まったようです。

ヨーロッパの信仰心はどのようにして生まれたか

現実である日々の生活には、不安も悲しみも矛盾も、時と所関係なく付きまといます。社会が低迷すればするほど人の心を傷つける要因も増大します。こうした現実から起こる諸問題からは、大概個人全体に悲しみや不安や苦しみをもたらせるものです。もはや既成信仰では何とも成らない事実があるので、便利な器具の恩恵の方に現実的救いを求めるのは正に時代性であり、自然な流れでもあるようです。嘗ては神と信仰でそれらを諦めることも出来たし、キリストへの感謝で心に光明が有ったのです。
 生まれながらに庶民の救いとなっていた当時の信仰は、時代として搾取圧政的な要素が濃厚であった為に、正に諦めこそが最善策だったのです。ひからびた諦めは惨めです。そこで神はキリストを使わして、万民の苦痛の全てを引き受けさせたのです。そこから恩恵と感謝とになったのです。今日一枚のパンに恵まれた事への有り難さを観ずることが出来るのも、キリストのあの悲壮なる苦しみを見せつけられたことによって起こったものです。
 その信仰は生まれた時から、その生活環境の中で無意識の状態ながらがんじがらめの内に投影され刷り込まれたものです。祖父母、両親、回り全体がそれだったし、国の政策として半強制的な形でもあったのです。権力争いの勝者にしても世代継承にしても、国の長となった時、神からの祝福と加護を必要とした為、必ず王自らが神に誓うその姿勢は、全国民を神にひれ伏せさせる極めて大きな心的拘束力持った儀礼でした。気が付いた時には既に神の僕になっていて、自発的求道精神によって培われた信仰者は極稀であったのです。その人達は神を失うことはなかったのですが、神を第一とする彼等は自然科学的真理と矛盾を来すことも多くなったことは事実です。神の真理はあくまで教理に忠実であり無批判をモットーにして信仰を保っているのです。
 面白いことに信仰している彼等の神は、次第に禅的に言う純粋、誠心誠意、無心、只管に近づきつつあるのです。彼等にはそんな自覚はありませんが、私にはその辺の心的位相がよくみえるのです。現象面の神の真理は既に非現実的であり非科学的で無視されるべきものが多いために、次第に精神面に限られてきたのです。そのために、真の信仰は苦しみのない世界であり、それは拘りの無い世界こそ神の世界として求められ始めたのです。その世界は最早観念的な空想世界としての救いではなく、あくまで自らが納得出来る世界は内にしかないと気づき始めた証です。真摯な信仰者が多く禅修行をするのはその為であり、信仰を超えた信仰へと質の大転換期に入ったことを物語っているのです。禅が受け入れられる精神基盤は、図らずもこの様な状況によって整ってきたと言えるのです。

文明の発達と教義の転換

 一方では今日的メディアの発達と交通手段の確立によって、現実に起こっている情報はリアルタイムで知ることとなり、誰もが自由に地球規模で移動するようになりました。結果を出さねばならない仕事や会議や観光などを活発化した要因がこの文明だったのです。この事は民族と異文化の合流でもあり、経済活動も含めて各人各様の意識と価値観と損得勘定の交流が激しさを増し、結果至る所で大小の対立を促す時代になったと言うことです。
 結果として無定着な人々が自由に出入することとなり、嘗ての定着市民の間に安定していた共通の信頼感や信仰心が、物理的強制的に掻き消されていく運命にあるのです。而も、他文化とコンピューターで代表されるように個人化する文明がもたらせた意識の変化の中には、追い打ちを掛けるような教義への転換も起こっているようです。 一つの例を取れば、人間は生まれながらにして原罪的存在であり、故に人間は生まれながらにして罪人なのだ、と言う神の教えは、神を出汁にして内的恐怖を抱かせ、彼等の思うように意を操られていた、という意識さえ生んでしまったようです。忠実に受け取れば暗くなって希望や躍動感を失い、現実はそうではないと知性に忠実で有れば、神から見放されていくというジレンマに立たされているのです。

ジレンマからの解放

こうして次第に神を失っていく今日、彼等の心は救われる道を持っていないのです。しかも求めている救いは単なる対象に祈るだけの観念的な信仰でもなく、従って従来的な神でもなく、もっと新鮮でもっとリアルな、もっと常識的で科学的で安心納得の行く救いなのです。先ず過去のそうした内的しがらみから解放されたい。そして自由に人生やら心やら社会やら現実問題を語りたいのではないだろうか。要するに、上からのお仕着せが無くなった今、外的には自由を得たが、刷り込まれた不気味な無意識的支配力の存在に気づいて、そのしがらみから抜け出たい、過去を脱ぎ捨てて本当の自然な自分でありたい、そう言う素直な自分でありたい、そんな要求が基本にある様です。
 今回の僅かな出会いの間に、いきなり剥き出しの自分をさらけ出して語らうことが出来たのは、坐禅と法話と語らいが彼等のジレンマを解決する糸口になったからです。ジレンマの本は、生まれながらに原罪を持ち、生まれながらに罪人だと刷り込まれた無意識の拘束力が有って、何処かで神を恐れている自分に気付き、それらに反発し始めた内発力でもあるのです。そしてそこに、確かに手応えのある一時の開放感が有ったのです。

真に救われる道

 生まれながらに原罪を持ち、生まれながらに罪人だと説く教理に対し、「私達人間は両親の深い愛によって生まれ、何の欲望も汚れも拘りも迷いも、苦しみも悲しみも憎しみも無く、最も美しく純粋な姿でこの世に出現した素晴らしい存在なのだ。つまり、人間に生まれるだけの徳があったからこそ人間としてこの世界に現れることが出来た。真っ先にその尊い存在の事実に感謝しなければ、宇宙的時間と良縁と愛によって与えられた人としての存在の自覚が無ければ、他の動物と同じことになる。だからこそこの現実への諸々の感謝は絶対に忘れてはならないのだ。 赤ちゃんから次第に成長するに従い言葉を覚え、概念を持ち、知性の成長に伴って空想力とイメージ化する能力を備え、言語や概念上の観念想像世界を真実と思うようになった。観念によるバーチャル世界を構築する頭脳を備えてしまったからだ。蓄えられた情報と経験知は、眼耳鼻舌身意の外部刺激に即発的反応をしてしまうために、如何に意識や知性や考え方、思想や信仰などを駆使しても、これらが〇.〇〇何秒早く反応して心を支配する。これが誤認の始まりである。これが体と心を隔てるのだ。而も何十億年の過去の進化過程で得た情報が、DNAとしてがっちり存在していて、自己絶対・他否定の心や弱肉強食の心が、恒常的に作用し支配している。だから状況によって忽ち戦争など、諸悪を起こすのが私達人間であり、私達の心なのだ。 だがしかし、総ての心は、今、この瞬間の出来事だし、本来前後がない。常に今、今しかない。今は最も新しく最も新鮮で、姿は変わりながら永遠に変わらない普遍の世界が今なのだ。何者にも絶対に侵されない自由な世界が今であり、それを体得した確かな体験が悟りである。この世界は偽物などは絶対になく、偽り欺瞞は一切存在しない。間違ったり偽るのは、自分の心に自分が迷っている人間だけだ。そこで本来の今、隔てのない本当の自分に目覚め、今のこのまま諸悪のない純粋精神であり、絶対安心の世界であることを体験的に実証することが大切なのだ。これが禅であり禅による絶対世界であり救いである。」 このような説法が、今の彼等に如何様な響きを為したかは、その後の邂逅に良く現れ、この私を感動させたのです。実証主義の彼等が求めていた救いとは、正に少林窟のこの法だったのです。

一輪の花は無限の実となる

 私は過去二千人以上の学者と接して来た関係上、一般の方々からの質問に躊躇する様な事は全く無く、又或る国際財団に所属していた関係上、四十カ国位国際会議で廻って来たことも、こうなってみると無駄ではなかったし、雑学も多様な経験もやっぱり役に立ってるなと感じました。坐禅の次に大切なのは、大いに勉強も必要だということです。多くの共通窓口が有る程、早く深く親しくなり信頼関係も容易になるからです。今後求められれば大いにそこで花を咲かせてみたいものです。「菊根分け、後は自分の土で咲け」と言う読み人知らずの歌があり、なかなか含蓄のあるものです。分けた菊根が他土で花開き、実をむすぶ。これこそが理想です。良き指導者を育て、彼等の言語と彼等の考え方や価値観に基づき、彼等の説き方で広めて、社会も国も良くなったら最高です。何も禅の言葉や仏教の考え方や説き方、しきたりなどを無理往生に統一する必要は全く無いのです。本当に隔てを取り、無我の大乗精神を得た後、地球規模に浸透すればする程世界は健全になり安全になっていくのですから。本当に彼等が努力して、更に自分に合ったより簡単に成り切る方法も生まれたら最高ではないかと思うのです。
 忽ちは彼等の民族性に根付いて、この精神が家庭にまで定着すれば言うことはないのです。ですから早く彼等の中で良き指導者が育まれて、彼等の指導の元でやった方がずっと効率が良いのです。只、菊根が根付き、一輪の花が咲くまでの指導はしなくてはなりません。自費を投じても。

法縁自在が彼等を包む

 従ってもし荒廃する教会と提携して宗教的に機能することが可能ならば、坐禅も朝課も礼拝堂ですれば良いのです。礼拝も各自自由で、仏教的も良し、キリスト教的に椅子で礼拝したい者はそうすれば良いではないか。只問題というか中心は、私達が自我無き様子を、五体投地の礼拝をもって現すだけで、それによって感じてもらうだけです。我が身を投げ捨てる、自から拘りを捨てた姿を形で現すことです。彼等はキリストやマリア様に五体投地をして礼拝する事は無い筈です。従って多分、恐らく自分たちの守り本尊とするキリストやマリア様を、私達が五体投地をして礼拝をするその姿を見て、彼等がどう感じるか。少なからず感動する筈です。敬虔に自己を投げ出して心から敬う姿と言うものは、異教徒の人に拝まれたとしても、決して彼等から抵抗も反感も買う事はない筈です。  それどころか、無我とは最清淨であり、全く最高の敬愛尊敬と奢り無き謙虚の姿であり、最も美しい姿であると感じ取るはずです。そこで、「神はこの最も美しい清浄な心を教えようとされていたのではないか。無我こそが最高の慈悲であり神の心なんだ。隔てさえなければ真に自由なのだ」と説けば、決して彼等の教義の中心線と相ずれる事はない筈です。つまり彼等が敬って大切にしているものは、こちらも心から敬えば何も衝突する要因はないのですから。

真の平和は正しい方法と正師に拠る

 お互いがそこから理解し合い、共存共感しあって行くのが自然であり理想的なのです。無我は対立のない世界ですから、無我であれば何でもいつでも拝めます。猫の糞だって私達は拝めるのですから。それは相手を拝むのではない、こちらに何もない純粋な姿でただ礼拝する。今是れ是れです。 対象や対立がなければ拝むとか拝まないと言う事ではない、「只」是の如しです。何時でも何処でも何でも「只」礼拝が出来るのが、私達の真骨頂です。縁に応じて淡々と最善を尽くすことが出来るのも、拘りのない「只」の力です。この大きな心であれば抱けないものはないのですから。
 地限り場限り、只是れ是れです。順風逆風も只是れ是れです。法でないものはない。神や仏の徳でないものはない。救いでないものはない。これが信仰を超えた信仰であり真の信仰です。神に依存せず、「只」誠を尽くすだけです。独立独歩の自己、絶対自己こそが本当の信仰であり、これが神の心なのだと。これを伝えたいのです。彼等が本当の神の心に出合い、真に安心を獲得し歓喜してこそ、信仰の本分を得たというものです。隔てが取れ拘りが氷解したら全てに親しくなりますから、自ずから信じる力、愛する心が漲ってくるのです。安心と感謝は大きな希望信頼になって輝くものなのです。その根本は、自分を本当に信じ切る力が有るか否かです。神や仏でもない、順風逆風も只是れ是れと行くか否かです。それは偏に正しい方法と努力に掛かっており、当然正師の指導無くしては有り得ないことです。だから真実の人作りが肝腎なのです。真の平和は真実の人作り、即ち良心を如何にして育て育むかにあると言うことです。人間本質の教育であり、本当の自律を促す教育しかないのです。正しい方法と正師が居て、真実の求道心さえ有れば、道は自ずから通じ開けていくのです。

人間不信は世界を闇黒にする

こういう大乗精神を持ち込んだものですから、彼等が新鮮に感じ、驚きとして響いても無理はなかったのです。これから全世界を早く平和にして行く為には、この大乗精神に目覚めない限り有り得ない事です。自分自身も相手をも信じる力が無い為に、憎しみや恐れの心の束縛からは免れないのです。従って武器を捨てるだけの信念も自信もないが為に、幾ら平和を唱えても戦争はこの地球から消えないのです。そう言う心の本の本を、どのようにしたら解決することが出来るのかを、人間の本質的問題として地球規模で取り上げねば成りません。全人類的教育課題として全世界の教育関係者も思想家も政治家も、あらゆる文化人、技術関係者も取り組まねばなりません。そこにまで反映させ得たら、説得する事が出来たらなと思います。その時、初めて武器を捨ててお互いが助け合って行く関係になるのです。つまり、超進歩的絶対平和観に到達して初めて、これこそは地球是也として発展していく時です。
 今は信じる以前に、対立と欺瞞と憎しみあう隔ての精神で心が立ち上がっています。自分よがりな精神だと言うことです。ですからどうあっても平和になる筈はありません。精神の根本が、立ち上げの瞬間から違うのです。この事をどのようにして知らしめるかです。ですから私達の使命は大きいのです。誰もが殺戮の無い世界を望んでいるはずだし、荒廃し続ける精神を憂え、健全な教育の建て直しを真に願っている少数組ながら秀才達は居るはずです。我々が希望を捨て人間不信を持ってしまったら、世界は闇黒になってしまうのです。どの手にしても大乗精神を培い、健全な指導者を育まねばならないのです。

菩提心、菩提心

その為に昼夜兼行の菩提心が必要なのです。努力のみが救いです。この努力は自分自身の仏や神を見出すためにどうしても必要なのです。自分を本当に知ることを見性するというのです。深く精細を加えてやって下さい。必ず道に目覚める時節があますから。菩提心、努力心無き社会は滅ぶのです。自らの良心が滅び仏も神も滅ぶからです。矢張り神仏は内に有るのです。心を通して神仏を体得するのです。神仏とは純粋な心です。無我と言うことです。汚れなく迷い無く悩み無き絶対境界が神仏の世界です。とにかく努力しかないのです。菩提道心を専らにして日々行持するしかないのです。

無常を観ずべし

 時には死ぬ事を実感することです。心底からぞくっとする必要があるのです。道元禅師曰く、「無常を感ずるの心も又菩提心也」です。この身体という道具は必ず死ぬ。焼かれる。消えて無くなる。眼の前の人も死ぬ。両親も死ぬ。子供達も死ぬ。思いたくない事だが現実ですから目を背けてはならないのです。何時死が訪れるか分からぬぞ。と言う緊張感が執着を取り心を清淨にしてくれるのです。娑婆気が薄らぎ、道を急がねばいかんと言う気にもなり、時が大切になってきます。これが菩提心に繋がるのです。大いに無常を観じて下さい。

人生無常一瞬の夢

無常が実感できる人は幸せです。恐れる前に、悲しんだり悔やんだりする前に、己を真摯に省みる力が湧いてくるからです。今生きている現実がある。未だ遅くはない。と言う自覚が得られるからです。人を愛し慈しみ合い、人を許し不幸も時節として受け入れられる心になるからです。悪口陰口を言ったりしている憎たらしい人も、喧嘩を売ってくる人も、やがて死んで居なくなる。自分も死んでしまう。と真箇に思えたら喧嘩するのも憎しと思うことも馬鹿馬鹿しくなってきます。ですから強く無常を感じて大きな心と深い慈愛の心を平素培って下さい。 心が小さくなり弱くなると、身近な小さい事に囚われて、つまらぬ事柄に苦しむようになるのです。何でもない過去の些細な言葉や態度に囚わったり、僅かな土地を争ったり、僅かな金銭を貪ったりするようになるのです。死に及んでは名誉も金銭も地位も何の役にも立たない。只、それらが気に掛かって苦しみを増す材料には成るでしょうが、馬鹿げた執着です。 ここ一つ、大きな眼で人生を達観すべきです。願わくば悠々と笑って死ねる様に、それこそが人間として完成された一瞬一瞬ですから。無常をしかと感じながら努力弁道です。即今、一心を練る事です。そして得たその力を、世界に打って出てで平和に役立てるのです。人類断末摩の声を聞かぬ為にも。その為にただ道のために道を行ずれば良いのです。今です。たったの今です。努力です。菩提道心に鞭打つことです。
  どこに散ろうとままよ落ち葉かな 着かぬ大地やあらめやも 
    さもあらばあれ。人世無常一瞬の夢。参。

経済支援をお願いできませんか

 一輪の花を彼の地で咲かせるべく往来するために、誠に不本意ながら、道の為にご協力を賜りたく慎んでここに懇願致します。
必ずやほくそ笑んで頂くよう、平和の光りの為に正法布衍をご期待下さい。

 平成十六年十二月八日  成道会の


ご喜捨ご芳名

平成十七年五月十六日田中美紀様 二万円
平成十七年五月二十六日中塚美紗子様三万円
平成十七年六月三日矢本極心居士三万円
平成十七年六月九日田中美紀様 五千円

 ご喜捨ありがとうございました。
少林窟道場主   井上希道    合掌

〔郵便振込先 01370-8-1609 少林窟道場〕