序
ここで大層な教育論をぶつ気はありません。ただ、人として最も安心し自信をもって堂々と生きることは、幸せの根元であり人生の中心ではないでしょうか。それは健全な身体と健全な精神なくしては有り得ないことです。遠い将来も含めて人類の健全な継続となると、健全なDNAと健全な染色体無くしては有り得ません。とすれば、人間を取り巻く文明と総ての環境をも教育課題として語ることになりますが、ここでは現実的に今しなければならない教育的課題、即ち人間の特性である精神と、その成立過程や因果関係を取り上げてみましょう。特に人生の最大課題である「幸せ」、それを少しでも多く得るための心得として如何にあるべきか。その精神的原点を明確化し、それを教育の中心課題に位置づけることによって、大切な人間性をもたらせたいのです。
単純化して言えば、幸せとは人々が心で観ずる味わいの世界です。個々の世界は個々だけのものですから全く客観性が有りません。客観性が無いだけに、幸福感は人の数だけ有って無限大なのです。日々、身体と知性と感性と、そして意志とが常に一体化して躍動している状態であれば、決して不快感も倦怠感も無いのです。実に充実していて満足感に包まれているのです。たとえ失敗しても損をしても、この状態に置いては完全燃焼していて総て納得済みだからです。
身体と精神とが本来の統一体として作用しているときが本当の自然体であり、これが幸せの原点なのです。どんなに社会的価値や生産性が無い事であっても、今、その事に真に充足していることが本当に幸せを感じているときなのです。経済的に貧しくて、衣食住がみすぼらしくても、心から楽しむ力さえ有れば最高なのです。
この状態にあれば、決して自己破壊的な邪な心は無いのです。なぜかと言いますと、最も自然であることは最も美しく輝いている時だからです。そこには純粋な躍動と充足感が限りなく漲っていて、決して対立的な気持ちや反社会的な心が一切無いからです。素直で純粋で、しかも何事にも情熱的に取り組む精神の状態は、何をしても、何もしなくても、自然であり心地よいのです。本来の心を育てるとはこの事なのです。そしてこの心は家庭から始まるのです。
では、如何様にすれば最も健全な心身の成長を得ることが出来るか。有るべき家庭の姿や親の心得。ひいては本来の教育とは何か? を、禅僧の眼で論じてみましょう。
健全な心は家庭から始まる
健全な家庭を育み、次世代を健全に育てるという基本的な大原則が、つい日常的に後回しにされた結果が今日なのです。社会が厳しくなり、更に加速していく忙しさにも大きな原因があります。ですがその様な社会事情の中であればこそ、健全な家庭を形成し保持しなければならないのです。そのためには、限りなく暖かい生きた心が必要です。家族全員、血が通い神経が繋がっているということです。それは常に秩序ある優しい心に裏打ちされた愛と使命感の込もった家庭ということです。個人としても社会人としても、子どもの責任者ですから、そこで育つ子どものために、無条件で常に暖かい心配りが必要なのです。そして社会全体が、子どもに対してはいつも子どもの視点で接することが大切なのです。
とにかく良い家庭環境であれば、その子が語り得ない心の影を最小限にくい止められます。有ったとしても真に理解する事が出来れば問題にはならないのです。こうして強い親子の絆によって、常に希望と躍動する逞しいエネルギーのもとに、自然のリズムで成長していくのが理想です。教育の源泉は親です。家庭です。親として人間としての温かい心で、家庭を形成することが大切なのです。今はそれがいつの間にか欠落してしまったようです。だから子供達が、人間としての心の方向性が育たなかった結果が現代の様子なのです。即ち、人間と畜生との鮮明な境が育っていないからです。ですから健全な倫理観も自尊心も育たないのです。
親の心が子どもの心
又親は正義の象徴的存在でなければなりません。親や社会が不正義であれば、子どもに正義感が育つ筈はないのです。社会正義とは一人々々の健全な倫理観であり、人間の尊厳が作用した姿です。ですから親は人間としてただしく、且つ美しくあらねばならないのです。当然秩序を大切にして生きている日常的姿が大切なのです。駐車禁止区域へ平気で車を乗り入れるような親が、子どもにけじめや社会道義などを育てることは出来ません。その様な家庭は反社会性が家庭生活全般に漂っているはずです。そんな家庭で育てば無意識に精神構造に刷り込まれてしまいます。可哀想ながらその子は歪曲した人格に育っていくのです。「してはいけない事をするような者は、健全な人間ではない。幾ら頭が良くても駄目だ。お前はあの様な恥ずかしい人間には絶体になるなよ!」と何気なく発して、善悪の基準を明確に教えることが大切なのです。この訓戒が親の心となるのです。
子どもは希望であり祈りであり、喜びをもたらすとても大切な存在です。それらの理想を一層高め実現していく道が教育です。ですから教育は夢でもあるのです。子どもは家庭から人生が始まります。確かな心を育てるには家庭を抜きにして有り得ないし、親の豊かな愛に依ってしか育たないのです。親はこのことをもっと深く認識し、健全な家庭を形成するための使命感を抱くべきなのです。
いま、私たちの地球は、避けて通れない幾つかの難問を抱えています。悲惨な民族紛争も、核や環境問題も人口問題もですが、超高齢化社会と共に不安感や孤独感を余儀なくされる時代を迎えました。どうしても解決しなければならない人類全体の課題です。いわばこうした絶対課題は、家庭から問題提起をし、一人々々が自己責任に於いて真実に生きる事の大切さ、そして惜しみない努力と協力精神を啓蒙しなければならいのです。学校に於いても同様であり、加えて知育・体育と共に、人類全体が信じ合うことの大切さや、助け合うことの尊さ等、地球規模の徳育観を育てなければなりません。でなければ安らぎの元である平和が来ないからです。そのために全教師が終始一貫して、常に力説すべきなのです。さすれば差別問題も虐めも自己昇華の形で解決されるのです。それが本人にとっても社会にとっても幸せだから、是非もなく実行してもらいたいものです。教師が絶対テーマを持たずして、個人的な思想や欲得をかがけて秩序を乱すなどもっての外です。
人格完成への努力は知育よりも遙かに大切なのです。真の平和を構築するものは知性ではないからです。やはり健全なる家庭が大前提です。幸せの基本要素は、何と言っても心身が健全であることです。簡単に言えば、どんなに高い理想教育であったとしても、心身の健康を損なうものは本当の教育ではないのです。そのような教育は地球上に有ってはならないのです。子どもの虐待などが起こるのは、如何に精神の成長が阻まれているかと言うことです。その様な人間に育てた家庭に問題があるのです。
子どもは社会の宝であり将来の夢です。今一度真摯に学ぶべきは、親としての自覚と心得ではないでしょうか。
英才教育の危険
特殊な英才教育は、時に大切な人間性を犠牲にしかねないので、一般的ではありません。犠牲を払って獲得したその特殊能力が、果たしてその子どもを、生涯本当に幸せにするかどうかは大きな賭なのです。英才教育を目指す場合には、特にこの点を注意する必要があります。生得的に備わっている才能は、条件さえ有れば自然に発露して伸びていきます。しかし、さほどでもないのに過ぎる期待を掛けて過度の特訓をすると、人間としての大切な要素が成長しないばかりか、人格の土台が歪んでしまうのです。特に子どもの成長は自然な流れです。それは遊びであり悪戯であり、競争であったり喧嘩であったり、勝ったり負けたりする自然の生活そのものが基盤なのです。しかしこれだけでは人間動物としての機能は健全に発達しますが、文化社会に適応するには不十分です。だからこそ国家レベルで必要な知育・徳育・体育をしているのです。ですが、成長は自然ですから、自然な発達に沿って、それぞれの教育をするのが一番大切なのです。特殊教育は、そうした自然の摂理を無視することが多いために、円満な人格に欠かせない、バランスをとる大切な精神要素を崩してしまうのです。
特に知性と感性は相互に深く関係し合っています。程良い関係を形成することが人格円満なのですが、それにはバランスを取る中間要素が健全でなければなりません。この様な中間要素の存在など誰も言っておりませんが、何十年も何千人も人ばかりを見て、そして深く観察した結果なのです。この中間要素が不備な精神は途轍もなく不安定なのです。どのようになるかと言いますと、自然現象とか事象の因果関係を知るためには純粋に知性の世界でよいのですが、人生はそうばかりではないから困るのです。IQが高く理詰めで何でも処理をする能力を実力とし誇りとしていますと、感情との兼ね合いを無視した脳構造になってしまいます。分かった、これからこれはこの様にしよう、と決心しても、感情が乱れてしまうと、分かった事と決心とが強い葛藤を起こして、知性自体がどうして良いか分からなくなるのです。知性が混乱すると感情が更に取り留めもなく動揺するので、精神全体が乱れてしまうのです。判断も決断も出来なくなり、布団をかぶって不安感に怯えるようになってしまうのです。これは極端な一例ですが、人との対話にしても、とにかく理屈で畳み込むことに全精力を注ぐ様な性格になるのです。言葉上のやり取りになり、結局は理屈で押さえ込む対話しかできなくなるのです。深い気持ちを察してお互い豊かな理解者になる、と言うことはとても出来ない人間になってしまうのです。いわば大変独善的になり、傲慢になり、変人になるのです。本人は大変気弱でありながらとても暖かく細やかな心遣いの人であっても、バランスシートが不備なばかりに、真剣になるとズレからこの様になってしまうのです。
例え頭が抜群に良くても、人として愛されず信頼されない人柄では、人生がとても寂しいものになります。例え勉強が出来なくても、真面目で責任感が強く、親切で暖かくて優しく、良いことなら純粋に協力し合い、忍耐強くて明るい人柄で、その上ユーモアがあって品性を大切にしているならば、狂気でない限りみんなに愛される人です。この様な人が多いほど、世の中は明るくなり安定社会となるのです。どちらが求められる人間像でしょうか。必要とされる人でしょうか。角を矯めて牛を殺すような教育は、幸せをどれ程勝ち取れるでしょうか。
健全な教育は円満な人格を形成する
身体は人格の器であり、人生するための大切な機能です。健康と言うだけではなく、少々無理の利く逞しくて鋭敏な身体であることが不可欠です。存分に機能を発揮させてこそ理想に近づくことが出来るからです。従いまして幸せの基本は、先ず心身が健康であることです。そして極普通の共存生活が円満に出来得る、人間としての基礎力が必要なのです。立派な人とは、円満な人格と教養を身に付けた信頼に値する人間、と思えばよいのです。円満な人格とは、自分で深く考え、自分で判断を下し、自分の行為に対して完全に責任のとれることが第一の条件です。そして他の人格を自然体で認め受け容れる、柔軟で広い心の持ち主を言うのです。これは円満に共存していく上でも、信頼を形成するためにも必要絶対条件です。いわば人間としての条件であり人格の基礎です。そして上述した人柄であり、尚我欲がなく、純粋な理念に従って純粋に行動する人であれば、当然誰にも愛され尊敬されて、良きリーダーシップが取れる人です。
本来の成長に従って健全に且つ円満に育まれたなら、身体の発達は勿論、自然に円満な人格が備わるのです。社会は健全な人格を持った人の集合体であることが最も好ましく、秩序と信頼が基盤であれば、極めて安定した社会なのです。社会は構造の質が上位条件ではなく、あくまで円満な人格が上位条件でなければ不安定なのです。社会と個人とは決して対立的でも対照的でもなく一体です。個人を抜きにした社会はあり得ませんし、逆も又あり得ません。従って、教育は常に全体の幸せを目指しているものです。その基盤である円満な人格形成を抜きにしたら、教育ではなくなるのです。
育てると言うことは
教育の基本は、その子の天分が自然体で存分に発露出来るようにすることであり、そのためにあらゆる条件と手段をもって接することです。言い方を変えれば、必要な環境条件を整え、必要な時に必要なだけ与えることです。限界を超えたことは絶対にしないことです。赤ちゃんには赤ちゃんの適正があり、その必要条件を整えて与えること。これがその時の親の役目であり愛情です。これが「育てる」と言うことです。
やがて的確な意志表示が始まります。とにかくその子にとって最も自然であることが基本です。総ての条件に適正を持って対応することです。ここで言う自然とは、興味の赴くところに従って躍動することであり、自発性に任せることです。ほぼ同年代の仲間と自由に遊ぶことであり生活することです。互いに刺激し合って次の精神要素を引き出してくれるからです。外圧や一律化したプログラムの押しつけではなく、成長度合いに従って本人達が反応していくのです。ですからどこにも無理がない、これが自然なのです。これが最も美しく、最も健全な成長をするのです。
自然の環境では、子供達が数人集まると次第に知恵が結集して、みんなが無我夢中になって遊びます。互いに干渉し競い合うために、負けまいとして自然に躍動するのです。ここが大切なところです。完全な統一体こそが理想の姿だから素晴らしいのです。そうした成長が一番安定していて、身体的にも知的にも人格的にも、その時その子が持つ要素が最も均衡のとれた状態です。しかも平凡ではあっても個性的に成長しているので、どこかやはり非凡なのです。他を認めながらもそれらに流されない、ちゃんとした自分の対処法を形成しているのです。
互いに競い合うことによって、自由精神と自発精神が自己啓発型となって発達していくのです。ここが見落とされているところです。無知蒙昧さが無く、流行に流されない独立精神が育つのです。これが自立の元なのです。
ここで絶対に間違えてはならないことは、何もかも自由でさせっぱなしが良い、と言っているのではないことです。後で自発と我が儘についてお話ししますが、健全な自発精神にはちゃんと方向性があります。間違えると我が儘になってしまいます。その分かれるところが問題なのです。信じて任せてもらいたい、と言う単純で至極当然な願望があります。それは早く一人前になりたい、認めてもらいたい、勝手にしたい等、いちいち指図されたくない、言うなれば自立願望と同時に抵抗が内心に働いています。これを見逃して、いちゝゝうるさく言い過ぎ管理しすぎても、逆に本人任せで何もかも自由にさせておいても、自律どころか大変厄介な事になってしまいます。どちらも健全性に欠けて、知性と感情と意志の結合が壊れてバランスを崩すので、成長が歪曲するのです。自分のすることは親が総て認めているから何をしても良いのだとして、無知性無判断の余地を与えるために、したい侭をするようになってしまいます。それが怖いところです。
「これがちゃんと出来なければ一人前ではないのよ」「後で困ることが分からないのは、まだまだ赤ちゃんなのだよ」と、事に当たる度にこうした話をするのです。すると、自立願望によって自発的にちゃんとしようとします。そこをまた見逃さず、「もう一人前に出来るのか。ちゃんと出来るんだから立派だぞ」と褒める事が大切なのです。こうして、しなければならない事と、してはならない事を、本人が明確に認知し易い形で会話をするのです。そして、自己啓発型で実行するように任せるのです。信じているのでしたらそれ以上言ってはいけないのです。
成長に伴って必要条件が変化するのは当然です。やがて知性と感性が整うに従い、多くの言葉を覚え、その意味する概念が拡大します。精神の構造化がすすみ自己存在が明確になるということです。それは自己増殖し成長発展を続けていく基礎となるものです。この時の教育の重点は、啓発力の逞しい精神を育むことです。「なかなかやるではないか。努力せずして手に入るものは無いからな。身体に気を付けて頑張れよ。物事には順序があるので、計画性が大事だよ。目標を立てることだ。もっとも大切なことは人として立派になることだぞ」と方向性を示すことです。さればとても自由で、公益性の高い考え方をする人間になるでしょう。かくして、自然に自信も安らぎも自尊心も健全に育くまれていくのです。いわば教育はしっかり自律することにあるのです。当然誰にも愛され信頼され、大切にされる人になります。矢張り愛され信頼されることは最高の幸せではないでしょうか。
この願いを込めて、智慧を授け、技術や伝統を授け、考え方を、そして情報を整え与えていくのです。ただ教育の大原則は、どんなに素晴らしい内容でも、身体や心を壊す教育は間違いだと言うことです。したがって折檻をして殺すなんてとんでもない話です。それが如何なる美名の教育であっても許されるものではないのです。
褒めること、叱ること
禅門には警策(きょうさく)と言う仏具があリます。これは坐禅しておる者を叩く道具です。かようなことをするにはそれなりの深い意味があるのです。禅修行は個の戦いです。本人が自己に向かって本当の自己を求めることです。ところが修行の初期はどんなに熱心に頑張っても、雑念一つ切ることすら困難です。通常の努力はしれたものです。ここが大事なところです。一番厳しいのは兎に角ほったらかしにするのです。それでだめな者はもうだめなんです。ところが団体の場合はお互いが刺激しあってボルテージが上がって行きますから、初めはやる気が無くても流れができてしまうのです。この心的状態を自ら導き出す人が偉いのです。自分を叱咤激励してボルテージを上げるのです。けれどもなかなか強烈な努力心は出てこないものです。それを助けるのが警策です。警策を適正に用いることは修行を円満に導く手法です。警策を入れるのは修行を愛する故に行われる大切な仏道なのです。真剣には違いないけれども、本当の努力心ではない。まだまだ三十パーセントしか出てないじゃないか、ということが経験者には分かるから出来ることです。だがその時の本人はそれが精一杯だと思い込んでいるので、もがくことになるのです。これは苦しいことです。
何故、完全燃焼でもないのに、ぎりぎり一杯でそれ以上やりようがないなどと思ってしまうのでしょうか。それは身体と知性と感情と意志とがばらばらだからです。知性では、やるぞと思って意志に反映させようとしても、身体や感情が着いてこないから本当のやる気が起こらないのです。身体丸ごとその気にならなかったら、身体は物体のままです。と言うことは活動体に成っていないということです。精神力が燃焼していないから、発刺とした行動エネルギーに転化しないのです。でも、本人はそれで精一杯なのです。これは精神衛生上最も良くない現象です。これが長く続くと「自分は駄目人間なのだ」と確信してしまい、自信が持てない人になるのです。
この様なとき、外圧が必要なのです。肉体的心理的に強烈な刺激を受けると、しゃきっとして余分な壁がぽろっと壊れて落ちるのです。その途端に心身統一体となり、ばらばら現象が瞬間に治るのです。それによって目的に邁進できるようになり、修行がいっぺんに楽になるのです。もう一つ高次で言うなら、走る馬に鞭を与える、と言う場合があります。ここ一番、思いっきり踏ん張れば向こう岸へ飛び越えられる、というときには、親や師匠や友人は悪辣の手段をこうじて、大目的を成し遂げるべくやるんです。これは命懸けで修行する上での話ですから、それ以外の目的にしては成らないのです。虐待もしくはリンチや虐めでしかないからです。
叩く叱る褒めるという事は、言葉にしろ警策にしろ刺激に違い有りません。根底の目的は強烈な刺激によってバラバラ現象を纏めて、健全な状態である統一体にすることです。すると迷いが吹き飛んで心がきちっと定まり、努力の効率が飛躍するのです。その効果が上がるようにすればよいのです。本人がこれによって救われることが大切なのです。ですから、叱るべき時は叱ることです。褒めるべき時は勿論褒めることです。これが適正というものです。言葉は大切なものです。一言で救われるし、たった一言が人を駄目にすることもあるのです。警策は瞬間的に身体が痛いだけですが、言葉は魂にぐさっと来て、生涯消えないこともあるのです。単なる言葉に過ぎなくても、その持つ刺激性は考えている以上に大きなものです。だから褒めることも叱ることも、使い方次第で薬にも劇薬にもなるわけです。
教育とDNA
年歯もいかない赤子の教育から幼児・児童教育。低・中・高学年教育。青少年教育等々。逆戻りもしばし待ても利かない成長過程に対応するのが教育ですから堪りません。そのうえ何と言っても自然な健全性と、適正を得たものでなければ毒になるのが教育です。しまった、拙かったからやり直そう、が利かないのも教育です。基本として考えなければならないことは、単細胞の生命誕生から発して三、四十億年。その間に一度も途切れることなく生命進化をどけて今日の人類があるわけです。胎児時代のたった十月十日で、数十億年の経過をそっくり復元して、新たな身体にDNAを刷り込むのです。その進化過程にそれぞれの生物としての歴史と経験があり、その時、その折りに刷り込んで貯めてきた経験情報が、細胞の隅々に到るまでびっしり有るということです。これが我々の生命維持に関する本能も含めて、基礎潜在意識です。これを皆持っていることを忘れてはならないのです。
それが進化過程に於いて、知性の巨大発達に伴って情報の処理方法が大幅に変更したため、多くの動物的能力は自然衰退したのです。ところが偶に先祖帰りをして、とんでもない過去世の能力が蘇る人もあるのです。とにかく生活する上で、他の機能が更に磨かれ発達したために必要が無くなり、深く深く潜在してしまったということで、その機能が消滅したと言うこととはちょっと違うのです。つまり完全に消滅したと言うより、通常では顕現しないほどの奥に内在しているのです。即ちDNAにそっくり有ると言うことです。
人間にも凶暴な野獣勢や残忍性が有るのもそのためです。襲うとか殺意とか自己絶対・他否定の精神は、総て過去世の経験的情報であり、本能と直結しやすい物騒な作用なのです。残念ながら人間は、知性による統理能力よりも、感情作用による衝動力の方が強くて大きいのです。それはスピードもありエネルギーも高いからです。どうしてそうなのかというと、感情機能の方が先に発達し、その上に依存する形で知性が発達したため、生命力と感情エネルギーが直結しているからです。道理よりも感情によって決定し行為することが多いのです。特に民族が危機的状況になると、殺るか殺られるかという判断しかできなくなるのも、知性に元ずく霊性人間から、恐怖や怒りに元ずく感情が支配して動物人間になるからです。このことを良く弁えておかねばならないのです。
教育とは、根底に内在している怖い動物性作用を顕現させぬように、精神構造を確立していくことなのです。つまり、健全な知性と人間らしい豊かな感性によって、心を常に美しく優しく暖かく安定するような構造に育てることなのです。人間が動物であることをもっと重く観ることです。
潜在意識と刺激反応
精神要素に関しても、矢張り同じ事が言えるのです。人間は過去世の生物時代に獲得した能力が具わっています。感じ方一つにしても実に多くの内容があります。生まれたとき表層の一番近くにあった機能が、耳や目や身体を通じて刺激されれば、それに反応する形で表に現れてきます。そしてそれが意識となり情報となり、どんどん構造化します。そしてそれ自体が性格となり精神となっていくのです。したがって生まれて間もない赤ちゃんと言えども、何も分からないだろうと思って乱暴に扱ったりしますと、それに誘発されて表に現れるので、何よりも注意深くしなければならないのです。
つまり潜在している動物的な精神要素を真っ先に刺激し、精神の根底に焼き付けることになるのです。だからあらゆる不自然な刺激は、理屈無しに危機感となり警戒感や恐怖感となるのです。生まれながらにそうした動物的感情が定着し性格に成ってしまうのです。このことをよく知っておかなければなりません。そうした感情は本人を常にびくびくさせていまから、その手の刺激が激しいと身体が呻吟し硬直さえするのです。つまり、本能は生きることとその永続性に最大の使命があります。命を脅かすと、生き物としての防衛反応が一番刺激されると言うことです。結果として身を守るように反応するのは当然です。そしてそれに対応した精神要素が随伴してくるのも当然です。本人が参ってしまうか、切れて爆発するかのどちらかで、とんでもないことが起こるのです。やはり適正な環境で健全な成長をもたらすこと以外には、本当の幸せを感じるのは難しいと言うことです。
時期と刺激
ところが、ある時期までふんわりと自然に育てますと、適正の条件が当然ながらとても違ってきます。胎内の如く安らかで安定した環境が、ある時期までは必要なのです。刺激は一切除去して、お父さんお母さんの間で安らかに、安らかに過ごしておりますと、見聞覚知をもたらせる神経系統が成るべくして成ってきます。自然な成長に伴って聞き分ける、見分ける、認知する健全な知能になるのです。
刺激の強い環境で育てた子供と、ゆったりと育てた子どもとは、知性と感性との関係に於いて大変な違いが起こるのです。又、目・鼻・口・舌等、各感覚器官が独立して機能し始めた頃からは、色々な言葉を用いてどんどん話すことです。話し方は、子供が聞いて心地よいような音量と速度が原則です。そして目をじっと見て話すことです。赤ちゃんは親の目をじっと見つめて聞いています。無心に心を一点に置くこと、親に焦点を合わせることが大切であり、その力を拡大するように育てることです。とにかく一番自然体で、一番心地よい状態で話すことです。抱いたり下ろしたりする一つ一つの行為も、絶対安心を壊さぬようにすることです。
ある部族では、空腹感が究極まで募ってから乳や食事を与えるんです。その前に骨を与えてしゃぶらせたりするのです。そうすると美味いとか不味いとかを言わずに、兎に角与えられた食事をむしゃぶりついて食べる。そして睡眠時間もきちっと軍隊式にやっていくんです。でその部族はどうなったかと言いますと、統率力に優れ、畑を耕すのでも上からの指示に従って言われたとおりに一列に並んで整然と行う。ところが対立的闘争的な性格で、部族としてのまとまりは優れているが、対外的には非常に攻撃的排他的で危機感を与えるそうです。
又別の部族では、赤ちゃんが空腹で泣くと直ぐに乳を与える。大変温かく子供の成長をみまもっていく。個々の親が個々の成長を大事にする。この部族の精神性はどうなったかと言いますと、非常に友好的ではあるけれども組織的なまとまりとか秩序に欠けている。攻撃的ではないけれども全体性の意識が低く、個人主義になり全体を守ると言った社会性に乏しいと。現実にまだそういう部族が存在しているらしく、教育を考える場合とても深く示唆するものがあります。
我が儘と自律と分かれるところ
人間は牛や馬のように調教をして育てるものではありません。その人が本当に自分で考えて、そして自分で決断を下して、そして自分の意志に従って行動し、自分の全ての行為に対して責任が取れるように育てることです。これを自律と言い成長と言い、人間性の基礎と言うか、これが具わって一人前と言うのでしょう。
大切な人間性が具わっていなければ、共存社会にあっては通用しないのは当然です。何故ならば、人としての基本ルールが守れ無くては、信じ合うことが出来ないからでです。それで知的教育よりも自律を重要視しなければならないのです。またその意義を理解させることも大切な教育です。その上で個人の意志や理想や傾向を尊重して延ばしていくのです。そこで問題となるのが、個人の意志の中に、我が儘と自律との分かれるところが問題なのです。
自発性と遊び
子どもは興味に依って行為します。それは自発性そのものです。ですから遊びはとっても大切な要素です。子供から遊びを奪い取ってしまうと、健全な成長は全く無いのです。成長発達の原点は、すべからく興味を持つか持たないか、遊びを存分にするかしないかから始まるのです。刺激に対して心を取られるという心的現象です。心を取られるからその事ばかりになって我を忘れてするのです。この時、寒さも知らず、眠気もなく、空腹感も善悪も自他も何もかもないのです。身体と知性と感性と意志が解け合っているからです。これが一番安定し充足し完全燃焼している様子です。この精神状態が最も完全なる統一で、人間として最も健全な自然体なのです。不純も無く貪欲・瞋恚・愚痴も無く、悲しみも恨みも何も無いのです。「今」「ひたすら」「その事のみ」しかない「完全統一体」で、自己を越えていて、無我なのです。ここが尊いのです。本来から言うなら、未分化の世界であり、天然自在にして無垢の様子、最も美しくて強い、最も価値の高い存在です。人間として最も素晴らしいこの心の重要性を知って欲しいものです。そして何よりも重大視しなければならないのです。これが本来の人間を育てる教育なのです。この完全なる統一体は生まれながらにして具わっているのです。子どもは本来皆そうなのです。ですから出来るだけ本来を傷つけることなく、更に自然発露するように環境整備をすればいいのです。
この様に、子どもが物事に夢中になることは、自発性をもたらせることであり、健全な精神を意味します。そのことは未来が一杯だと言うことです。無反応であったり無関心であったり無気力であったら未来は暗いものです。只漠然と見るだけのテレビ依存性となってしまうと、人間性は育たないのです。
健全な精神の発達に不可欠なことは、刺激に対して鋭敏に反応する事です。その時その時に興味を引く刺激は、子どもならではの世界があるのです。それに向かって直線的に行為することが大切です。即ち刺激と興味と反応行動とが滞ることなく展開して、常に輝いていることです。我を忘れてその事に没頭することを言うのです。知性と感性などのバランスシートはこれによって発達し、これ以上に確かな成長を促す方法は無いのです。これが中間要素なのです。これも全く問題にされていませんが重要な要素なのです。
この自然発生的な単なる遊びが、身体を通して知性と感性を刺激し面白味となるのです。それが自然に知的興味になり、そのまま科学性に発展していくものです。即ち、物事の関係性を体験的に知ることが出来ることです。次にそれを法則化して情報にする、まさに知力を鍛える事なのです。これが健全な認識力の基になるのです。深みと幅のある精神の発達は、仲間と共にこうして自然の中で存分に遊ぶ事によって育まれるということです。
子どもの頃はたとえ小さな経験でも、それに依って非常に大きく生長することがあるのです。大勢に興味をもち鮮やかな反応行為が続くことは、未知なるもの、知らざる世界への探求心、そうした思考力や想像力の成長を促し続ける事なのです。こうした心的状態ですから、親がする事、人がする事、先輩がする事、新しいこと、珍しいこと等を見るのに、見方が違うのです。飽きることなくじっと見入る心の深みが育つのです。ですから人のする要領ややり方などを見て取り、すぐ自分のものにしてしまう力を、いつの間にか自然に備えているのです。遊びでありながら、常に学びの姿勢にあるのです。今時の高校の先生は、風呂もよう炊かないし、後片づけをさせても小学生並ぐらいしか出来ません。何が間違ったかと言いますと、子共の時、本当の子どもをしていない、たったそれだけの違いがとんでもない差になっているのです。
本当に自然に育つことがどれ程大切であるかと言うことです。人格の基はこんな何でもない自然の中から育まれるものなのです。ここから生まれた倫理観や世界観でなければ本当ではないのです。健全な遊びが如何に大切であるかです。そのためには遊びが出来る健全な環境が無くてはならないということです。
知的興味から霊性へ
勉強であれ食事であれ、その事に興味を持つことが自然であり大きな学びです。食事においては、「食事は遊びや興味と違い、命を養う大切なことだから、慎みも感謝も忘れてはいかんぞ」と、心得を明確にしておくことです。食事をすることは具体的な現象であり作用ですから、おぼつかなさが取れるまでは充分に機能が発達していません。ですから箸の持ち方以外は自然にしておくことです。箸も自由に使いこなせるようになった時から、品性や尊厳性に気付かせていくのです。先ず、気品とは何かを感じさせることが必要です。その手本は親ですから、親は原則的なマナーはきちっと押さえていなければなりません。全身で感じ取る時期には、両親がしている通りをそのまま身に付けていきますから、何の説明も要らないのです。
だめ押しに、「お母さんの食べ方をよく見てご覧ん。こうやった方が格好いいのか、こうやった方が美しいのかどちだと思うか」と見て取る基準値となるラインを感知させるのです。「それはお母さんがしているように両手でこうして持って、こうして頂いた方がよっぽど綺麗に見えるよ」となるのです。どちらが美しいかは見ればちゃんと分かるのです。「○○ちゃんはちゃんと判断ができるんだから立派なものだ。自分のその判断を信じなさい。そしてその判断に素直に従いなさい。その様にしてごらん。出来たら一人前だから」「君が一番美しいと思ったようにやりなさい」「人のやってることをよく見なさい」「お母さんよりもっと美しい人がいたらそれを真似なさい」「中には非常にいやらしい、みっともない食べ方をする人だって居るんだから、それも悪い手本として、自分はああなっちゃならないぞ、という手本にしなさい」
これらは自分がどのようにしたらよいかの具体的な方法です。まずその心構えであり、自分の振る舞い方に興味を持つ事です。自分を見つめることなのです。やがて芸術的な美しい食べ方を心がけるようになるでしょう。こうした食事をしていると、総てに通用する基本的な心構えが身に付きます。自然にそうなっていますから、親が知らないところで驚くほど立派にお客様をしているものです。これはちゃんとした大人になりたい、一人前になりたい願望が、実際にしてみたら何となく大人気分。それは自分に寄せる大人の雰囲気が、子ども扱いとは違うからです。一人前に対応してくれた、存在の尊厳を認めてくれた心地よさです。親に対し密かに尊敬を抱き、親を心から誇りに思うのもこうした動機からなのです。
このように礼儀を通して精神性の深みを感じるように、食事を文化に高めるように興味をそそるのです。やがて霊性が心の底に行き渡って、部屋の格、位置の尊厳なども見えてくるようになります。 散漫な家庭で育った人の食事は動物人間のままで、まるでチンパンジーです。箸の持ち方にしても茶碗の持ち方にしても、知性も神経も届いていない姿は、飢えに対する餌で、凡そ食事ではありません。犬猫が人間動物なだけで畜生と同じです。食事と言うことの意義が分かっていないからです。「ほっといてくれ。勝手でしょ!」という現代の自由は、原則である人としての自覚が無い。生まれてよりそんな屁理屈が言える歳まで、本当に興味を起こして、本当に楽しみ感動し充足したことがない育ちをしていれば、精神構造は極めて劣悪な状態です。どこまでが畜生で、どこからが人間なのか、その違い、その区別、その境界線が極めて微弱なのです。
人としての尊厳が自然に台頭し、健全な姿で構造化する時期は初恋前後なのです。そして何でも興味を持って直線的に行動するときです。が、中から吹き上がってくるそれらの要素が歪曲させられたら悲劇です。何となれば、修復を可能にする自然環境や仲間がいないために、現代ではむしろ歪曲増幅時代だからです。だから子どもらしくいろんな事に興味を持ち、自然の中で生き生きと遊び回る事が大切なのです。意気軒昂ですから歪曲なんかしている暇はないし、少々のつま付きなんか問題ではないのです。 自発して遊ぶ中には、必ず知的な領域と願望が潜んでいます。知恵を使ってより楽しくしようとしています。ちょっとアドバイスするとか、褒められることで心がほっとし力が湧いてくるものです。信ずる兄弟とか親、先生に誉められるととても嬉しいものです。同時にこれでよかったのだという自信になるのです。
子どもの興味には勿論悪戯も沢山あります。が、悪戯をさせないように行為自体を制止することは出来るだけ避けて、他に迷惑にならないように智慧を使うことを教えるのです。「君らは大変面白いことをしているな。怪我をしないようにね。そのためには注意力が大事だな。総て自己責任だぞ。ところで上がってくるための工夫が足りないね。この確かな木にロープをくくって下へ垂らせば、それを伝って上がれば早いし、安全だし、楽だろう。私のを貸して上げよう。ちゃんと返してくれればいいから」とか。「もうちょっと考えたらもっと楽しいぞ。こういう結果になったのは、ここのところが拙かったからだよ。こう言う事をするときは、許可をもらうことだね。許可の貰い方は、使用目的と、使用時間と、使用する人と、責任者と、連絡先を書面に書いて、どうかお願いします、と言って皆で頭を下げてみなさい。反対する理由が無い限り許可してくれるから。そうしたらこそこそしたりしなくて済むし、ここにある施設や道具が使えるじゃないか。但し、責任は皆できちっと果たさなければ二度と使わせては貰えないぞ。それが人間のルールだからね。」
こう言うアドバイスして後は自由にさせることです。興味が興味を引き、経験と快感が心を膨らませていくでしょう。まっしぐらに突っ走って行く中に、単純明快ながら知性は健全に発達していくのです。遊びから物事の社会性や責任の取り方なども学べたら素晴らしいではないか。子どもの時は子どもをするのが自然なのです。それを健全にさせながら自由を謳歌させる、これが本当の教育です。なんとなれば、これが最も逞しく健全な精神の成長をもたらせるからです。
我が儘の基は何か
ところで興味と反応による自発性が大切だからと言って、家庭に一切のけじめ無き生活は、精神の構造が極めて粗悪になるので注意すべきです。子どもの全てがそれで良しとしたら、後で取り返しが就かなくなります。「うちの子供はとっても偏食でこれしか食べない」という様な結果を出すまで動物的なままで置いたら、それはそのままが癖付いてしまって、生活半径が狭く浅い性格となり、我が儘放題の基とになるのです。何故かと言いますと、親も許しているのでそれで良いと思い、脳構造にそのまま固定して回路となるからです。そう言う風に大脳に固定化してからでは、それを改めるにはとっても手間を食うんです。
親は子どもの傾向を、生まれ落ちてからずっと見ています。食に対しても、人や物や動物に対しても、速度を初め色々な反応の特徴的な傾向を知っています。若し、それが見えなかったら親になる資格は無いのです。それであまり野菜を食べないなと思ったら、意識の転換を計るのです。どうするかというと、
「食事の食べ物は好き嫌いなど言ってはならない。何故かというと、全ての食べ物は命だからだ。野菜にしろお魚にしろ果物にしろ、皆命があり生きていたのだよ。それを、私たち人間が生きていくために仕方無しに頂く訳なのだ。本当の事が分かればこのくらい残酷なことはないのだが、この地球で生きるとは、この様に他の命を頂いて活きなければならない宿命なのだ。だから申し訳がないと思う心と、でも頑張るから許してね、と言う心が無くてはいけない。この事が分からない者は人とは言えないね。君なら分かるだろう。
だから食べ物を好き嫌いをして粗末にする者は、仕事も人も好き嫌いの心に振り回される人間になるぞ。そんな人間は人を差別するようになる。その事は人間として最も恥ずかしいことなんだぞ。早い話が罰が当たるぞ。だから食べ物もだが好き嫌いの心で、物事を決める人間にはなってはいけないぞ。
とにかく、お父さんは一生懸命働いてお金を頂き、それでお母さんが一生懸命私たちに食事を作ってくださるのだから、これは謹んで有り難く頂戴ことだね。それが食事の精神なのだよ。だから好き嫌いで食事を云々しちゃいけないよ。それは本当の人間のする事じゃないんだから。野菜を作るお百姓は朝から晩まで、暑い日も寒いひも田畑できつい仕事をされるのだよ。第一、お母さんが作ってくれなければ私たちはとても困るのだよ。そうだろう。感謝無くしては頂けないのが食事なんだ。それに野菜を取らなかったら具合の悪い体に成るんだ。色々な病気になるようなね。だから食べる必要がある。良く噛んで食べてごらん。それぞれの持つ美味しさが有ってね、それを深く味わう様に食べるのが本当の食事なのだ」と。
平素お父さんが、奥さんに感謝していただいている家庭であれば、このように語ればたちどころに心の姿勢が変わるのです。それも大変高次に。それから食べ方の作法も、箸の持ち方、お茶碗の持ち方、両手で頂くとか、全てにわたって美しく品良く対応するポイントを話しておくのです。そしてしっかり噛む。何度も何度もよく噛むと唾液と混ざって何でも美味しくなること等、食事に関する美学から倫理的な教訓を語るともなく語るのです。素直になっていますから、すいすいと浸透していきます。心に広く尊厳性が培われるほどに、確かな人間性が育つのです。我が儘にさせては可哀想ですから。
我が儘は精神構造に問題
好き嫌いのまま、本人の欲するまま、言うままで行くと、本人はそれが自然ですから、心の構造が人間的要素を持たに固定するのです。すると無自覚のまま自己中心に働く性格になるのです。我が儘とはこの事です。ですから本人は自分が我が儘とは思っていないのです。それは健全な構造ではないが故に認識力も曖昧で、結論はどうしても自己中心となるのです。当然バランスシートが育っていません。だから気に入らねばすぐ反社会的精神となり、それがまた増大していく構造だけに、質の悪い心になってしまいます。自発性とは甚だ違うのです。
このように、自発性と我が儘との境目は、よくよく見極めなければ成りません。より高次に、心の環境とその領域が、美しく、且つ自己増殖的に広がるように、けじめを大切にして自然の速度で育てるのです。けじめとは、そのつどそのつど、人間としての規範を正しく踏まえているかどうかを判断し、適正を忘れないことです。
何でも適正が大切です。まずはその子供の傾向を見いだすことと、常に変動していますから、「今、その様子」を確実に把握することが大事です。ですから親になるべくして親にならなきゃいかんということです。子供の様子が分からないのに親になったら親子共に不幸です。
観察力を培う
それから、体については生まれたときから本当によく観察することです。いつの間にか亜脱臼を起こしておるということがよくあります。これは親が注意深く見てたら、おかしいぞということもわからなければいけません。生まれたときから耳が悪かったり、目が悪かったり、心臓や肝臓が悪かったりすることがちょいちょいあるのです。したがって両親は、常に健全な状態はいかにあるかということを、周りの子供をしっかり観察をして、そして我が子をもよく見ておくことです。
また、ほくろとかアザとかの確認と、どこにも怪我が無いか毎日点検しスキンシップも図ることです。元気で不自然なことが無ければ、親としてこれほど安心なことはありません。成長の平均値など気にすることはないのです。子供がもし先天的に不幸な星の元に産まれたならば、早くからそのハンディを少しでも埋める対応をすることが愛情であり教育です。
希望を与え活力を育てる
ハンディを持った子供には、なにを一番大事にしなきゃならんかです。人生をするに当たって最も抵抗になるのは、共存上人間の関係と経済です。共存には健常者等との身体的関係よりも、その人自身の人間性であり魅力によって決まるものです。力強い精神力と、誠実で人を大きく慈しむ心なのです。その様に育つためには、絶えず希望を忘れないように、どんなことにも耐えるように、小さくて良いからしてみたい夢を持ち、頑張れば必ず報いがあることを信じるように、自分のハンディーを悔やまぬように育てることです。
「君の努力は大したものだ。誰もが出来ることではないね。いつまでもその努力を忘れなかったら、必ず素晴らしい人になれるぞ。素晴らしい人は世の中が求めているのだからね。絶対に見捨てやしないから頑張るんだぞ。幸不幸は心にあって外部条件が絶対ではないのだぞ」と、絶えず希望を与えて、美しく逞しく活きる力を培うのです。
人生確かな希望を持ったら我慢は必要ないんです。平気で居れるからです。我慢というのは人生を消極的に捉えた対処精神です。希望を持って活きているときは輝いていて、精神が未来的生産的に作動しているのです。我慢と言う抑圧的な抗体精神はないのです。ここが素晴らしいのです。希望にときめいているときは、眠れといったって眠れるんじゃないんです。明日に希望があったら、ひもじさも人の中傷も関係ないんです。だから我々は理想を掲げ、希望を抱き、光に向かって邁進をしていくことを忘れてはならないのです。子どもだったらなおさらです。少々の辛い出来事があっても心がゆがんだり、ねじれたりするものじゃありません。健全な家庭とは、どんなに貧しくても、お父さんお母さんが笑いを絶やすことなく、明日への、将来への希望をいつも口にしながら食事をすることです。そして、今日あったことの良いこともつまらないことも腹蔵なく語り合って、そこからみんなが何かを学び取るようにして、そしてすっきりと心から拭い去って眠るのです。
我慢と抑圧
我慢する事はとても大切なことです。が、抑圧としての我慢は限界があり、心を重くしてしまいます。禅から言えば、我慢そのものをさらさらと心から流すことが出来るような心に育てることです。それはもう我慢ではなく、大きな学びの精神なのです。我慢に意義があるとすれば、ひたすら学び取る向上心と貪欲さなのです。普通に言えば耐えて学ぶ事なのですが、対立の自意識を越えるように精神を培うことです。対立する自我がないだけずっとすっきりしていて楽なのです。大きな心とはこういう精神を言うのです。
その様な心に育てるには、家庭の在り方として常に爽やかであることです。過去を反省し学ぶことは大切ですが、良くても悪くても過去に決して拘らぬことです。それが我慢の質を向上させてくれるのです。苦しさや悲しい事にぶつかって、ただ我慢しろ我慢しろでは、その時を消極的に過ごすばかりか、膨大な精神エネルギーを消費して人間性が弱体するのです。そうじゃなく、我慢が人を喜ばせ色々な生産性に結びついてこそ意味があるのです。夢と我慢とは、努力という具体化の作用によって花となり実となることを知るべきなのです。そのことを早くから学んだら、その子はもはや我慢ではない、未来への大きなエネルギーにするための時節待ちなのです。
これは良くない事例の話です。私は少林窟の下の勝運寺で生まれました。ちょっと風雅な回廊と大きな玄関が有りました。それらの板の間を毎朝、夏だろうと冬だろうと綺麗に拭き掃除をしなければ学校へ行かせてくれなかったんです。兄弟全部ずーっとやらされました。真冬は湯を入れてくれるんですが直ぐ冷めてしまい、手がかじかんで泣きながらしたものです。察するに、早くからこうしたことに慣れておけば、辛い修行も難なく耐えられるであろうと見込んだ親心です。ところが子供の側からしてみたら、毎日、毎日悲しくって、辛くって、悔しくて、親への反発心を培うための刺激であったのです。もしあの時、親がですよ、「今日もよく頑張ったね。お前はきっと素晴らしい人間になるよ。絶対間違いなく成る。そしたらいいことがあるよ。お父さんもお母さんもね、お前が頑張ってることを素晴らしいと思って感心して居るんだから。決してやって当たり前だと思ってるんじゃないんだよ。お父さんお母さんの子だから、絶対できると信じて居るんだから。なんでもそのように頑張ってね」と言って、時にはお小遣いをそっと渡してくれてたら、一年間の苦労が報われたばかりではなく、耐えて頑張ることの意義を強く感じて、それからの苦労が大きく変わっていたと思うんです。
或る食事の時、親の居るところで蕩々と教育論を語った事がありました。そうしましたら母が、「私はあんたたち六人の子供を健全に育ててきた。貴方はたった二人じゃないか。偉そうに言うのはおくがましい」という訳です。そこで私は、「言うちゃ悪いけれども、人間を育てたとは言い難い。人間動物を飼育し調教した要素が強い。人間の教育とはそんなもんじゃない。苦しくても夢を与え希望を育む、それが教育じゃないか。私は苦しくて、悲しくて、辛くて、恨みの心を抱いたことがしばしばあった。そうした心に毎日させておることは本当の教育じゃない、飼育じゃ」と言うて親を悲しませたことがあるんです。悪いことを言ってしまったなと、後で強く反省はしましたが。
それで大切なことは、苦しさを、あるいは忍耐を強要するんだったら、必ず倍も三倍も後で感動や喜びを与えるようなご褒美がなかったら、心は傷つき曲がってしまうということです。根本には絶えず未来があって希望を持つということです。情熱的に生きるということ、心が弾んで育つということが大切なのです。自発の忍耐ではなく、外圧に対する忍耐には限界があります。その度を超すと自律が利かなくなって暴走したり、バランスが崩れて病気になったり、気が狂ったりもするのです。そうではないにしても、心がいびつになり恨みがましい構造になは大抵成ります。忍耐には限界があり、生産的ではない我慢はあまりさせるべきではありません。松の廊下の刃傷は、意根をそそられ限界を超えた姿です。歴史と観るより、忍耐はオクタン価の高い精神エネルギーであり、発火点の質次第で核にも成るのだと理解すべきなのです。
意地の構造
私の知り合いに本格派の意地っ張りがいました。一筋縄じゃないんです。生得的な要素も無論ありましょう。しかしやはりその様に固定してしまう動機が屡々あったようです。今は充分大人になったので、幼稚行は無くなりました。でも痕跡はちゃんとあります。これはその頃の昔の話です。ある真冬に、私が竹刀で素振りをしていましたら若い彼が、僕も剣道やってるんでやりましょうと言うんです。剣道をやってると言う話は聞いてなかったので、当然加減をして、軽く小手を入れたんです。「入ったろう」と言うと、「いや、入ってない」と言うんですね。離れてたから鈍ったなと思って、今度は心して同じ処へ確かに入れたんです。「今入ったはずだが」「いや、入ってない」と言うんです。おかしいな、そん筈はないのに。こいつ強情だと言うことは聞いていたがこれはもしかしたら本当かもしれないなと思い、今度は手加減をせずにビシっと同じところへ入れたのです。見たら腫れ上がってるんです。「入ったろう」。ところが「いや、入ってない」と。それで私はその小手ばかりへ入れたんです。それでも彼は「入ってない」と最後まで言い切るんです。「入っているじゃないか。腫れ上がっているぞ」と言うと、困ったような顔はしましたが、自分の手を見ようともしないのです。この強情で身を滅ぼさねば良いがと案じて止めました。
彼の強情か根性かがどこで形成定着したかというと、やはり幼いときの環境からです。出来ないもしくはやりたくないのに無理矢理やらされて、抵抗心が培われ意地に成ってしまったんです。出来ない、絶対やるものか、もう譲らんぞ、という心です。事実の善し悪しとは別口に、常に内面で相手と勝負しているのです。どうしても相手に勝たなければ承伏しないという勝他の念に翻弄されているのです。尚痕跡があるというのは、人格に大敵な勝他の念が根底に今なお強く働いているからです。
人として大切なことは、事実をお互いに素直に認めあう、というのが共存の原則です。ですから正しい心の使い方、即ち健全な精神が大切なのです。したがってその子の許容域を越えた過度の条件を与え続けてしまうと、身を守る手段として今のように、先ず意地が先行して形成され定着してしまうのです。彼は決して性根が悪いんじゃない。寧ろ大変親切で温かく誠実な性質なのです。けれども相手どり対抗心が勃発すると勝負をしはじめるのです。意識以前に勝他の念が最優先に稼働してしまい、意志や知性が間に合わないのです。意地の張り合いをやりだす構造なのです。辛かろうと思うんですけども、幼くしてそれが脳に構造として組み立てられ固形化してしまうと、それを修正することは極めて困難です。だから不自然な精神には出来るだけさせないように、教育であれ躾であれ心しなければならない理由なのです。それには何と言っても確かな観察からです。これが子供を育てる親の心得というわけです。 言うなれば、その子が本来携えている生得的条件と、無限に適応して成長する後天的条件との、最善なる関係をもたらせるのが教育でしょうか。まさに或る意味での白紙の状態にある心というキャンパスに、人類の夢と希望を託して描く行為が教育なのかも知れません。
自然のリズムが大切
子供は日々成長し、必要条件も絶えず変動していることはご承知の通りです。五相元具していますが、整うのにほぼ一年掛かります。その間は本当に安らかに有ることが大切です。大脳がある程度固まるまでということであり、安心して全部お任せ状態と言うことなのです。逆に言えば、身構えるような刺激を一切与えないことです。信ずる基、安心の基、精神の安定の根本だからです。とりわけこの間は重要なのです。生まれて暫くの間は静かに静かに育てることです。そして空腹を訴えたらさっと与えることです。
けじめをつけるためとか、我慢強い子に育てるためとかで、時間が来るまで与え無いのは全く見当違いなことです。第一お腹が空くのは一定していません。そのときの状況によって飲む量も違うし、消化の状況も違います。ですから空腹時間も絶えず変動しているのです。大原則として、赤ちゃんは全く虚偽が有りません。空腹を訴えた時が与える時だと言うことです。要求したらさっと与えればいいんです。無駄なことは思わなくて良いのです。赤ちゃんには無用な要求が無いのですから。自然な働きとして必要なだけ飲んだら空腹感が消えます。当然な事です。空腹感が取れれば欲しいという生理的要求が無くなります。極自然の様子です。すると、飲むという要求行為が自動的にストップします。当たり前のことです。
極端ですが、もし究極まで与えなかったとしてたら、自然の成り行きとして要求現象は極限に達するでしょう。勿論その鳴き声は、直接命に関わることですから、「ひもじくて死んでしまう。はやく食べさせてくれ!」と言う悲痛な叫びです。これが人間的かどうか考えるまでもないことです。要求緊張が極限的ですから、与えられたら堰を切ったようにしゃぶりついて飲みます。当然です。飲む行為があらゆる事柄より先行しますから、バランスを崩したとても不自然な飲み方になってしまいます。飲むことのみに一生懸命ですから空気も一杯飲んでしまいます。非常に不快な満腹感であり、且つ未だ要求緊張が可成りありますから、尚飲み続けるのです。満腹感があっても要求緊張が取れない限り、この行為は衝動的に続くのです。こうして不足の精神性、自然な満足感とは裏腹の卑しい根性を培うことになるのです。
どちらが健康的であり自然であるかは論ずるまでもないことです。こういう不自然な育て方をしてはいけないということです。躾とかけじめとか精神力を育てることと、それ以前のハードに当たる基礎的な心身を無傷で素直に育てることとは問題が違うのです。
不適正は心を歪曲する
躾等の心の姿勢や方向性を育てるには、それ等の精神要素が芽吹いてからのことなのです。したがって、赤ちゃんには虚偽がないだけに、苦痛等で痛めつけると芽吹く精神要素の順番が狂ってしまうのです。何故狂うかというと、極度の緊張感は生きなければならない生存本能を強く刺激することになります。危機感に対する反応作用が優先するということです。つまり人間以前の動物的保存本能が表に出てくると、精神が構築され構造化していく中に、それらが生々しく組み込まれてしまうのです。自我の形成は自然な成長と言えます。しかし動物的生存本能は自己絶対・他否定の精神で、極めて質が悪いものになってしまいます。赤ちゃんにとって厳しい状況が続くと、「今飲んでおかなったら大変だ」と言うような現実的な自己実現要求の気持ちが濃厚になり、信頼するという精神要素が育つ動機が無いために、人間性を育むために必要な基礎土壌を破壊してしまうのです。結果、精神全体が貧しいものとなり、つまらない意地を張ったりして我見の強い性格になったりするのです。これが不適正な刺激によって無用な精神要素が定着するメカニズムです。
赤ちゃんの作用には虚偽など全くありませんから、さっと素直に与えるのが一番健康的なのです。一番いい量でぴたっり止まる、これが自然であり最高なのです。だから飲みたいと言ったらいつでもさっと対応することができるように準備を整えておくのが利口な母親です。私たちはどうやったかというと、もうそろそろかなと見当をつけて、高い濃度に溶かして待つのです。欲したら程良い温度にまでお湯を足してさっと飲ませたのです。これですと寒かろうと暑かろうと、いつでも対応ができますから大変楽でした。ちょうどいいだけ飲んだら止めて、ご機嫌満点で次の行動、次の興味に移って行くんです。
知性と感性のバランスが円満な人格
こうして要求と反応、興味と刺激に対して、本来の自然なリズムと速度が大切なのです。自然に生じてくる様々の反応や行為は、身体機能の成長確立と共に、知性と感性の発達とその関係を意味しているのです。ですから自然がもたらせたものは自然が次の結果を出してくれますから、蝉の脱皮に手を貸して駄目にする愚をしないことです。大切なのは、知性と感性のバランスであり、バランスを取るための中間要素が何より大事なのです。それは自然のリズムと自然の成長によって育まれるものなのです。知性が極度に発達した秀才には、感性とのバランスが取れていない人が多いのは、理屈が優先して稼働するからです。全てにわたって理屈で片づけてしまうそうした脳構造になってしまうからです。バランス調整装置が健全に成長しなかったからです。その機能が発達し整うのは、初恋が始まるあのもやもやとした感情の不安定時代前後からなのです。身体的にも急激な変化を始める時期と一致して、ホルモンとの複雑な関わりで揺らぎも大きいのです。
初恋物語
成長とホルモン
初恋という初めてのあの感情は何を意味しておるのかです。我々はこの世に生を受けて、巡り会った伴侶と家庭を形成し、児孫を育て、終焉として厳粛なる死を迎えます。初恋とはそうした一連の流れである人生の、紛れもなく神聖な一ページなのです。赤ん坊的な幼児期を脱却し、明らかに性差の特徴に従った成長期に突入するときなのです。今までは児童で男女の性差より、動物人間としての基礎機能が発達するときでした。しかし自分が男である、また女であることを意識し、異性の存在が突然心を刺激して感情を不安定にする時が訪れたのです。
どうしてそう成るのかというと、身体の成長に基づき、性差の特徴を現すそれぞれ多種のホルモンが合成されるからです。そこまで成長したと言うことです。こうして人生という大海原へと流れ出ていくのです。生きることは様々な波と風と流れに遭遇し戦いつつ、果てしの無い旅を続けていくことであり、頼れるのも方向を決するのも自分です。真に自立することの意義を、親は深く鑑みなければならないのです。
初恋は心を拡大させる
そのホルモンが感情を刺激するので実に不安定になります。女性らしくなり男性らしくなることで、特定の異性を意識する、それが初恋です。それらのもたらす感情領域の拡大が知性を刺激して、淡き思いが知性に反映し夢と秘密を抱くようになるのす。
それらによる知的領域はどうなのかというと、例えば縦と横を掛けたら面積が出る。これは概念として既に分かっている事です。体積となると、掛ける奥行きの思想が必要なのです。思考の立体化でしょうか、とにかく知性の立体的成長をもたらせ、簡単に体積の理解が出来るのです。ですから掛ける奥行きの思想をもたらす精神要素がないそれ以前では、理解することは無理なのです。叩き込み教育は無理をするので、他要素とのバランスを崩してしまい、歪みを作ってしまうのです。
概念が育たねば理解できない
こういう実験結果があります。円い入れ物に一リットル、別の細長い物に一リットル。どちらが沢山入ってるか、と言う設問をしたのです。皆細長い方に沢山入っている、と言うんです。これがおよそ二年生までの思考容量です。理解するためには、それを受け容れる精神要素、即ち概念が具わっていなければ無理なのです。概念がなければ言葉自体の意味が分からないからです。じゃ、何故同じ一リットルなのに、長い器の方が沢山入ってると思うかと言うことです。それは認識の仕方が、まだ平面的でしかないからです。まだ視感覚的であり、長い物程沢山と言う判断力しかないのです。それを未熟と取るか、成長段階の一姿と見て、これがこの時の自然の様子だと取るかで、対応内容が大きく異なってきます。
成長の過程であることは分かり切っていても、一般では分かる、分からないという極めて短絡な見方をしがちです。教育をこの世界で扱っていくと人間性を育て損ねるのです。とにかく視感覚上の判断をしているのは、平面的ではあっても、微妙な物や条件違い等を見極める時なのです。外部を認識するための識別力が育っているときです。それは概念に依って思考すると言う抽象世界とは異なり、現象上を見とどける識別作業でありその精度を高めている段階です。現象を正確に識別して概念を形成するのです。そのために必要な情報であり、情報の集約力と応用力に成る基なのです。これがなければ概念の質も悪いし、思考の合理性も悪いのです。知覚から認識へ、そして思考から判断へと知的作用が展開していくのですが、より精細であることが好ましいのは当然です。ですから、この時期に急速に発達しようとしている精神要素を、無闇に遮ったり変質させてしまうのは、本来の教育目的から外れていくのです。
知性を育てることは大切です。ですが、考えるためにはそのために必要な要素がなけれ無理です。なのに時期はずれの思考系ばかりを過度に刺激し続けると、精神要素の全体との関わりが破壊されるのです。確かな知性と感性に基づいて円満な人格が形成されるのですから、余程考えなければならないのです。
目で微妙な違いを判断する能力を培って、そして次の要素が芽生えるのです。それまではそれをじっくり経験をさせるのが自然であり、これが本来の成長だと理解すべきなのです。
成長発達は自然でなくてはならない
余談が長くなりましたが、初恋が起こった途端に感情領域が広がり、喜怒哀楽をいよいよ内面から誘発することになります。言うなれば初期煩悶期に入ったということです。これによって知性の領域が飛躍し、認識の広がりと共に立体化する、この関係をよく理解しておくことです。ですから途端に、奥行きと言う概念も体積の概念もすんなりと理解できるようになるのです。これが健全な発達過程なのです。自然のもたらす成長という摩訶不思議な生の営みと言えるでしょう。
認識も含めて、知性の発達には勿論個性もありますが速度の違いもあるのです。一律におしなべて外圧で知性ばかりを強度に刺激し続ければ、全体統制を取りながら発達すべき精神要素のバランスが壊れるのは当然です。これが現教育の最も誤っている点であり、人間性を著しく破壊している点で大問題です。後から修復することはとても大変なのです。そのため心の大切な或る部分は、生涯不自然な働きのまま過ごすことになるのです。
構造化した回路は知性では修復できない
何故修復が困難かと言うメカニズムの説明です。その要素の発達はその時に精神に取り入れられて構造化するので、次に出てくる要素はその上に積み上げられる形で発達します。従って屈折したり止まったりしたらその上に付加され、その要素が未発達でしたら穴があいたまま、次の要素が芽吹きます。その要素は本来必要な他の要素と結合し発達しなければならないのに、必要なその要素が無ければ、異なった別の要素と関係して構造化するのです。ここが人格不全を起こす基でありメカニズムです。
知性で修復困難なのは、既存の回路で知性が作用する事です。既に従属関係にあり、知性が作用するその基になっているからです。だから不自然だと分かるのは、作用して結果が出た後のことです。後手後手の構造なので、根本には手が届かない、だから修復が出来ないのです。後の祭りとはこの事です。
世間に色々な研修があります。が、いずれも根本改革が出来るはずのないことをしているのです。意識では出来そうに思うでしょうが、それは知性的に理解が出来るからで、構造化している回路を使っている限り改革は無理なのです。
学問的な判断が不自然になることではありません。人間性はより真っ直ぐに、より純粋に、より深く広く高く成長するにしたがって、健全な世界観人生観が育ち、これが自律をもたらせるのです。この徳性の元になる精神構造が不自然になり、平素の関わりで役立たないのです。とっさの判断にそれらの回路が作動するためにつまづくのです。無自覚作用故に知性や意識が届かないのです。
勿論知性としては理解出来ます。しかし知性では実際に自分の心を根底から改革出来ない理由がこれなのです。とにかく観念即ち知性の世界と、瞬間瞬間動的に作用する世界とは全く異り、しかもその根元の話です。ここも現教育では完璧に無理解故に見落とされています。気が付いたとしてもどうすることもできない世界なのです。これを修復する方法は、真にそこまで掘り下げるしかないのです。自分で、心が生ずる根本を追求すると言うことです。と言うことは、固形化している思考系の回路を一旦取り外すことです。正に瞬間の自己追求です。要するに正師に就いて正しい坐禅をするしかないのです。 この様に本質的に理解すればするほど、教育というものが如何に大切であるかと言うことになるのです。ですから不自然な発達をしないように育てるのが教育であり、教育の原理原則という意味がお分かりの筈です。
つまり、身体の成長と共に自然発生的に知性も感性も発達するのですが、双方の要素が深くかかわり合って精神として構造化する、その瞬間の結合と積み重ねが自然でなければ健全な統一体が乱されるのです。そうならない配慮こそが教育の大切な原点ではないでしょうか。成長の違いを十分理解するのも自然を重んずることです。西洋のように、だから教えなければいけないんだという発想は、知性や感性を、自然がもたらす身体の成長と分離していることからも、人間の捉え方が甘く未熟で不健全な部分が多いのです。
親の情緒と人格がものを言う
もう少し初恋との関連をお話しします。初恋は心の領域を急速に拡大するのですが、それは想像力も同じで、特に感情領域は凄まじいものがあります。自意識が過剰になり、身体的な事が気になりだすのも、親の社会的立場や人格的な不自然さを気にし出すのもこの時からです。と言うことは自尊心の確立期でもあり、意地が表に登場します。従って内面では色々な秘密を持ち、親にも知られたくない自分だけの想像の世界を抱くのも成長の姿であり、これも極自然なことがらなのです。ですから出来るだけ美しく、人生をバラ色にしていくような希望と、それに向かって努力し続けられるような、そんな意志に発展する素晴らしい夢を持たせたいものです。そのためには平素の親の生き様が深く影響するので、親も常に若々しい心で美しい夢を持ち、且つ努力を怠らぬ事ではないでしょうか。
初恋という異性に対する最初の淡い思いが、いつまでも美しい姿で心の奥底に鮮明に有るのは、知性と感性のセレナーデであり発達メロディであり、心をときめかして描いた美しい自分だけの世界。だからこそそれ程価値有るが為に鮮明に残っているのです。
夢見ることは想像力を培うことであり、自己増殖に依って思わぬ才能を発見したり培ったりするのです。こうして初期思想回路が芽吹くのです。
更に付け加えるならば、美しいメロディや物語などに感動し涙するのもここらからです。従ってここから素晴らしい音楽を始め、芸術文化に触れることも、偉人の素晴らしい伝記に触れることも大切なのです。思考し想像するものがより良質で美しくあって欲しいものです。そのような思考や夢を描くためには健全な素材が必要です。忍耐も、悲しさも、恐ろしさも含んだ物語をどんどん読んで聞かせ、かつ自分で読んで楽しむことを教えるのです。そうした情報を基にして、そこからより健全な物の考え方や、自分が生きてみたい、こういう風な人間でありたいという希望をほのかに持ち始めるのです。初期思想も初期人生観も始まっていく時がこの初恋からなのです。
こんなときに粗野なお父さんお母さんの態度や言葉遣い、いわばそうした生活環境は子供の麗しい成長を著しく阻害するのです。やはり食事はきちっと正座をして美しく頂かねば良い家庭環境は生まれないのです。とにかく全部子供たちに人間的知的栄養であるためには如何にあるべきかです。向上心と反省でしょうか。
中学生頃から複雑な機構になる
初恋とは淡き夢の始まりであり、恋を通して夢を膨らませることにより、心の領域が一気に拡大するという仕組みは、まことに自然の妙としか言いようがありません。更なる妙として、音に対してのリズムやらメロディが、直接心を揺すぶり感動するようになるんです。言語に対して鋭敏になり、敬語を使われたり丁寧に挨拶されたりしますと、全身が緊張したりするようにもなるのです。逆に破壊的な言葉を投げかけられると、瞬時に深く傷つくのも明らかに言語反応とホルモンの関わりがあるようです。
美しい詩に感動し、深い概念を持つ言葉や、理路整然として分かりやすい理屈に知的興味を覚えるという、これこそ新たな成長段階を示すものです。それが中学一年頃から顕われる心的様子です。内面に於いて如何に複雑な機構が形成されているかお分かりでしょうか。それだけ精神面の複雑さと、惑いの度合いが大きくなっていることを知らねば成りません。
性エネルギーの威力
更に顕著なのが、小学終わり頃から中学にかけて起こる身体の発達です。やたらお腹かが空くし食べても食べても直ぐ食べられる。背は伸びるし声は激しくなるし。よく暴れてよく眠って、寝相も大暴れをします。これらは外面からも直ぐ分かることですが、肉体的精神的に最も大きな作用するのが性エネルギーの台頭です。その事は理解されていても、内面に起こる果てしない荒々しい葛藤は親でさえ見えないもです。これはどうしても避けて通れない種の宿命でもあるのです。この性エネルギーは正に生命力であり、次世代を培うために身体に与えられた基本機能です。その強烈な生命エネルギーが身体に漲ってきていつも飽和状態です。二十歳前後の破壊力は凄まじいし建設力も凄まじい。恋にしても使命感に於いても、とにかく信念と言うか気迫というか、何事に付けても沸点でするエネルギーなのです。健全な信念と人間性が育っていない場合は、このエネルギーに依って暴走してしまうことにもなるのです。
一見何でもない極普通の青少年が、思いがけない事件を起こして人生を棒に振ってしまう要因は一つや二つでは無いにしても、結果としてこの性エネルギーのコントロールが出来ないが為の暴走です。この巨大なエネルギーは瞬時に衝動化させる力です。衝動化とは知性も教養も信念も名誉も立場も、一切の精神的関係を破壊して行為に走る事です。動物的な残忍性が表に出て凶暴に及ぶ当に暴走です。
この様に人間を深く理解していくと、自然に成長した健全な精神基盤が如何に大切であるかがよく分かります。現代教育をすればするほど子供達が悪くなってしまうのは、総て原則を無視して、知性ばかりを過度に刺激する教育だからです。こんなに頻繁に事件が起きても、今なおこの事が分からない教育の専門家集団が、我が国の様子なのです。早く国を挙げて大改革をすべき事なのですが。これも余談。
従って中学・高校生になると感情的になりやすいのは、エネルギーがいつも飽和状態で不安定だからです。この様な状態は極めて闘争的になりやすく、それまでの育ちが不自然であったりした場合、身体と知性と感情と意志との分裂状態が相殺関係となるために、たちまち葛藤を起こし暴走するのです。健全な成長をしていれば、人間性・徳性によって何重にもブレーキが掛かる構造になっているのです。それが自然な本当の成長なのです。教育の目指すところは真の自律なのです。
身体と心と感情・・・思春期の悩み
さて、本人はこの不明なエネルギーに依って、感情がすこぶる不安定なのだという自覚はありません。しかし直ぐに苛立ったり、不満や批判や抵抗心を耐えるのに可成りの努力をしているのです。つまり自分に対して不安感や不信感を持っていて、それがそのままストレスになっている状態です。ところが若しそこへ異性が居て話が弾めば、気分はころっとバラ色になり、とても流れの良い精神状態になるのです。これはフェロモン系のホルモンが供給されることにより、今目前の事以外は頭から消えてしまうからです。つまり、それらのホルモンには麻酔性があり、葛藤等心の縺れを総て麻痺させるからです。会話だけではなく、性に関する書物や写真も同様に効果が高いのです。眼耳鼻舌身意の刺激は即色声香味触法となり、即知性が情報処理をします。その情報に誘発されて想像力は爆発的となり、イメージを逞しくしてその方の感情を激しく刺激するのです。当然ながら飽和状態に注ぎ込まれた刺激は忽ちその類のホルモンを合成し供給します。秘め事故に、羞恥心を横目にしながらその事に耽り、他の煩わしいことを一時でも忘れて心の安らぎを得るのです。異性への憧れと躍動感を味わって成長するのです。これも自然がもたらせる健全な姿なのです。
自分で持て余すこのエネルギーは、また身体が大人の域に入ったことを意味していて、大人の刺激を貪るようになります。酒もたばこもセックスも、大人同様にしてみたくてしようがない事柄なのです。身体が一人前になっていくとはそういうことなのです。つまり、決して大人ではないけれども、一人前でありたい、扱われたい、大人をしたい、子ども扱いをされたくない、という願望がいよいよ強く働きかけるのです。
こうした青春固有の状態が理解できれば、教育の接点が浮き彫り成ってきます。漲っているエネルギーはどこまでも健全な成長のために完全燃焼すべきです。早くも歪曲していて、すねたり恨んだり無関心等になっていたら尚更のこと、彼らの内面の願望こそが救いの原点だということを忘れないことです。身体と知性と感性と意志の分裂が激しい時ほど葛藤が大きく、それだけ苦しみも迷いも大きいのです。表面を平静に整えるだけでへとへとになってしまうほどです。実はこれらが鬱憤になるのです。従ってこれらが解消しやすいように対応すればいいのです。分裂から心身統一への力添えが、この時の精神教育であり救いなのです。そのための具体的な心得とは何かです。
第一に、彼らに反感を起こさせない態度と言葉遣いです。中学生の年になると、充分尊厳性が育っていますから、信頼するに足る人には尊敬の念を持って接してくるものです。それに答えて余りあることが大切なのです。「お前らは・・・」などと生徒を呼んでいる先生に、彼らが尊敬するはずはないのです。であれば態度もまたそれに類しているはずです。教育者は教える立場の者として、決して人間性・徳性を軽く扱っては成らないのです。となると、当然彼らに対しても、無限大の将来を重く見て接することです。少数であれば、こちらが慎んで丁寧に応ずると、彼らは瞬時に厳粛になるものです。多数の場合は、気恥ずかしさや照れ隠しから、必ず茶化したりする者が居て、そうした不純な心が消えるまでは厳粛さが表に現れてこないものです。彼らこそ次の世代人ですから、大人が先ず彼らに敬意と夢を抱いて接することが第一の用心です。
第二に、彼らは先ず、分かってもらいたい、信じてもらいたい、受け容れてもらいたい、と要望しているので、彼らへの批判は避けなければなりません。例え常軌を逸している発言や態度があったとしても、真正面からそれを受けて立つといきなり対立してしまいます。溝が出来たらいよいよ厄介です。そんな心の角度からではなく、彼らの置かれている環境と時代性の重圧に、よく耐え、よく頑張っている事に同情と敬意を表すのです。そして、学ぶべき事は勉強ばかりではないから、無理をして体を壊さぬようにと、余り勉強ばかりしては駄目だと説くのです。例えそうではなくても努力している人として語る事が信じていることなのです。その心が彼らに安心感を与えるのです。それが即ち分かって、信じて、受け容れていることになるのです。ここから信頼関係が始まっていくのです。
第三に、ここからはこちらの得意とする個性的な対応でよいのです。今までの一二は対応の原則論ですから、これはきっちり踏まえなければならないものです。微弱ながらの信頼関係が出来たと言うことは、彼らにとっては大変大きな心的変化をもたらせます。彼らは多くの願望なり疑問なり、不満なり不信感なり批判なりを携えています。その反面、心静かにありたいし健全な夢も持ちたいしで、とにかく有って欲しい願望と有って欲しくない願望などで埋め尽くされているのです。と言うことは、自分ではどうにもならないほどの、とても重苦しい心の状態だと言うことです。当座とにかくここから脱出して爽やかにありたいと言うのが基礎願望です。その上、上から質問を浴びせかけると、混沌とした心を言葉にして訴えるほど、知性的には到っていませんから、もどかしさがいよいよ増幅し心を圧縮します。従ってこの時点では質問はしないことです。むしろ彼らに自由に質問してもらうことです。その質問に対して情熱を込めて語り尽くせば、必ず彼らは開けていくのです。彼らが自然に姿勢を正して慎んで聞くところまで到りましたら、彼らは心身の統一によって葛藤も取れ、心静まり、深い厳粛感に浸って満足しているはずです。貴方に対して、きっと深い信頼感と尊敬の念を強く持ち、師として位置づけているに違い有りません。以後、夢夢彼らの期待を裏切らない事です。但し、これは他人の子供さんに対しての接し方です。
子どもは家庭が総て
親子の世界は本来一体感がベースです。親だから甘えられるし、親だから許して貰える。宇宙で唯一の完全依存お任せ関係が、信頼という絆で出来上がっている世界です。言いたいことも言えるし、自堕落なことも分かってくれると言う、開放感と絶対保護下の関係です。だから家庭とは外でどんな辛いことが有っても、悲しいこと悔しいことがあっても、一歩家に入れば親の暖かい無条件の包容力によって救われるのです。そうした安心感に依って、心の平安を取り戻して初めて元の元気が出るのです。いつも家庭全体に堂々とした雰囲気が宿っていて、外部から如何なる侵略も許さない、と言った力強さが家族の結束力となるのです。これが確かな父権と母性によって、自然に形成された当たり前の家庭なのです。これが健全な有るべき家庭の姿なのです。
当然の事ながら、きちんとした筋目があり、礼節があり、人生とは如何にあるべきかを問い続ける両親であれば、何も心配することもなく、特別な努力をする必要もないのです。
馬鹿親と子どもの心理
ここで母親が子どもに投げかけた言葉の反応を見てみましょう。「何故こんなことをするの! だめじゃないの! これからはちゃんとするんですよ! もう少し気を付けなきゃ駄目でしょう!」。最初の注意は自分に覚えがあるから、「はい」と素直に返事をします。繰り返して、「いいわね! もうこんなことちゃだめよ! これは大変高い物なんだから!」とやると、「分かってるよ!」となるんです。更に三回目をやるとぷーっとなって、親の顔も見たくないような感情の質の変換が起こってきます。始めは道理が通っていますから、聞かなければいけないという自己責任の意志があります。けれども、二度同じ注意をされると自尊心に傷が付くのです。それは、「過ちだから仕方がない。けれどもそうしようと思ってしたことではないし、これから気を付けると言って居るんだから、信じてくれてもいいではないか!」と言う反発心を駆り立てます。同時に、親の注意が自分たちよりも物の方へ有って、あちらの方が大事なんだろうか? と言う人格不信感や人間性不在感を抱いたりします。更に三回目をやると、我慢もすれすれになってしまい抵抗し反抗してしまうのです。それはもう教育ではありません。抵抗されればされたで、更なる反省を求め、「そんな心得だからこんな事が起こるのだ! 何という心得違いをするのですか!」とやらかす親が結構居るものです。それなのに五回も六回もやって大喧嘩をする親子をしばしば見ております。注意すればするほど、子供の心を歪め背かれてしまう典型的なスタイルです。親子共に悲劇です。これでは幾ら「子どものため」と言っても、結果親も家庭も嫌になって家出するしかないと思ってしまうような接し方は、矢張り親に重大な責任があります。これを馬鹿親というのです。
親子のズレを起こすメカニズム
逆に妙に話が分かった親になりすまし、夜遅く帰っても、どんな不自然なことをしでかしても、それらを全部認めて信頼している風をしている親も居ます。子どもの内面では、こんな事を無断でしたりしてはいけないし、きっと叱られるぞ、と思っています。初めは叱られなくて助かった、と安心し喜ぶのですが、幾らしても無反応なので、自律をもたらす人間性のラインが不鮮明になってきます。つまり、健全な緊張感が無くなり、要求の質がぐんと低下してしまうのです。それを増幅するもう一面の要素があるから怖いのです。それは自分に対して本当は愛情が無いからだ思い、ほったらかされているのだ、と思ってしまうことから問題が続出してくるのです。はらはらしながら我慢していた親は、業を煮やしてとうとう注意します。この時は既に相当に荒れています。不明な不満が飽和状態になっていますから、反省するどころか、思っても居なかった不良系が使うような言葉と言い回しで反逆されてしまい、驚きと同時におろおろするようになってしまうのです。それしか方法がないからです。子どもはそんな言い方をしようなんて少しも思っていなかったのに、親に対する不満感が、ちゃんとした判断や倫理観や親子の絆等より強烈に作用し、無意識にそんな態度や言葉になってしまったのです。
心の自然を失うと感情も不自然になり、何でもないことが大変な事になってしまう不明な飽和状態を作るのです。子どもは、しまったことをした、と咄嗟に反省するのですが、次の瞬間、荒れ具合によっては開き直って、何が悪いのよ! と親に詰め寄るようになってしまうのです。ここから取り返しが難しい関係になってしまい、親子共々苦しむのです。これも馬鹿親の標本です。親の心を糧にして成長する子どもの側からすれば、叱り過ぎも叱らないのも、いずれも自然のリズムでバランスを取りながら、自然の成長をすることが出来なくなる反教育的要素であり、人格阻害要因となるのです。
信頼される親、背かれる親
ちゃんとした家庭の親は、子どもの失敗に対して暖かくゆとりを持って接しています。先ずは子どもが起こしきたことの結果をいきなり攻めたりはしません。「怪我しなかった? どれ、よく見せてご覧なさい。あなた達にもしもの事があったら大変だから。大切な物が壊れたんだけれど、物よりも何よりもあなた達の方が文句無しに大切なんだから。いいね、これからはよく注意するのよ」。この様に視点を間違わぬ事が大切です。温かい慈しみの心というものは、とにもかくにも第一に子供達の健全を喜ぶことです。物や結果の詮索が先行した途端に、大切な絆が切れてしまうのです。信頼を深めるか、不信感を深めるかは、心を物事に置くか、子どもの魂に置くかの視点で決まるのです。端的に言えば、子に対する心の深さ暖かさ優しさが本当かどうかと言うことになるのです。
何も言わない効果
子どもの心の様子が分かる人は、何も言わずに、大切な時点でいつも親の方に心を向けさせています。失敗をした場合、子どもにとっても一大事です。「しまった。えらいことをしてしまった。きっと思い切りしかれるぞ!」と後悔の念しきりで、親に気を使うのは当然です。この心が見えるか見えないかです。「ちゃんと後片づけをしておきなさいよ」だけでいいのです。どうしてかというと、ちゃんと反省もしていて、これから注意することを誓っているし、次にしでかしたらこのままでは済まされないぞ、と親の出方を憚り恐れているからです。そして、この事で何か言われたりはしないだろうか、と親の様子を伺っているのです。これだけの浄化作用が有れば充分で、これ以上叱ることの教育的理由も効果もないのです。家庭に礼節とけじめが有れば、その雰囲気を大切にする事の方が余程教育効果があるのです。
女性の醍醐味
私は二人の子供を育てました。子育ては本当に楽しかったです。無論私は脇役でしたが。とにかく子育てというのは命の芸術作品です。理想とか夢と言う絵の具を使って、授かった赤ちゃんという命のキャンパスに、愛情と言う筆で、苦心しながら、感動しながら、丹念に描いていくのです。
私は密かに思いました。女性の本当の醍醐味というのは、健全な家庭を形成して、本当に子供を育て上げていく事にある。それは誰に教わるのでも与えられるのでもない、天然の本当の母性に従うことであり、健全な母をすることだと。そこには女性でしか味合うことが出来ない感動と期待とドラマとが有る。それは安心を与えてくれる主人と家庭環境を舞台に、お母さんという主役を演じることではないか。それは女性でしかできない、そして母でしか演じられない主役。家族の尊敬と信頼と愛とで彩なす七色のスポットライトを全身に浴びて・・・ これに勝る醍醐味が他にあるであろうか、と思うのですが。
家庭離れは成熟度の低下か
だが、今の女性は何故か外へ出たがる。確かに今日的な時代背景があるに違いない。考えてみるに、少々成長不全があるのではないでしょうか。従って最も大切な母性本能が充分に発露しないために、新しい命への使命感が身体に漲って来ないのではないか。子育て情報は本能の中でも最も重大な要素です。これが不全をきたすと種が絶滅するからです。
ちょっと話が逸れますが、元もと本能の持つ仕事というのは、一生を健全に送るための生命維持装置を健全に管理することにあるのです。その一生とは個の生涯だけではなく、種としての命、即ち永遠に種が生存し継続していくための伝達も含まれています。具体的に言いますと、生きるためには先ず食べて眠らねばなりません。そのために教養も自尊心も越えて、食するように衝動化させるようになっています。また過労死しないように、極限的には歩きながらでも眠るようになっています。そして命を新しい身体に委ねるために性行動をさせます。それは可成り強烈な衝動作用を持っています。そうしないと、教養豊かで羞恥心が勝つようでは性衝動が起こらないからです。児孫が生まれず絶滅するからです。
我々人間は、瞬間的にでも本来の単純な動物性が全面に立ちはだかる事も必要なのです。大きな代表格はこんなことです。愛しあうことも忍耐することも、畢竟種の健全な繁栄をもたらすために不可欠な要素であり、その自然な営みこそ母性本能なのです。ここで、生まれた子どもに対しては本来の豊かな母性本能によって、理屈無く喜び感動し、その愛くるしさに至福感を満喫することになるのです。これは調和のとれた成熟度と可成り一致しているように思えます。今日の社会は、個の健全な成長を阻害する要因に成っています。従って女性ホルモンがちゃんと合成されていないために、当然ながら供給不全になっているのです。だから女性としての成熟度が低下しているのではないか。社会的な存在にはなったが、生き物として命を育む女性には成り難い時代だと言うことでしょうか。
感動の知恵くらべ
子育ての面白み、醍醐味を知らない女性はやはり悲しいし不幸だと思います。子育ては根気と知恵比べです。その知恵比べはとっても楽しい知恵比べです。常に感動を与えてくれる知恵比べですから、苦しいことも楽しいのです。必ず喜びと感動がある知恵比べだから面白いんです。自分もこのようにして育てられたのかと思うことしきりです。親の愛情と心の文化を初めて発見し継承した喜びが交錯して感無量になることが屡々ありました。親の子が親になって、親がしてくれた通りを子にしている命の不思議さと尊さは、真に実感する以外の何者でもない。
こうして自分が生きることの大切さ、そして子どもを育てる大切さを具現することが大切なのです。それが健全な家庭形成となっていくのでしょう。
遊びと学び 子どもの気を引くこと
家内と子どもの関わりを観ていて感心したことがありました。三歳、四歳になると親の真似をしたくてしょうがない時期が来ます。このときが一番成長する時ですね。何でも親のしていることをしたがりますから、その時は何でもさせてやるのです。即座に吸収していきます。それがその時の成長であり、それを正しくきちんと教えて体得させるのがその時の教育なのです。
ある時、母親がキュウリをリズミカルにたったったっと切りながら、「薫ちゃん、薫ちゃん、見てごらん。面白いよ」と言って切ってみせる。転がるもの、たおれていくものがあって、小さなまな板の上の様が、華麗なダンスのように見えたのでしょうか。果たせるかな眼をきらきら輝かせて見入っていました。私はこの様な時が来ることを期待して、台を作っていました。母親に近い目線で触れるように、眺められるようにしていました。「やってみたいんでしょう」「してみたい! 私にさせて!」。そういう心を誘い出すためにしているのですから、「じゃ、させて上げる。でもね、とても危ないの。お母さんの言う通りにするのならさせて上げる。お母さんの言う通りにできる?」と先に約束事を取り付けるんですね。なんとなれば、これは危ないから、そして食べる物だから遊びじゃない、と言うことを先に教えておくことが大切なのです。「じゃ、いいね。包丁はこう持って、左手でキュウリをこのように持つの。間違えてこうやったら大事な指を切ってしまうよ。痛いよ。正しくやれば大丈夫。さ、ゆっくりやってごらんなさい」
全く初めての場合は、過去の何かを応用するということが出来ない。だからいよいよ真剣です。しかし、既に色々なことをさせていましたから、目的を得るにはどうしたらいいか、それは親が言った通りにすること。この意識、この論理をしっかりさせてありました。ですからどんな新しいことでも、安心して積極的に興味深く取り組む心の姿勢が出来ていました。「見事だね、ちゃんと切れてるじゃないの!」本当はちゃんとじゃないですよ。こうして興味で始めて、いよいよ興味が興味を引くことになるのです。台所は大変面白くて楽しいところだという意識のベースが何より大切なのです。次の食事の時、「薫ちゃんが切ったのよ。上手でしょう。本当に美味しいわ」と言った会話をすれば、益々喜んでするようになるのです。四五回やらせるともう大体切れる。それでもう一息、もうちょっとで完全に出来ると言う時、「薫ちゃん。薫ちゃんのほうがお母さんより上手になったりして。これ切ってね」。「はい」と言って喜んでします。ですからたちまち台所が好きになり、その間に「刃物と言う物はこういう物よ、ここが命だから大事にしなきゃだめよ、切れない包丁でやったら怪我をするよ、切れなくなったらどうるかと言うと、お父さんにお願いして研いでもらうのよ」というような、対応の手段まで教えてるんです。母性が持つ次世代への思いは大したものだと感心しました。この時の母親の自信と嬉しさは比較する物がないに違い有りません。
息子は目玉焼き
息子は目玉焼きが大好きでした。これも同じ手で上手に育てました。フライパンで六つ、全然壊さずに見事に焼くんですね、それが四歳か五歳でした。そしてみんなの皿に配って、みんながまたそれを喜んで、見事だなと言って食べてやるわけですから彼も台所するの大好きなんです。今一人で生活してますけれどもきちんと食生活をやってます。脳構造をそのようにしたもんですから、局所局所ではすごく心を使うようです。つまり小さいときの心得のあり方、心の姿勢というもの、意識の根元をきちっと育てておくことが教育のポイントです。
性差の特徴を無視しない
しかし、全部が全部そんな注意を注いでくれたらいいのですが、そうはいかないのが我が子であり、男女の違いでしょうか。性差が生まれながらに有ると言うことは、その時に発露する精神要素も従って異なると言うことです。男の子というのは、人形で遊んでも女の子のように抱っこしたりして遊ばないんですね。首でも手でも、クリクりと廻したかと思うと、かぽっと取ってバラバラにする、そんな行為自体を楽しむところがあるのです。ようするに女の子が持っておる特性は、やはり次世代を育てるようになっていて、ふんわりした優しさが基本的にあるんですけれども、男は攻撃的な荒々しさと言いますか、野生としての動物機能が早々と表に出て来るようです。これを自然体で上手に出さして、自然のリズムで脱皮をさせなきゃなりません。これがこの時の教育です。
中間媒体の存在と意義
今の最高の教育結果は何かというと、それは日本で言えば東大・京大に入るよう育てることでしょう。そして一流企業へ入ることでしょう。それはただ知性の分においての話で、私が最高とする人間像とは、まず正直であることです。そして責任感が強く優しくって、温かくって、親切で、そして意志が強くって、理想が高くってユーモアがあり、且つ品性があったら言うことはない最高の人格者です。知性に優れていることと、人間として完成度が高いということとは関係ないのです。
自然の成長は、知性と感性とがうまく連絡を取り合った、相互間に均衡の取れた状態です。例え感情が優先したとしても、次の瞬間知性とバランス調整して円満を計っていくのです。人格とはバランスが取れる事が基本なのです。知性と感性、個と全体、家庭と社会、過去と現在、現在と未来、弱者と強者、身内と他人、金権と徳性、学歴と自律等々です。私は多くの学者と接しまして結論として言えることは、学者は確かに知性が極度に発達した人達です。情報も豊ですし、判断も速いし、正確だし、多義にわたって本当によく思考ができます。その分だけ本当に理解が深いです。ところがそれは左脳ばかりであり、理屈で総てを片づけてしまう傾向にあります。人は寧ろ感性で生活している面が多いのです。好きか嫌いか、したいかしたくないかで行為していることが多いと言うことです。即ち、気に入るか要らないかはとても大事な要素です。納得するかしないか、それは知性より深いところで決断する感性の部分なのです。これが人生の意義に直結してくる要素で、離婚も別居もここが問題化した暁の姿です。ですから左脳系が極度に発達して、感性とのバランスシート発達不全の人は、家庭に於いても問題有りです。相手の気持ちを素直に理解する前に、相手の言い分を言葉で裁き、理屈で畳み込んでしまう様な脳構造をしているからです。簡単に言えば、理屈がはだかっているために人の気持ちが分かりにくいのです。禅的に言うなら、我見が強く始末が悪いと言うことです。自分の理屈が通らなかったりすると、途端に感情が乱れて、内心がとても不自然になるのです。
奥さんとうまく行かない。夫婦がうまくいかないから息子の奥さんともうまくいかない。何故かと言うと解答は簡単なんです。右脳と左脳とのバランスを取る機能が不全だからです。学者でも特に文化系の人は概念ばかりを働かして、抽象世界に埋没しています。頭の中は絶えず思考を巡らせ、ご飯食べながらでも物を考えてますから、事実と遊離したままです。だから事実が事実としてのありのままの素晴らしさが全然見えないし感じない。したがって奥さんがどういう気持ちでおるのか、何を訴えているのか、何がして欲しいのかして欲しくないのかが見えないのです。これがアンバランスによる結果であり、それが起こる構造とメカニズムです。
心の改造とか精神修養とか、向上心などと色々言っている自己変革に関する事柄ですが、大切なことは自分の心ですから、とにかく自分が深く見えるようにならなければどうにも成らないということです。その基礎要素として、誕生してからの成長段階で、少なくても安定した自然のリズムによる発達は不可欠の条件です。そうしないとバランスシートが育たないからです。この作用によって知性や感情を使ったり使わなかったりするのです。分けて使う力、これが中間に有って全体の円満を計る大切な要素なのです。この中間媒体が人格や教養を左右する要素なのです。今まで何千人も深く観察してきた結論から言えば、確かに精神的中間要素が存在します。こんなことは世界中誰も言ってません。言っておりませんが、人間をずっと見てきて、どうしてもその要素を認めざるを得ないのです。 私は禅を通じて人間の本質ばかりを観ています。そうなっていく因果関係も大変よく見えます。子供が人間とし動物としての機能が成長するとき、あまり知性ばかりを刺激したらだめになる。今は体が絶えず心地よく躍動している事が大切であり、そのためにはしっかり遊び運動しなければいけないのです。同年代の者がもつれ合って遊ばなければいけないし、競争もしっかりしなきゃいけない。ここから知性、感性を健全な状態に保つバランスシートが育まれるのですから。今はこれをまったく阻害しています。心の根っこ台を、親も学校も国家もがよってたかって壊しているのです。今の日本の教育が原則から間違ってるところなんです。だから今日のような恐ろしい子供ができあがってしまったのです。それが親になっていくのですから、恐ろしいことが起こって当たり前なんです。このことはさっきも申しました。地球規模で今それをやっているのですからね。
テレビと精神構造の秘密
先進諸国はテレビが当たり前の生活になって四五十年です。確かにリアルタイムで世界中の様子を知ることが出来る点など、貢献度は測り知れません。しかし、テレビは怪物です。長時間テレビの前にいることは危険です。それは、一方的に流れ込んできて、無批判に無抵抗に見入ってしまうことにあります。知性は情報の量によって磨かれるものではありません。知識を健全に使うことが根本なのです。幼児から児童にかけては最も記憶力も旺盛であり、何でもストレートに刷り込まれていきます。同時に、知的興味を起こして何でもしてみたがる悪戯盛りなのです。それは体全体を使ってその事自体を楽しむものなのです。こうすることで物の関係やら性質や特徴を知り、自分の力で整理し統合し応用して、知性を作用させるための基礎力を培うのです。ですから感覚からの情報は、ちゃんと知性によって色々に処理しなければいけません。
ところがテレビは速い速度で流れます。したがって感覚的表層で見入り理解しています。知性が関与して処理することもなく、又その必要がないのです。子どもは動的に環境と関わって瞬間瞬間の処理能力が発達していくのです。ところが主体的に関与することが出来ない、単なる情報機器で、ただ眺めて、感覚的に刺激を楽しむだけの世界が拡大していくのです。知性が関与しない別世界、無関係状態の空白が出来てしまうのです。これが恐ろしいのです。現実的に、して良いことや悪いことや、咄嗟に自分がしなければならないことの判断作用が利かない人間になるのです。
何故か。テレビから発信される刺激を、無知性というかぼけーっと感覚的に受け容れて感覚的に反応するだけの構造に成るからです。そして身体と知性と感性と意志との有機的結合が無い無統一体なのです。
経験の連続である現実現象世界から、離れれば離れるだけ精神はバーチャル化して、現実への対応回路が不全になるのです。例えば友達が河へ落ちても、感覚情報が即知性に伝わらず、ために健全な判断ができず、現実に行動が起きてこないのです。テレビを見ている感覚ですから、現実もバーチャルになっているのです。
自分で考える余地が無く、選択する余地がなく、比較する余地がなければ、知性は判断も決断も出来ず機能しません。自分の中で物事を関係づけて、それらの理由を追求していくことで知性は成長するのです。無意識に存在の理由や善悪を知ろうとするから、倫理が生まれ道義感が生まれるのです。この大切な要素を育てるのが教育なのです。
テレビに向かって、何もせずぽかんとその前で時を過ごす。それは一定の時間に与えてくれる情報と刺激が多く、感情をたっぷりと刺激してくれるからです。ということは知らない間に、極自然に子供の精神構造を劣悪な状態にしているということです。
私は中国山脈の絶頂に暫く居ました。物も何も無いところでした。あるのは大自然の山河大地であり、鮮やかな春夏秋冬でした。極めて健全な生活をしていたのです。ところが沿岸部へ出てきたらもう文明の中です。我が寺にはもちろんテレビも新聞も無いわけですから、初めはよかったんです。息子が学校へ行きだしたら友達がやってくる。今度は友達の所へ遊びに行く。もうお終いです。帰ってこないんです。よそのテレビにみんなと見入ってしまう。君のところはテレビが無いのか、と哀れみを持って見せてくれる。そして食事まで与えてくれるんです。まるで事にならんのです。止む終えずテレビを買って、人様に迷惑をかけないようにせざるおえない。そういう社会環境になっておるのが今日なんです。
テレビの解毒剤
テレビは娯楽が中心です。観て居るだけで楽しむことが出来れば、これほど安易なことはありません。家族みんなで観る、といってもみんなテレビに向かい、家族との会話もなければ顔を見ることもありません。テレビの前で、それぞれが思い思いで時を過ごしているだけです。一緒の場所にいて、同じものを観ていることは意義有ることには違い有りません。こんな場合の精神はのんびりでいいのですが、画面が総てですからとにかくこちらは見入っているだけです。緊張感が極度に低下している状態は、知性は極表面的な理解をする程度です。替わって感情が主になっています。殆どが面白可笑しく過ごしたいだけですから、劣悪な番組など刺激的なものを好むようになります。これは子どもにとっても良ろしくありません。昼間などよろめき浮気ドラマが主流になるのも、潜在願望を代行しているからです。そうした精神に抵抗する向上心が必要であり、健全な判断力と姿勢が無くてはならないのですが、事は逆です。潜在願望を刺激すれば、いよいよ潜在ではなくなりますから、心の健康を害するようになるのです。ですからつまらないものは観ない方がいいのです。教養に掛けて、健全な番組に変えるだけの信念が必要なのです。
子供と一緒に観るときは、どんなドラマであれ、ちゃんとした親の判断を通してみるように批判も評価もする事です。漫画であれドキュメントであれ、健全な意識を外れない見方、感じ方があるのですから、そこを間違わせないようにコメントを入れるのです。時には感情移入をして、悪に対しては「けしからん。あの様な悪党は許せん!」などと、現実として生き生きとした見方をするのです。無知性で観るのではなく、知性も倫理観も芸術観もちゃんと出してみることです。
何でも教育的に生かして対処すれば、被害は最小限で食い止められるのです。げに、素晴らしい芸術作品は魂が浄化され、勇気や正義感を与えられ、心に何やら人間としての力が湧いてくるものです。将来に明るい希望を抱き、正直で正しいことをしたくなるような、そんな願いを持って番組を作っていただきたいものです。
今日の結び
今の日本に於いて健全な教育ができるかというと、ほとんど不可能です。どんなにお金をかけて、どんなに頑張っても、あまりにも人工環境になりすぎてしまったのと、余りにも個人意識が退廃したのとで、家庭の環境、親の姿勢からして家庭教育にはほど遠いのです。しかも安全で自由な自然豊かな環境も有りません。もはや国にしても学校やら父兄の努力にしても、健全化のための根本条件は整えられません。したがって本当に次世代に期待をかけるんでしたらニュージーランドとかニューギアとか、どこかとにかく文明が主流ではない環境、自分の事は自分でしなければ生きていけない程、豊かな自然の中で生活をし教育をすべきです。
怖いお話で終わってしまいましたけれども、だからといって子供に夢を忘れるわけにはまいりません。子どもの教育を怠るわけにはいきません。この環境の中ででも、少しでも良き子供を育てるための配慮、工夫、努力は国を挙げて怠たりなく研鑽努力をしなければならんのです。
どうやら時間に差し迫られたようでありますので、今日はこれで終わりましょう。
平成十二年二月十日 總持寺にて
以下の追加は「第七回 普勧坐禅儀提唱」より抜粋した教育論です。
平成十三年4月十五日 仏経伝道センターにて
茶話会
老師:一寸余談から入ります。今、とにかく地球規模で気になることは教育問題です。先進諸国の環境は、もはや子供の心を健全に育む状態ではない。そんな状況にあることを忘れないで下さい。
何故自然の環境が無かったら人間の精神は人間らしくならないか、ここに疑問を抱いて頂きたいのです。
自然を失うと最も怖いのは、母親に大切な子育て情報としての育児本能が発動しないことです。育児本能は種を継承する上で最も強烈にして精細に働く天然の叡知なのです。男性主体の戦争も、元は種の保存本能に基づいて起こってくる生物本來のものです。滅ぼされる危機感が、防御と攻撃という作用になってしまうのです。それほど種を継承していくためには強烈な本能が必要なのです。
男性のそうした荒々しい動物的な本能は、環境が荒めば荒むほどその刺激によって巨大化し残忍になっていくのです。防御と攻撃によって種を守るという事だけから言えば、環境悪化の刺激は寧ろその本能を全うすることですから良いこととも言えます。しかし、残忍になり無知性になることは、自滅することでもあるのです。従ってあらゆる環境は良質化へと向かい、安定化するようにしなければとんでもなく危険なのです。
又その様な平和で安らかな理想環境に成ればなったで、人間の精神はスリルを求めサスペンスを要求するようになるのです。その理由は、人間そのものが本質的には生物であり動物ですから、どうしてもある程度の刺激が必要なのです。挑戦し向かっていく対象が必要なのです。
そこで健全な社会とは適度なギャンブル性も必要であり、各種の賭事とか遊びが存在し、格闘技からスポーツなど、大きくとらえて言えば心身を刺激する文化が不可欠なのです。そうした文化に触れることで、刺激や興奮を得て知性的感情的な快感や満足感を獲得しているのです。それが例え疑似体験としても、確かに身体的精神的に大きく影響を与えているのです。
これを徹底排除してしまうと、大抵の人は内的処理が就かず、やがて一人々々の心は要求不満が飽和状態になるのです。そうしますと、陰でそうした刺激を求めるようになるために、期せずして不穏当な商売人が暗躍することになるのです。待ってましたとばかり要求が要求を刺激して無秩序な風俗営業が、寧ろ当然のように安定的に流行ることになるのです。
ここで人間の徳性が大きく問われるのです。人格の大切さ、人間として真の自律が如何に重要であるかを、もっと真摯に自覚すべきです。これは全ての教育の最上位に位置づけるべき事であり、同時に最優先して取り組まねば大変なことになる重要課題なのです。これが教育の基本目的なのです。このことは性差に関係なく、人間の条件として培い向上を図らねばならないことです。
女性の自然さには又異なった要素があって、男性とは一寸様子も異なる重大な問題があります。勿論個人差は大きく、決して決定的なことではありません。只傾向としてその様になり勝ちだと言うことです。
妊娠すると、女性の身体は新しい命のために整えられていきます。総ての骨が可動性を持ち、それに因んで身体全体が弛緩傾向になるのもその一つです。精神性も次第に母性本能に比重が移り、抽象的な思考や忽ち直接的でない事柄などからは意識が遠のいていくのです。危なげなか弱い赤ちゃんに合わせて、優しくふんわりとした、しかも極めて近視眼的現実的に心が働くようになっていくのです。これが種を育むために獲得した自然の智恵なのです。これがオーソドックスな姿であり、母性本能の健全な姿です。子育て本能は本能の中でももっとも美しく強烈なものです。子供のためだったら命をも省みることなく、血相を変えて守ろうとする働きです。
ところが今日のような人工環境の中で育つと、そうした自然の生理的営みが阻害されてしまうために、豊かに備わっている自然の智恵、即ち子育て叡知の元である本能が発露しなくなっているのです。この事が怖いと言ったのです。
本来妊娠出産は自然の作用であり、素直に自然に任せておくことで生理的な変動がスムースに働き、それが元で大切な本能が順序よく花開いていくのです。
特に成長期にある子供は、大地から離れ自然から遊離してはいけないということです。自然との関わりを失った生活をすると、生理的にも精神的にも本来の天然の機能が円滑に発達しないのです。それはこの自然の中で何十億年も掛かって生命進化を繰り返して発達したもので、人類に達することが出来たのは、総てこの自然に拠ってのみ可能だったのです。又総ての種が存在し継続することが出来るのも、この自然の中だけです。
単に身体を構成している物質や生命を営む食材が自然に依存しているというだけではなく、直接自然と関わっていなければ総ての機能が健全に成長発達しないのです。分かりやすく言えば、自然から離れた瞬間から天然の機能は退化し、何世代かで空中分解的に衰退し、法的にも行政的にも手が着けられなくなるのです。そして社会として機能しなくなり修羅場となり滅んでしまうのです。
現代は有効な自然が希薄になっただけではなく、不必要で過激な刺激が蔓延した日常です。だからそれらによって知らず知らず、知性と感性と意志のバランスを崩されてしまい、精神は常に不安定に成らざるを得なくなったのです。常にモヤッとした不安や不信感や不満が心を塞ぎ、自信喪失を来たしているのです。これが全体危険の始まりなのです。
我々の精神は色々な事柄に接して、勿論歓喜することもありますが、思い悩むことも腹立たしさに感情を動揺させることもあります。しかし同時にそうした心を浄化安定する機能もちゃんと備えた存在なのです。本来の機能は素晴らしいのです。それは明るい夢や健康的な希望を抱くことで、過去への拘りを切り、無限大の可能性がある未来へ熱い思いを馳せるという機能です。これが素晴らしいのです。一変に心が明るくなり軽くなるのです。これが本来備わっている浄化安定機能なのです。
ところがこの大切な自己防衛機能である精神浄化安定機能の成長を、早くから阻害し萎縮させてしまっているのです。この自己破壊的な精神状態を解消し救ってくれるのは、やはり自然しかないのです。
小さい頃より自然その物に親しく接することです。そして色々な事に興味を持つことです。また木登りとか走りっことか相撲などをして、仲間と健全に競い合い刺激し合い、身体をフルに機能させることです。それらを通して躍動し、爽快感を得、達成感を得、感動を得ることが大切なのです。
この時、心は過去の引きづりはなく、軽快感や躍動感が常に「未来を希望の世界」として意識していますから、夢と希望で何かにつけてわくわくしているのです。これが自然の成長の様子でありリズムです。ひずみのない清々しい精神と言うことです。これが精神の浄化作用であり安定作用なのです。日に何度もこれを味わい感じて育たなければ、精神の防衛機能は発達しないのです。この機能によって精神の安定を得ることができ、負の作用から救われるのです。
即ち、知性感性意志の一体化、つまりは身と心の渾然一体こそが、最も安定していて、最も自然で健全なのです。ですから成長期には、この状態を最も大切にして教育をし、生活しなければならないのです。
自然の中で躍動するということは、人間動物として身体的機能をフルに発揮すると言うことです。従って本来的に内在している野生性と言いますか、動物としての本能も、天然の発露として素直に顕れてきます。それが子供らしい子供なのです。これが成長のために必要なのです。命の尊さを知るためには命に触れることがなければ成りません。子供が命に触れるということは、本能的に他の動物などを追っかけ回し、捕獲することであり、飼うことであり、連れ回したり抱いたり、時には虐めたり殺したりすることなのです。
そうした触れ合いによって感性が刺激され、無意識に残虐な殺し方をしたその事に対して、可愛そうなことをしたと、始めて人間的に魂の疼きを覚えるのです。自律の本になるもの、それはこうして意識・無意識に実体験して得た経験知に有るのです。それが魂の中で疼き、そして叫ぶから制止力となり自律となるのです。
真に成長を遂げるためには、特に動物としての本能的な凶暴性や残忍性は、早く発露させ脱皮させなければ成りません。弱肉強食の本能は、自然界で活きる者の宿命であり、無意識に機能するものです。それを自覚にまで高めなければ本当の人間には成れないのです。その大切な自覚をもたらせるためには、自然界の中で最小限の経験によって次の成長を促し、それらを脱皮していくのです。それが自然のリズムの流れであり、自然の成長なのです。
悪戯も残忍性も動物的闘争心も攻撃性も盗癖性も、成長段階の一過程として顕れますが、健全な成長は当然魂も育てますから自然に乗り越えて、人格形成へと成長していくのです。本来の理性と豊かな霊性ある存在へと成長するためには、止むを得ない必要悪でもあるのです。
無経験故にそうした本能を脱皮することなく大きくなった人間は、危険な動物の性を内に持っていますから大変危険なのです。子供が虫を踏み殺すように簡単に人の命を奪うという精神構造は、尚未だ畜生動物の域を脱していないが故なのです。例え人間の言葉を話し、外見的には確かな人間であったとしても、魂に関する領域が人間に達していなければ、人間界に生まれるのが早すぎたと言うべきでしょうか。
ですから如何に健全な成長が大切かと言うことです。自然の中で仲間と遊んでさえ居れば自然発生的に子供社会が出来、彼らなりのルールも生まれ、知恵を出し合い一層躍動感を求めて野山を駆けめぐるのです。子供社会が健全に機能するためにはどうしても豊かな自然が必要であり、好きなだけ悪戯が出来る環境が要るのです。自然は実に上手くしたもので、四季折々の変化は子供達を決して飽かすことなく、新鮮な感覚と感動を与えるのです。常に何か好いことが起こりそうな予感に胸を膨らませています。それが本来の子供の心です。そして全身の機能を使って遊ぶのです。子供達は遊びによって心身を発達させ、遊びから多くを学んでいくものです。
こうした環境で育つと、精神的にも肉体的にも自然が隅々に浸透して、ゆとりと潤いをもたらせます。自然はこちらが踏め込めば踏み込むほど深く大きく抱いてくれるので、理屈ではない面白さと物の道理や関係、そして美しさを教えてくれるのです。ですから忍耐も努力も諦めも、闘志も反省も妥協も、何れもが全体の関係と言うかバランスの取れた、弾力の効いた切れの良い成長をもたらせてくれるのです。
ここに於いて自律性も自発力もが育ち、責任感も倫理観の基本も備わるのです。これが自然の偉大な浄化作用と教育力です。これは学校という場では絶対に学ぶことが出来ない大切な事柄なのです。
勿論先生や親による教育は大切です。道理を知り、考え方としての理念は大切です。分を知り弁えになる元だからです。しかし、子供は動物的要素がまだ濃厚であり、機能の発達は取り分け大切なのです。
順序としては体の機能が優先して、より健全な成長しつつその上でもたらされていく知的教育が本当なのです。人による教育は教える側と教わる側との関係から成り立っていて、多くの場合、言葉と文字を基本としています。
これらは総て知性で処理する情報ですから、知識量は当然増大します。勿論これらも重要です。だが、これに費やす時間が長ければ長いほど、体と心の遊離時間が長くなり、そのために成長のリズム自体を狂わせてしまうのです。自然のリズムで躍動してこそ、知性感性意志の三位が統一し、それによって健全な成長があるのです。
言葉と文字だけで思考系を刺激し続ける場合、知的興味と面白みや満足感をもたらすだけの力量のある先生ならいざ知らず、面白くもなくいやいやでも、当の本人は従うしかないのです。気持ちは白けてしまうし、頑張らねばいけないから無理にもしようとする意志が働きます。その上、どうしても理解することが出来なかったり間違いが続けば、もうどうでもいいやと諦め意識が台頭してしまい、実に厄介なことになるのです。ですから三位の遊離は、即精神の不安定状態を意味するのです。この状態が一番危険なのです。
精神の大切な統一性を破壊し続けると、三位のバラケがひどくなって仮想の分裂症状をきたし、互いに相殺し合う関係になるのです。そこから精神状態は次第に悪化していくばかりです。ノイローゼになる絶対条件がこれです。逆に三位の遊離がない限り、絶対にノイローゼには成らないのです。自然の作用である精神の浄化機能がちゃんとしてくれるからです。
その子の異常状態を発見した時には、既に強度の三位分裂症候群に陥っています。発刺とした子供らしい躍動感をもたらせる自然の機能がかなり以前より退化しているからです。そうすると精神の浄化機能・安定調律機能が発達しませんから、自律性の根底が阻害されたまま大きくなってしまうのです。このような内的破壊を起こした子供の状態など、一般の親や教師に分かる筈もなく、況や分かったとしても、普通の親や教師に出来る根本的な改善策は何もないのです。
そんな子供は毎日戦々恐々とした気持ちを携えていますから、ちょっとした一言で死ぬほど傷ついたり、それが動機で拒食症や過食症になったり、感情爆発による事件を起こしたりするのです。
そんな不安定状態にある感情というものは、直情しますからとても危険なのです。その衝動力は生命力と直結していて、極めて動物的ですから直ぐに獰猛化するのです。子供は不安定で苛つく心を紛らわせるべく、重ったるい自分を吐き出し、片時でも忘れようとして馬鹿なことをするのです。
諸問題を起こす今の子供達の原因はこれなのです。こうした背景で殺傷事件が起こり、且つ続発していくのです。まだまだ何が起こるか分かりません。これが今の時代性で傷ついた子供達の現実なのです。
自然から遊離し、自然のリズムを壊していることも知らないで、やたら知性にばかり向かっている今の教育が如何に危険であるか。現在の教育が根本的に子供を駄目しているのです。
斯くして育った今の若い親は、子供を産むことは出来ても育てることが既に出来なくなっている、その理由が分かってもらえたでしょうか。
こういう親に育てられるのですから、この世に生を受けたとたんに、その子は過酷な人生が始まるとすれば、甚だ気の毒なことです。
赤ちゃんは環境に慣れていくまでには一年以上かかるのです。それまではできるだけ安全で、何の恐怖も心配も悲しみも感じなくてすむ静かな生活が必要です。初期は身体で感じたまま反応します。知性以前の本能作用ですから、まさに動物的であり直覚直感で総てです。
ですから急激にぱっと抱き上げたり、さっと下ろしたり、耳元で大声を出したり、どんどんといった強烈な振動などを与えますと、恐怖のため全身が逡巡して身構えてしまいます。それは動物本能の危機感に襲われるためです。これに準ずる刺激を無神経に与え続けると、危機本能を刺激して精神構造の根元に組み込まれてしまいます。組み込まれたら最後、知性や意識や感性の根底に存在して折々に顔を出すのです。これは自分の意識以前に作動する厄介なものです。呻吟しやすくびくびくして自信がもてず、人を信じるより疑う事が強く、そのため不安定な精神になりやすいのはそのためです。
最初にやり損ねてしまうと、一生おどおどした心を引きずって生きることになるということです。だから人間という最も高度に発達した生物は、その完成域に達するまでの道のりが長く精細なので、発露していく手順と踏むべき要素をちゃんと踏んで経過しなければならないのです。
人間として成長発達する自然のリズムを大切にすることです。つまり動物としての健全な機能を先ず備えることです。それが元になってちゃんとした女性に成長するのです。そして始めて子供を産み育てるのに必要な本能が機能するのです。さすれば出産は自然に安産であり、しっかりした母性本能が働き、育児本能も自然に発露するので、赤ちゃんの様子が悉く感知できるし対応力に事欠かないのです。
今日のように発達した子育てのための多彩で便利な文明に目を奪われることなく、本来のシンプルで簡潔な智恵が、赤ちゃんを健全に育ててくれるのです。迷うことも苦しむこともなく、毎日新鮮で楽しい育児を満喫しつつ、母としての更なる自覚と使命感が湧いてくる状態でなければ本当の母性ではないのです。子育ては本当に楽しいものです。苦労が少しも苦労ではありません。
健全な母性であれば、ですからちゃんと成長に合わせて必要な叡知が自然に現れ教えてくれますので、妙に知性でいじくり回す事をしなくて済むのです。自ずから分かるからです。
主人が「わっ!」と大きな声で接っしたなら、「あなたそんな大きな声を立てたら子供が驚くし、精神的に恐れを抱く子供になりますよ。私達の大切な子でしょう。優しくお願いしますね」と言った注意が自ずから飛び出してきます。
確かな本来の母性が、光に対しても、音にしても、速度にしても、食事にしても、温度にしても、入浴に関しても、排泄にしても、赤ちゃんの一番適正を感知して対応してくれます。天然の優れた英知に基づいて子供に接していけば自然な子供の成長があるんです。育児の醍醐味は、主人とともに味わい感動すべきです。
今、頻繁に虐待事件が起こっていますが、自然環境の破壊と知識偏重教育によって、心がずたずたになった結果です。心と身体のバランスが決定的に崩れ、自分を健全な人間として保つための、最も大切な精神要素が根底から阻害されて育ったからです。全く自信もなければ自律性も尊厳性も育たなかったからです。ですから育児が満足に出来ないばかりでなく、対人関係も表面だけならともかく、まともに通常の付き合いは出来ない精神構造なのです。
従って夫婦間も家族間も人間性が欠如していますから自己中心となり、夫婦であり親としての自覚も責任感も希薄なのです。ちょっとしたことが元で直ぐ離婚に至るのは、何とも情けないながら心身両面の幼稚性による人格不全と言うことです。その本は、やはり自然と遊離し、自然のリズムとバランスを失ったまま成長したからです。結果、母性が健全に発達せず、従って育児本能が機能しないのです。
そんな新米ママさんは、仕方無しに育児書に頼らざるを得ず、二十四時間、本に追われる育児となるのです。当座とにかく書かれていることを理解するために知性は全開状態です。次々に起こる分からない現象に挑むとなれば、極限的な意識で臨むことになり、自然に余裕がなくなるのです。
それでは疲れるばかりです。我が子可愛さより次第に重圧感へと転じ、日夜のない、終点の見えない世話事だと思い始めると急に疲れてしまい、面倒が嫌悪に、そして憎しみにまで愚劣化するのです。赤ちゃんや子供の虐待は、こうした身体的疲労と心的疲労が背景にあって起こるのです。
一方表面上では高学歴の時代を迎えました。一面の批判精神は攻撃的であり、理解できない事象などに対しては、存在さえも否定するほど自己中心になっています。本による勝手な解釈は、次第に飼育的となり、妙な可愛がり方はペット的となり、逆にペットが人間的扱いになり、畜生と人間との境が分からない育児感覚になるのです。これも後に大問題を引き起こすのです。
何れにしても内なる開けと発露による本来の力に勝るものはなく、外部から取り入れた借り物の知識とは雲泥の差があるのです。このことは成長に伴って更なる格差となり、子供は子供で甚だしく傷つき、親は親で訳が分からなくなって苦悶し続けるのです。早くもここで既にすれ違いを起こしていますから、子供の智恵が進むにつれて親子関係がぎくしゃくしてくるのです。
勿論今の若いお母さん達が総てそうなると言っているのではありません。そのような若い母親が多い理由がこれだと言うことです。また原因は複合的なもので、核家族化も大きな理由であり、総ての変動速度が激しくて就いていけなくなったことも、価値観の多様化で何が本当かそうでないか、必要か無用かが分からなくなったことも、主人が殆ど家庭に居ないため相談が出来ないことなども、この時代とは言え悲劇的な理由なのです。それらが全部子供達に直接関わるので考えさせられます。
この事を本当に解決出来るか否かが、次世代を健全に育むことが出来るか否かを決定するのです。ただ理由が何にせよ、我が子を不幸にさせたくないのは共通した願いです。従って少しでも根源的に赤ちゃんと成長との関係を理解して、無理のない健全な成長を促すための努力は、決して惜しむべきではないでしょう。
自然の働きには、気持ちが良くて泣くはずはありません。泣くには泣く理由があると言うことです。その理由を素早く察知するには、知性よりも寧ろ母性本能による直感の方が早くて楽で適格なのです。母性の直感に素直に従って行為していけば、赤ちゃんの折り自分も嘗てそうして親に訴えてきた過去の知らざる経験が蘇り、泣いているその理由がちゃんと感じ取れるし分かるようになるのです。ですから母性を信じ素直にそれに従えば、何も構えて力んだりすることはないのです。勿論経験知は回数を重ねるたびに精細になっていきますが、基本は母性本能による直感です。ちゃんとした成長をしていれば、赤ちゃんが言葉を用いないだけ、全身が神経になり知性になっていきます。それが母性の素晴らしい直感であり叡知というものです。
これを非科学的とか非理性的だと言う者は、本当の母性、本当の父性に目覚めていない未熟故の無知性だからです。何十億年の間、淘汰し尽くして出来上がった母性本能が、本当に非科学的で当てにならない機能であったなら、人類も他の動物も次世代を育てられず、とっくに地球から消滅しています。こんな明快な事実に即した道理が分からないのですから、哀れむべき輩ということです。そのような人の言葉に迷よわされないで毅然として育てて下さい。今時の不健全な成長をした知性よりも、母性本能による育児機能の方が遙かに完全であり安全なのです。
嘗ての若い母親はみんなこうして母性本能の直感による経験知で育ててきたのです。誉めるのも叱るのも訓育するのも、総て母性から滲み出る魂に従って教育したのです。そこには迷いも躊躇もなく、心から吐露する自信と迫力があり、生の生命力がそのまま伝わったのです。だから自律の利いた人間になったのです。親や子供のためにも、恋する人のためにも、国家のためにも、天皇のためにも、自尊心や信念のためにも潔く死ぬことが出来る精神力を宿していたのです。
今の子供達はしてはならないことも分からず、分かっても守れず、しなければならないことも分からず、分かっても出来ず、自信も無く自律性も育っておらず、どこまでも自己中心的です。若くして気高い理想も夢も持ち得ない人間になっているでしょう。根本が育っていないからです。本当に困ったことだし危険なことなのです。
しかも家庭での会話は内容も品性もなく、また子供が成長し自律するためにどうしても必要とする教養的なものは全く無い状態です。言葉と態度は親から学びますので、できるだけ美しい言葉、美しい概念、そして美しい思考系になるような言葉遣いや話し方が大切なのです。こうして少しでも教養に心がける努力も、美しい愛情なのです。母性が確かであれば、豊かな愛情が必ずその様に成って発露するのです。
不健全成長故に父性も母性も不全となり、教養意識が働かないのです。どうしても常に批判的となり、恨みがましくなり、世間のつまらぬうわさ話ばかりを、しかも露骨にするようになるのです。勿論親の話が総て分かるものではありませんが、意識の方向付けには充分です。親の気性や性格が子供に似るのは先天性ばかりではなく、こうして染み込んで出来る部分が大きいのです。最初の段階を大事に育てなければ、後で色々な教育を施しても根本は改善され難いのです。
それまでの育ちが如何にあろうとも、やがて自発性が芽吹く時期が来ます。第一時期は女の子の方が早いようです。母親が自分のことを放っておいて真剣に化粧をすれば、子供にはその母親の背中は「こっちをよく見なさい、このようにするのですよ」というサインなのです。真似るのは先ずお化粧からです。これが自発の始まりです。
従って学習は真似から始まるので、危険な物は手近なところへ決して置かないことです。例えば髪を解く仕草を真似ますが、子供は櫛を知りません。そこのらしい物を握って頭を撫でますから、剃刀などを置いていたら大変なことになります。この事で私もヒヤッとしましたから。
何でも親のやることを真似る、実はこのとき自発力が最も旺盛に育つときです。ですから危険を絶対回避した方法で、正しいやり方を教えて何でもやらせるのです。その時です。出来具合を誉めることより、教わったとおり正しくしたことを誉めることです。手順を正しく教え、常に正しい手順通りにするように、身に付くようにさせると、きちんとした結果が出てきます。良い結果は或る意味では正確さの追究ですから、ますます上手くするためには、ますます注意深く正しくすると言う姿勢を培っていくのです。これが親のしてやれる最も大切な教えです。将来のための、総てに通ずる基本的教育であり、その始まりです。
親の真似をしたがる、この時を軽く看て無視すると親から遊離してしまいます。一体感を全身で信じていたのに相手にされないために、自分の殻に閉じこもる方向へと進み、内心に起こる侘びしさ悲しさと、してみたい要求不全によるストレスから、親の注意を自分の方へ喚起するために、そのための悪戯をするようにさえ成るのです。出来るだけ反応が大きいことを目指してやりますから、被害も大きな物になるのです。
子供は悪戯意識からではなく、生理的精神的な要求ですから本気です。もしその様な事件が起きましたら、余程対処に注意が必要です。単純に叱って済むことではないのです。ですから子供の内的様子、成長過程に起こってくる自然発生的な要求の意味の深さを良く理解しなければならないのです。
事が起きてからの対応策を考えることより、自発の侭にその芽を多方向へ向けさせ発展させることが大切です。であれば決して親を困らせるための悪さなどはしません。心が健全だからです。
男の子は動物的な全身行為が主体です。人形などを人形として扱いません。そこにある一般の物です。動く部分に対して極限まで動きを試みます。ですから人形の首や手や足は、瞬く間にバラバラにされてしまいます。大人から見ますとそれは破壊に映ります。だから注意の対象になってしまいます。
ですが自然発生的に試みたことは立派な自発であり、事の関係はこうして学ぶものですから、決してむげに叱っては成らない事柄です。寧ろ差し支えのない物を与えて、飽きるまでさせることが大切なのです。学びの初期段階はこうした分解からであり破壊からです。そのためのガラクタを充分に集めておき、手際の良い壊し方を教えてやり一緒に楽しむことです。そのための道具なども専用をあつらえて、収納箱も用意しておくのです。そして上手く分解したところは誉めてやり、難しいところはちょっと手伝いながら、正しい分解方法を教えるのです。
こうして危険なことや手加減というものを身体で修得していく事が大切なのです。時計・テレビ・自転車・単車などと次第に高度な物を扱わしていくと、驚くほど科学性が発達するものです。
大した息子ではありませんが、中学生になりましたら、スーパーカブのエンジンを一時間で取り替えていました。身体と脳が密接に作用するので、左右の手先は片時も無駄なく働き、作業は手順宜しく進む、その事に小気味よさを味わっていたようです。
つまり、小さい時の体験知情報は、身体の全身機能と、それをコントロールし情報処理をする脳との一体型ですから、いきなり精神構造に取り込まれて直ぐに活用されていくのです。ですから知識として取り込む知的機能も発達し、それを身体に作用させる運動系も同時に発達すると言うことです。
ただし、そのような成長をさせますと、画一的で無味乾燥の授業と教師の在り方には全くソリが合いません。この事は不幸とも言えます。心的内容を見て取る教師は殆ど居ませんから、極めて陰湿な処置に遭います。余程注していないと教師によってメチャメチャにされてしまいます。
教師が根源的に悪いわけではありません。ただ、この時代の環境によって出来上がっている精神構造を理解する力がない、即ち、変化に対応できないからです。何故かというと、子供と精神について無知なために、変化する精神の因果関係が分からない。だから適切な対策が取れないのです。従って、今の子供達に、今の先生方ではとても人格教育など出来ません。
言うまでもなく我が国の教育の在り方と教師の質は、伸びる芽をメチャメチャにし人格不全にする点で改善を急がねば成りませんが、決して学校教育と先生方だけが原因ではありません。まず親が人間として健全な自律性を身に付けることに掛かっているのです。
では、この任に堪え得る教師を育成すれば好いではないか。勿論それで好いわけですが、それは不可能です。何となれば、ちゃんと指導し育てる力量のある指導者が世界規模に於いて居ないことと、そのためのシステムがないからです。暗い見通しですが、我が国の教育を立て直すことは至難中の至難です。よってこのまま未熟な親が続出する現実があり、健全な家庭形成が望めない以上どうしようもないのです。
息子は完全に勉強嫌いになりました。彼自身は弱者を虐める者には我慢が出来なかったようで、しなくてもいい喧嘩をしては叱られ、天然の自発性は先生方を困らせたようです。しかし大勢の友達がしょっちゅう出入りしていましたから、結構人気者だったと言うことでしょうか。
これはいかんと思い、アメリカの大学へやりましたら、物理系に進み、もう二つの大学を出ているのに更に勉強をさせろと言うわけで、別の面で親は今以て大変です。しかし本来的には勉強嫌いではなかったと言うことです。
男女の性差は確かにあります。娘は台所に立つ母親の姿にとても興味を抱きました。ここら当たりにも違いが出ています。息子は全く別方向でした。何でも親のしていることをやりたがるのは、子供として共通しています。
娘がさわりたまくてうずうずしているのがよく分かります。それならばと、安全に触れるように台をこしらえてやりました。母親に近い視点でまな板に触れられるようにしたのです。親は子供の成長が何より嬉しいものです。ですから頗る楽しそうに、包丁の持ち方やら切り方を教えていました。ぎこちないながらも真剣に一切り一切りをする姿は可愛くもあり頼もしくもあり、これからの成長にわくわくするものを感じながら眺めたものです。当の本人は、親のする食事の支度を自分もすることができたという強烈な達成感に感動した様子でした。これらは特に自発性を高めたようです。
とにかく掃除であれ食事の後かたづけであれ、何でもしたがりました。させてくれることを確信してからと言うものは、ずっと母親から離れようとしません。玄関での履き物の脱ぎ方そろえ方、お膳の支度など、瞬く間にマスターしました。きちっと揃ったその整然とした結果に、子供ながらに美しさを感じて、整えることの意義なども知ったようです。テーブルに並べられた箸や茶碗など、日毎にきちっと綺麗に並べられるようになったのです。なにかが面白くて、率先して手伝おうとするのです。
勿論その時には必ず労を謝して、「まあ、お母さんが頼まないのにもう準備をしてくれたのね。偉いね。箸を見てご覧よ。まっすぐに並べられていて、こんなにきちんと出来たら、お母さんと同じじゃない。さすがお姉ちゃんだね。お母さんとても助かったわ。どうも有り難う」
勿論思いがけないことも屡々しでかしますが、それも学習の一端で、「あれれ、これは間違えましたね。こうすれば、ほら、ちゃんと出来るでしょう」とアドバイスをしては、ちょっとやって見せることで教えていました。
鋏でも何でも使いたがります。鋏は特に成長に有効です。指先の小さな動きが大脳を良質に刺激するからです。こうした危険な道具は本人に合った物でないといけません。大きすぎたり切るのにコツが要るようなものは、心地よく思い通りにできませんから、面白さを感じず、興味を失します。従って、手に合った使いやすくて良く切れる物を専用に持たせることが肝要です。
広告用紙をどっさり用意しておいて、手始めに、切り抜きを教えるのです。絵であれ文字であれ、線の通りに切るのです。非常に細かい作業です。細かい注意力が正確さになり美しさになっていくので、たかが鋏、たかが切り抜きなどと軽視しないことです。これを親も一緒になって真剣にするのです。子供はちらちら親のする様子を窺いながら、見よう見まねで修得しますから、一緒にすることが大事なのです。目を輝かせて取り組みます。出来たら如何にも誇らしげに見せたものです。こちらも大いにのって、興味をそそったものです。
早くからこれをして育ちますと、意外な面が発達しました。切っていく速度と紙を持った片一方の手とを同時に動かしていく動的な按排が必要なので、バランス調整機能が発達したのです。眼で確認しつつ両方の手を巧みに動かして目的を達成する、いわば単純な行為ですが、これは知能と身体との緻密な同一化であり、最も健全で安定した理想的な関係なのです。能力的にも注意力・集中力・判断力の総合的な知力を開発することであり、手の機能を繊細にすることでもあるのです。
それよりも何よりも、やれば出来るんだという自信が養われ、それが心をとても安定させるのです。更に素晴らしいのは、何に対しても前向きに取り組むようになることです。感性も自然密着型の繊細でしかも豊かに育ち、とても器用ですから、上手ではなくても、料理でも何でも手際よく楽にこなす力が備わるのです。それは余裕を持った人生が出来ると言うことです。
これら総ての元が、幼児期の最初の興味と悪戯を、如何に有意義に対処するかということです。ここから始まるとすれば、親は豊かに備わっている天然の力、即ち母性本能による直感力を充分に発露し得るように、円満で健全な成長をしておかなければならないのです。ですから親のなす事に何でも興味を持ち、充分に体を動かして全体の機能を発達させることです。決して自然のリズムと流れと要求を阻害しないことです。
それから日本人は頭がよく、とても器用だと言われます。本来の日本人は確かにそうだと思います。それは基本をしっかり培ったからです。計算には九九が欠かせませんが、口ずさみやすく覚えやすい音調も助けになっています。それと記憶力が旺盛な早い時期に、徹底的に暗記させていたからです。
それから漢字の学習です。教え方は大いに問題ですが、縦、横、斜め、点の集合体、それを合成させて文字にする。あの書取は日本人的な緻密な知能を形成するのに大変役にたっています。
ただ悲しいことに、書き順をやかましく言うために、殆どの子供が漢字嫌いになるのです。ああいう深い文化というものは正しく沢山使うことが課題であって、書き順が文字の命ではないのです。実際大人になり社会で文字を使うに当たっては、僅かな書き順の違いなど問題ではないのです。それよりも沢山の漢字を正確に豊かに使うことが大切なのです。一番いやがり、しかも意味のないことをして、わざわざ漢字嫌いにするような教育はどうかと思います。
漢字は語源を知ると大変面白いものです。当時の人々の感性や価値観が分かりロマンがあるからです。ですから基本漢字を一度根底から教えれば、きっと忘れることなく、しかも正しく、より多く使うようになるはずです。
とにかく理屈無く、指を繊細に使って漢字を書くことは、知性と運動系の統合作用を促進して、自然に緻密性を高めるのです。日本人が器用なのは、無理に知性をつつかずに、自然の発達に則して自発性を育てながら、記憶力の一番旺盛なときに九九を覚えさせたり漢字の書き取りをしてきたからです。そして素直さと正直を大切にし、よく手伝いをして体をも鍛えたからです。
人が出来ることは自分にもできる、同じ人間だから出来て当然、という標準意識が自律性の基準にもなっていたのです。ですから日本人はそこそこにみんな何でも出来たのです。こうした民族性にまで成った背景には、人格を形成する精神文化が早くから充分に存在していたために、生活全体に渡っての意識が高かったからです。今は極めて劣悪な状況と言っていいでしょう。
これは人間を理解する上でのお話です。漢字の書き順に関することでもあります。私たちの平素は色々な行為をしています。物を上げたり下げたり移動させたりしますが、それらに慣れてきますと、行動形態として生理的肉体的に整ってきます。
右下から左上に持っていくというのはとても難しく、上から下へ引っ張る行為というのはとても楽でしかも安定した動きです。そういう自然の傾向があります。ですから書き順を喧しく言わなくても、身体が整ってくると自ずから上から下へ、左から右へ書くのです。その方が楽だしそれが自然だからです。それが本来の人間というものです。つまり自然な成長発達を正しく認識すれば、書き順など問題にすることはないのです。もっと人間を信じるべきなのです。
誰かが作為的に書き方をさだめて学問化しようとした者が居たからです。文字学をやり人間を知った者からみると、意味無い事柄です。木辺を書くのに縦棒から書いた方がまとめやすい人もおるだろうし、横棒から書いた方が構成しやすい人もおるでしょう。そういうことは個人の得意性に任せておけばよいのです。
抑も、文字も言葉も生き物です。その時代の影響を受けて変化するのです。それが文化の持つ側面です。それを法的に定めて文化を画一的にすることは余程の注意が必要です。行きすぎると漢字嫌いを起こし、結局日本人から漢字を奪ってしまうことにもなるからです。今既にその結果が出ています。若い人たちの何とも貧弱な漢字の知識力がそれです。本当に変な学者が多くなり混乱させるので大変困ります。
人には行動を始め、性格・気性・好みもそれぞれの傾向があります。この違いがあればこそ、みんながそれぞれの特性に従って、それぞれが関係し合いながらやっていけるのです。そぐわないことを無理にさせたり、逆にその才覚を無視してその子を駄目にするようなことはあっては成らないのです。右利きか左利きかだって傾向の問題であり、人の努力を超えた運命的なことも大いにあります。そういう傾向の有る無しを早くから親は知っておく必要があります。
そのためにはスキンシップをはじめとして、あらゆる角度から接して子供を細かく観察することです。争い事に向いていない性格でしたら、少し強気に出られたり言葉などで脅されただけでも呻吟してしまいますから、心の健全性を保ち、綺麗でまろやかな性格に育てるためには充分な指導が必要です。それは親のする事です。
何故なら、最も信頼している存在こそ、最も効果的な指導が出来るからです。ですから親に勝る教師は居ないのです。
そもそもいじめに遭っている事が親に分からないというのはおかしいのです。生まれてからの育て方に於いて、観察力が欠けておるからなんです。変だな、おかしいなと親でしたら感覚で感知できなければいけません。子供が一生懸命自然を装うっておっても、心が子供にとけ込んでいれば親は感ずるものです。神経や動脈がどこかで繋がっておらないと本当の親子じゃないんです。
日本もそう成りつつありますが、先進諸国はエイズや麻薬や拳銃の問題が日常化しております。非常に危険な物が我が国にも迫ってきております。こうした問題に対処するのは当事者自身ですから、そのためにも道を道としてきちんと見分けられるように育てなければ、ひどい目に遭ってからでは遅いのです。こうした半ば感覚的直感力のような倫理観は、家庭生活から染み込んで出来上がっていくものです。正に親の存在意義そのものです。お父さんお母さんの平素の生き様と言うところです。
お父さんからこういうことはしちゃいかんと言われた、お母さんが人の道を外れたことをする者は人間ではないと言ってたぞ、と親の心が魂に伝わっていれば大丈夫なのです。親の理想やら祈りや人としての道などを、何気なく日常的に語ることです。それが教えとなり訓育となって、精神の中心というか根底にぴしゃっと入り魂となるのです。何気なく日常的に話すところがポイントです。
そうしておけば、判断の基準が親の心に準じていますから、本人は迷いがないのです。自律し自立するには納得できる道理が必要だし、自分の判断に自信が裏打ちされていなければなりません。つまり、感情が不安定では縁の強い方へ流させるからです。それはほったらかしで備わるものではありません。魂に関わる高度な精神性というものは、魂によってのみ培われ育まれるものです。知性や情報とは別口です。ですから親と子がいかに密接な家庭であるか否かということです。家庭の質が問われる決定的な意義は、魂は魂でしか育てられないことにあるのです。
だから親はもっと家庭におるべきです。特に幼児期は母親から離すべきではないのです。劣悪な家庭はその逆ですが、ちゃんとした親である限り最も大切な時期に手元から離すことは、大切な大切な心の根底に穴を開けてしまうのです。施設に預けることは親子の縁がそれだけ削がれます。親の真似をすることによって育つ自発性は、親でなければ駄目なのです。総てが悪い訳ではないのですが、この時期こそ、母親によってしか育てられない大切な心の要素があることを知ってもらいたいのです。出来ることなら中学が終わるまでは、母親は家庭に居るのが理想です。
一方、父親は一家の長として、信頼と尊敬のうえに醸された威厳ある存在でなければなりません。であればきちんとした家庭に成るのです。子供に秩序がないのは家庭に秩序が無いということです。
何故か。それは父親が家長としての健全な内容を有していないからです。そんな家庭で育つと、何が大事で何が枝葉末節なのかが先ず分かりません。弁えの基本がないからです。言うなれば筋道が無いということです。当然分を弁えることも出来ないのです。
家庭には厳然とした序列が必要です。この序列は同時に秩序となるもので、社会性の基準要素の一つですからとても大切なのです。
家には精神的な文化が絶対必要です。最も尊厳の高い部屋、その又尊厳の高い位置などをきちっと弁えた家庭であればよいのです。こうした精神性を封建的だとか、前近代的だなどと言うて排斥する者は、早い話が精神に奥行きも崇高性もない人です。こういった人はしばしば筋の通らぬ事を言ったりしたりするのです。こうした家庭である限り、健全な子供に育てることは出来ないのです。して良いことと悪いこととが弁えられるように育ってこそ人間なのですから。
それが育てられないのが今の現実なのです。健全な家庭を形成するためには、ちゃんと成長した者が夫婦となり、そして主婦になり父親になるというこの大原則は、決して変わってはいけないのです。
したがって両親は、息子なり娘なりをきちっと育てて、これならば嫁に出しても恥ずかしくない。お母さんになってもちゃんとやっていけるだろう。息子ならば、これなら嫁を貰ってもちゃんと主人が勤まるであろう、父親もできるであろうと、親が自信を持って認められるまで育てるのが親の責任なのです。
知能も発想力も優れた人たちは多いのですが、全人的に見ますとはなはだ幼稚です。ある部分は小学校低学年のままです。さらにいえば、体の機能がぐんと退化しているのです。
結婚して父親母親になるんですが、これでは健全な家庭を形成するにはおおよそ無理が多くて大変だろうと思います。理屈を言うことは一人前ですよ。確かに知識も豊富ですし、文明を巧みに使いこなしていく上においては、年寄りが口なんか出せません。親も遠慮してしまいます。だから彼らに対して、足らざるところを足らざる、と言って人間的に忠告し、教えてくれる人が居なくなってしまったのです。やりっぱなしということです。その上身体を鍛える自然環境が無くなったために、物事に対処するに構えも腰の入れ方も全く成ってないのです。これでは何をやっても稚拙であり失敗も多いでしょう。それにとても危険なことです。
つまり、全人的教育をするシステムが世の中から無くなった事を意味しているのです。どんなに未熟であっても、自然体でそれを救ってくれる環境が無くなったということです。これは恐ろしいことです。
少林窟は遠慮しません。人間と畜生の境を明確にしていますから、チンパンジーのような食べ方や持ち方をしてると、「君はまだ畜生の性分から脱しておらぬではないか。人間が人間であるためには文化を持て。指先に神経と知性と意志を注いでやれ。それが人間なのだ。食らえばいいというのでは犬猫畜生と同じではないか。如何に真実にするか。如何に一噛みに徹するかを実践するのが禪修行ではないか。分かったか!」とこういう厳しい指導をするところです。
心ある者は一発でなおるんです。でもそういうことを本気になって注意し指導してくれる世の中でなくなったことが不幸なのです。これからの若い人が、実生活に必要な弁えが出来ないと言うことは、これからの社会は更に不健全になるでしょう。お互いの弁えが欠落すれば、共存の関係は殺伐となるばかりです。
いつもお話ししている通りの坐禅をしてもらうと、隙が無くなり全身に知性と神経がみなぎってきます。自分の総てに心が行き渡るようになるのはそれからです。自分が深く見えるようになってきますから、恥ずかしくないように、自然に美しく食べられるようになるのです。指が伸び、茶碗もきちっと持つようになり人間らしくなるんです。それはあくまで正しい指導とそうした環境の中にあってのことです。そうした教育的条件がなければそのままの状態です。それを見習ってこんどは子供が育つのです。
思えば今の日本、こんにちの家庭を健全な方向に改革できるか出来ないか。そんな思いを馳せると、私は殆どもう既に時遅しで不可能な気がします。それは親の言うことをすんなりと聞こうとする素直さも、それが当たり前だと理解する能力も、それを実行して身につけようとする向上心等が無いからです。
「こんな難しい箸でなくったって、スプンとフォークでいいじゃないか」と理屈を言われたら、それに対して、より向上底からの合理的な説明ができるだけの教養がなければなりません。
生活の伝統文化には、確かな機能性の中にも優美さ豊かさがある、その事が響く人間に育てることが大切なのです。
とにかく伝統文化というものは、途轍もない歴史的時間を掛けて磨かれ伝承してきたものです。まさに建国からの時間とその精神が形となり生活の一部になったものです。それが我が国の生活文化であり常識だということをよく語って知らせることです。そこから日本と日本人ということを深く意識するようになるのです。やがて民族としての誇りを抱くでしょう。
今日本人でありながら国籍不明の人種が急増しています。まさに魂無き家庭の象徴であり、教養も秩序もなくなった悲しい現実なのです。
今の若者を真に理解することは大変困難です。人の言葉を受け取る地場も、受け取った情報の処理も全く異質です。とにかく自己中心ですからとても貧弱な理解しかできません。言葉は伝わっていても内容は殆ど闇に消えています。その原因は、本来の家庭でなかったから精神の基本が整っていないのです。そう成っては本人がとても不幸ですから、折に触れては真摯な態度で語ることです。それが無ければ大人の会話を理解する力が養われないのです。
母親は宇宙で一番暖かくて優しい存在であり、家庭のベースをなすものです。同時に宇宙で一番怖い存在が父親です。特に父親が怒ったらこれほど怖い者はない、と思う程の威厳が必要なのです。そうした父親でなければ、最後のところのけじめをきちっと教えることは難しいのです。今の親は、みんな子供に遠慮し過ぎています。それは父性本能が発刺と機能していないから、自信をもって育てるだけの精神的成長をしていないからです。やはり時代性によるもので、退化現象と言うべきでしょう。
皆さんの家庭にあっては、床の間や仏間は最も尊厳の部屋として、品性も尊厳も充分持たせて、平素妄りにそこを使わないよう区別することです。他の部屋と同視せず画然と区別することからです。そこへ入った途端に身心が自ずから引き締まる領域にしておくことです。そして上座に座った人がどういう存在者かが、感覚的に自然に分かるように、きちっとした分のわきまえを培うのです。
人間として分をわきまえる基準がなければ、対応するのに困ります。となるとやはり家庭が第一となるのです。
お父さんはどんなにくたくたになっても、玄関へ入る時はしゃきっとすべきです。履き物もきちっと脱いで、ネクタイを取るのもばさばさと取らずにゆっくりと取って、ゆっくりと掛けて、そして一日ご苦労様といわんばかりにネクタイをすーっと整えて、徐に背広を脱いで、徐に背広を掛けて、そして真正面から奥さんの顔を改めて見て、「ただいま。お母さんもご苦労様」、子供達の顔を見て「今日も何も無かったかい」と、温かく鋭い眼差しを送るのです。この瞬間に、子供は父に絶対感を抱き、父の威厳に逆らえない一筋の信念を見て取るのです。生き物として本能的に従はざるを得ないという関係の確立と同時に、頼り甲斐も信頼感も自然体で確立するのです。これがないと、信のない精神構造となり自己中心になるのです。いうなれば心に尊厳性が培われていないために親を軽視した精神となり、不健全な親子関係になるのです。
なにごとも無かったら「良かった、良かった。お父さんも疲れたけれど、お前たちの元気な顔を見たら救われるよ」と言って、そこから一家団欒の、楽しい夜を形成していくのです。そこをいい加減にするから、子供が父親の存在も威厳も感じないままに横滑りしてしまうのです。だから如何に疲れて帰っても、一歩入ったら家長であるという自覚だけは失わないで対応して貰いたいのです。
そればかりでは窮屈な面が強調しますから、何かの時にはうんと奮発することです。例えばお祭りとか、お正月とか、おじいちゃんの命日であるとか、誕生日とか、そういう事はけじめを付けるべきことであり一家の記念すべき時ですから、惜しまずに振る舞うことです。そしてその記念すべき日の意義というものを、一家全員で共有するように語りかけるのです。これこそ親しかできない事柄です。その家だけの精神であり文化を大切にすることです。
おじいちゃんはこういう人だったよ、お前達に会わせてあげたかったな。本当に素敵な人だったんだ。お前達のおじいちゃんお婆ちゃんの命日は絶対に忘れちゃいかんぞ、という風に語るだけで良いのです。そうした厳然とした命の流れの話を聞くと、自分が今日存在しておることの命の宿命的な関係等について新たに思いを馳せるようになり、孤独感が一変して存在に尊厳を感じるようになるのです。これが世代間を超えた連帯感となり、自然に孤独感を解消するのです。こうやって縦から、横から、心をがっちり健全に刺激し繋いで育てさえすれば、今日の見当も付かないような多様化された情報の中にぽんと放り出しても、きちんと分別し対応してやっていけるのです。
今は夫婦間も、親子間も、兄弟間もそれぞれが、別々な意識で暮らしていますから、何時も心の片隅にすきま風が吹いていて孤独なのです。何でもない時は自由でいいかも知れません。が、心に引っかかる出来事などが生じた場合、一人で悩むことになるのです。本来なら家族に囲まれているだけで解消されていましたが、共有する心が無ければ通じ合えず、寂しく侘びしい関係となるのです。ですから健全な本来の家庭の大切さ、有効性を改めて自覚してもらいたいのです。
皆さんにはいささか古典的な教育観に思えたかもしれません。教育観というよりも精神を健全に育てるために、親の心得としてそうあるべきだということです。精神が構造化していく因果関係の上から、そうあらねばその様に成らないし、それが自然だということです。ですから理念としてではなくて、精神の特性として、人間性を高め健全な自律を形成するには、その様な必要条件を満たさなければその様には成らないということですから、具体的な話しとして理解して下さい。そうした努力を怠ると、後で大変なことになる確率が極めて高いことも理解すべきです。
驚いたんですが、大都会の夜昼が無いような分けの分からない環境じゃない、まだまだ自然が残っている小さな町のことです。ちょっと家庭の中に入ってみると、まあ心配の無い家庭は十軒に一軒か二軒あるなしです。八軒まではがたがたです。しかも悲惨な家庭も可成りあったのです。こんなになる前にどうして、と思うんです。
残念ながら問題が相当に深刻化して初めて外部に助けを求めるのです。田舎特有の精神性か、心にカーテンが掛かっているからでしょうか。その時には子供はがたがたになっていて、とても可愛そうですよ、深く傷ついていますから。その様に成っている子供の心情としては、もう家庭でもなく親でもない状態にまで崩れています。とても荒れていて、どうにでも成れ、どうせ自分は幸せになんか成れるものか、と自虐的になっています。ですから一寸したことで直ぐ切れるし滅茶苦茶が出来るのです。
それは恨みも怒りも憎しみも同時に亢進し激情しますから、自制力などはとっくに吹き飛んでしまい、即何をするか分からないと言う状態になるのです。身辺にこの手合いがごまんと居るのですから、まさしく今、何事が起こっても不思議ではないのです。
げに、心の不思議さ、その健全育成の大切さを思うと、私達のこの社会の方向性が見えて来るようです。結婚、家庭、親、育児と教育、その環境など、総て将来を左右し人類の存亡を左右する事柄です。その根元が心にあるのですから、一人々々がもっともっと修養精神を培い努力してもらいたいものです。でなければ、もうすぐみんなが悲惨な目に遭うことになるからです。
湛然さん、貴方も出家者として、これからの日本を、同時に世界を憂いて居られるでしょう。やはりこの法を活かし、道のために道を行じて、いかにして世に貢献したら良いのかお考えの筈です。今は修行者としての立場から、どう思われますか。何か一言。
湛然師:老師が色々仰いましたけれども、私個人としましては、自分の両親とか、家庭を持っている自分の兄ですとか、その家庭の人間関係等を見ますと、老師の仰るような秩序や健全な家庭の心などはなかったんです。私も親を尊敬していませんでしたし、だからそう言う親になりたくないという意志が、出家した理由の一つとしてありました。
本当に人間らしい生き方とは何なのか。自分としての自信が持てる生き方、そういう指針が持てない限り、人にどうのこうのと言えません。まず自分自身がちゃんとした存在にならない限りどうしようもないなと痛感しておりました。ですので、兄のところへはたまに挨拶をかねて遊びにいくんですけれども、子供に対しては典型的な学歴主義ですかね。それ以外価値観がないなと言う感じもするんです。親に対する子供の見方は、父親の存在感が非常に薄くて、何か知らないけれども生き辛いなと言う感じです。
私もお寺に関係していることもあって、他のご家庭を見ても同じような風景が広がっていることを実感しています。これがまさしく戦後の日本かなと、或る意味でとても危機感を抱き、又住み難くなっていることに悲しさを覚えます。戦後からずーっと続いて既に五六十年の姿なのかなと、自分の非力を含めて虚しい思いで居ます。
だから老師が仰ったフランスやアメリカ等、先進国の家庭と青少年の姿とかいうものも、まさしく全世界的な根本的な問題として大いに考えさせられます。これからの日本が歩んでいく姿なのかなと思います。だからこういう中で今一番問われているのは、一人一人の自覚された生き方というか、真の自律をするための指針が問われていると思います。私自身もこれを益々磨いていくことが修行者としての本分だと思っています。
老師が仰ったように、今こそ人間の本質に基づいた自然のリズムを大切にし、精神性豊かな家庭環境なり学校教育など、子供達の心を育てる環境を大切にしなければいけないなと痛感しています。そうでなければ、これからの日本は取り返しがつかないほど駄目になるなと思います。
それに先駆けて、やはり心の決着を付けることが第一ですから、老師のもとで本当に坐らねばと思って今日も来ました。きっと皆さんもそうだろうと思うと、力が湧いてきました。有り難うございました。
平成十三年四月十五日
平成十三年四月十五日 仏経伝道センターにて(第七回 普勧坐禅儀提唱より抜粋)
今後の続編予定 項目
乳児の育て方
ゆったりと育てる
教育の基本原則は自立、成長、一人前
親の立場、考え方、思い
教育の大原則
要素
我が儘、興味
教育する側の心得