原田祖岳老師による追憶

大顕欓隠和尚 「大乗禅」昭和12年11月号より
原田祖岳

欓隠和尚は近来の名匠であった。曹臨両宗を通じて、150年、200年以来、和尚の如き道眼精明の宗師はなかったと思う。曹洞に於いては月舟天桂以後、臨済に於いては遂翁雪潭以後にはあるまい。和尚の行業は余り感心できない節は多々ないではないけれど、其の眼の透徹と、其の筆端宗乗を挙示する腕力と其の舌頭宗風を扇揚する妙用と、この三大力用を具する底の那人は実に古今を通じて希に見る天下の大陰涼樹であった。

和尚の発心、修証、行化の跡を回顧一瞥すれば、若冠にして医科大学の業を卒え、今を去ること五十七八年前、全国的にコレラが実に非常なる大暴威を振るったことがあった。その際、東京の避病院に勤務して居った。連日五百人六百人の死亡者を送り出しつつあった。ここに忽然として一大無常観に当突した。立っても居てもおられない。這箇の一大事を解決せずして何の医業ぞ、何の人生ぞと決心し、何人にも行衛も事情も告げず、忽然として東京を雲の如く消え去ってしまって、広島市近郊の仏通寺に至り、寛量老師の門に投じて、死力を尽くして猛修行に精進すること五年、果然として生死の一大事を透破した。歓喜踊躍、手の舞い足の踏むところを知らない。而して謂へらく、世は末法澆季なれど我国幸にして這箇の一大事あるも、欧米未だ此事なし、吾れ往いて彼を救わん、先ず英国に渡って彼の碩学スペンサーを救わんと欲し、六年ぶりで風の如くフラリと東京に舞い戻った。友人諸氏驚いて其後の消息を聞き、且つ驚き且つ喜んだ。友人諸氏和尚に勧めて曰く、渡欧教化もさる事ながら、東京には南天棒老漢あり、親しく炉鞴に投じて試問一番せよと、是より同老漢に参ずること多年。竟に老漢の印証を得た。しかし和尚は既に道況倍す深く、当年の気焔万丈病も消散し、なほ痒所達手の未到を照顧し、天下の名匠を叩いて歩いたが、至る所函蓋合する底の那人に会う事が出来なかった。独りいよいよ苦修錬行、親参実究するところ、忽然として痛快に大悟大徹して、従前の悪智悪覚を一時に吐却することを得たのである。快哉々々。是れ則ち百年二百年間出の鉄漢たるを得たる所以である。和尚の正法眼と和尚の菩提心を窺い得る人ありや亦なしや。無事禅者流及び旧公案素透り者流の全く知るところではない。大樹王倒る。天下の真の欲涼者何れの処に向かってか去らんとするや。

和尚の人となりは極めて磊落にして洒脱、其の上、彼の豪放不覊なる南天老漢に久しく親灸せられたから、一段と其の特長を養われたものと察せられる。且つその記憶力は人をして驚嘆せしめるものがあった。また平素何事にも洒脱にして意に介せざる人に似ず、教化上の教材となり得る事は細大漏らさず、必ず即座に手帳に筆録するのであった。是れは之れ教化衆生心の親切からであったのである。なお如何に多忙の時でも問法者が訪問すれば、諒々として教えて倦まず、時に其の一箇人の為に特に先聖の語録などを提唱せられたることも屡々であった。また全国的に多少とも参禅の志しあるものより書信が来れば、たとえ問法のための書信でなくとも、懇切に仏法を説き激励の返信を送るのが常であった。大多忙の中から此の種の返信を一日に十本二十本書くことはめずらしくはなかった。是れ全く建化門頭の大菩提心の然らしむるところである。今や這箇の大樹王なし、天下望涼の士、何の処に向かって去る。

山野、和尚と相知ること約二十二三年この方である。始めて和尚の筆を見、提唱を聞き、是れは容易ならざる宗匠であると思うた。爾来、話せば話すほど、筆尖を見れば見るほど、提唱と禅話を聞けば聞くほど其の徹底さが確かである。且つ其の多くの道交中には岡田乾兒、大石正巳、中館長風、倉林蠻山等々の逸友がある。逸友と云うよりも寧ろ其の鉄輪下に参ずる道者であった。彼等はみな罷参底の逸材にして、和尚の道化を助ける菩薩大士であった。現代かかる尊き和敬衆団があろうとは思わなかった。欣快と敬望の至りに堪えず、屡々その勝友の会合に参加した。そこで今や禅界荒涼の秋である。和尚を居士界裏に遺留する事は、教化接手の能率上甚だ不経済極まる所以を力説して、和尚の出家入道を慫慂したところ、和尚も他の勝友等も大賛成をした。和尚は元来臨済宗系統の老居士ではあるが、和尚はまた一面永平高祖の宗風を特に慕う人であって、その提唱中の話題は道元禅師の眼蔵等を引用することが甚だ多いのであった。そこで現代臨済宗は白隠老漢に依って宗風を挽回したから、白隠老禅挽回の禅風は既に夕陽ながらも、まだ相当明るい、然るに曹洞の禅は既に凡そ一百年以前に滅却してしまって今や全く真の暗黒時代ではあるが、歴史は繰り返す、最早そろそろ暁天紅を見る時期であらねばならん、否かくあらしめねばならん。またあらしめ得る時代であろうと微力ながら駑鈍に鞭打っておる次第であるが、親が在さなければ断じて子は産まれない。正眼の宗師なければ宗風を挽回する道は全くない。そこで山野和尚に向かって曰く、宗我の邪執なお存するなれば臨済宗にて出家するのであるが、真に仏法の為め、即ち国家社会人類のために出家するとすれば、今や比較的必要なき臨済宗に入るよりも、比較的大必要ある曹洞宗に於いて出家するのが報恩底の道であると信ずる。和尚の意志及び勝友諸居士の希望如何と問ひしところ、一同全く同感なりと定まった。そこで山野は仲介者として適当の師を選択推挙せねばならないが、和尚を弟子として、活用すべき眼力を有する師を洞宗内において見出すことは最難事である。否全く不可能である事を話したところ、いや曹洞宗に入らんとせば山野が弟子にして呉れとの依頼であった。

思うに和尚を弟子とする力はないが、いささか和尚の道力を見得る点からすれば、それは全く出ず入らずの方法であろうと信じて、和尚の六十歳の時山野の法窟に入って剃度修髪せられたのである。だが、山野としては和尚は我が弟子であっても、事実は畏友として道交倍す濃やかであったのだ。爾来、和尚をして大法輪を転ぜしめんとして、少なからの転法輪を発展せしめ得なかったことは返すがえすも万斛の遺憾であった。ず苦心惨憺したのであるが、時未だ至らず、種々の事情は之れを許さず、十分大樹王既に倒ると雖ども、その大菩提心は乾坤に充ち宇宙とともに悠久である。今後五六十年にして再び第二の和尚の転法輪に接することあらん。此の時、山野も出頭し来たって吾が宗を興すことあらんとするものである。噫。

昭和四年頃より両三度軽微の脳溢血を発したが、ほとんど全快、越えて六年春頃より相当重大なる脳症を起こした。それより一進一退、追々重大を加え竟に去る九月二十日午後十時四十分、睡るが如く遷化せられた。大陰涼樹倒る。世諦及び法界ともに空前の荒冷の秋、巨星落ち、大樹倒る、痛恨何ぞ極らん。噫、又噫。

佛殿