禅苑随感録(抄) 井上義光

菩提心

 仏祖正伝の大法を成就せんと志す者は、第一に菩提心を起こしてからでないと、道を成ずることはできぬ。志のないものは中途でくさるからじゃ。何事をするにしても、只漫然と始めたものは意気込みがない。第一歩が強くないと行きつくせぬものである。踏み出す一歩で江戸まで届くと、世のコトワザにもある通りじゃ。
 菩提心とは度衆生心なりとある。衆生を度せねば止まぬという志しが強くあれば、先ず自己を度しておかねば、他を度する事はできぬ。自度他度覚行円満だから、自己を度する事が先決問題じゃ。そこで初発心が最も大事じゃ。発心正しからざれば万行空しく施すと、古人もいうている。釈尊は初発心時便成正覚と云うている。初発心の時已に正覚を成じているということじゃ。自度とは自己究明に踏み出すのである。要するに自分を究めることである。
 道元禅師は、仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなりとある。その習うという事は坐禅のことじゃ。坐禅は只管打坐をいうのである。最初から只管にはなりにくいから、随息の手段をかると早く只管になれるものじゃ。無字と同じだ。呼吸になり切りなり切りやるのじゃ。只呼の時は呼のみ。吸う時は只吸うばかりじゃ。無ーっと声をつけて出さなくとも、ことは同じである。これは釈尊がラゴラ尊者に念息の法として教えられた法じゃ。長く吸う時は長く吸うと自覚し、短く吸う時は短く吸うと自覚し、これを訓練すれば大なる利益があるから実行せよ、これは無意識ではなく、自覚的に訓練するのが肝要であると教えられた。
 即ちこれは随息三昧じゃ。全く呼吸三昧に成り切り成り切りして居れば雑念妄想のよりつくことのできない処までくる。ここまで来たらそこで一層勇気を鼓して尚を且つしきりに実参実究していると自ら工夫純熟して、自然に柿の熟して落ちるように忽然として脱落するものじゃ。ここを忘るるなりというたのである。全く自己のないことを実証する。忘るるとは万法に証せらるることじゃ。微塵も私根性が無くなった処である。それでも尚を且つフイフイと起って来るから跡を払いあとを滅するのじゃ。ここを悟跡を長々出ならしむるというのである。捨ててすてて捨て切って何もなきとき人の師となる力が生まれる。ここまで来て初めて自度が完成するのである。是れから世に打ち出て他を度する事ができるのじゃ。
 しかし他を度せんとするには、ここに聖胎長養がなければならん。白隠は乳房が細くてはヨイ児は育たぬというてござる。知育徳育も聖胎長養すれば、自ら備わるものじゃ。従って日用光中は皆菩提心の活動である。ここを玉の盤を走るが如しとあるのじゃ。それ故に何事にあっても是非善悪を考うることなく、すべてを嫌うことなく、只般若を尊重して道心堅固にやるがよい。般若とは仏智じゃ。元来知る知らぬにかかわらず(悟未悟)仏智に変わりはない。只自信の如何をいかんせん。
 そこでどうしても大菩提心を起こしてやらねばならん。菩提心は努力心じゃ。これさえあれば足れり。務めてやまざれば必ず大成するものである。
  山下有流水。(山下に流水有り)
  混々無止時。(こんこんとして止む時無し)
  禅心若如是。(禅心もしかくの如くならば)
  見性豈其遅。(見性あにそれ遅からんや)
 夢うたがわず、大願心にむちうって菩提心堅固にやってもらいたい。至祷々々

真理とは?

 仏法でいう真理は、正法のことじゃ。正法は万劫千生変わらぬ法である。時代によって変化するものは、真理と云うことはできぬ。真実如常のものだから不変じゃ。道というも同じである。ありのままが道じゃ。正法もありのまま、真理もありのままじゃ。名は異なれども物は同じく一つものである。之を自覚するのが人世の目的なのである。吾々がこの世に生を享けたのは、道を成ずるために生まれたのである。他は皆生活の手段である。大人のオモチャと同じく遊びに過ぎない。それを目的と思い違いをしておる。気の毒なものじゃ。国の発展の為に大いに遊ぶもよいが、目的を忘れては意義を失う事になる。実に惜しいではないか。だから、
  朝に道を聞いて 夕に死すとも可なり
 というのである。人世は実にはかないものである。
  あすありと 思う心に ほだされて
         今日も空しく 過ごしぬるかな
 無常は迅速で明日を保証することはできぬ。しかるに世の多くの人々は、いつまでも生きおおせると思うて遊んでいる。自分の目的を忘れて欲ばり貪る事のみに日も亦足らず。古人は「百年干謀は皆身の為にす。知らず此の身は塚中の塵」というている。故に道元古仏は、生を明らめ死を明らむるは人世の一大事じゃと警告してござる。
 人は必ず死という条件つきの生活じゃ。誰れも死なねばならぬ運命にある。その時は名誉も地位も、学問も、財産も、家も妻子も、一切役に立たぬ。あわれ一箇の石ころに過ぎぬ。此の大問題を忘れて、欲に心をうばわれている者ばかりじゃ。自分の平生を等閑りにしておいてイザ大病にでもなると、始めてあわてふためく。気のついた時には已におそし。只苦しみ悩んで死ねば正に地獄じゃ。病は衆生の良薬なりとあるが、おそくては間に合わぬ。元気な時に究めておかねばならぬ大問題なのである。
 先ず坐禅をする事じゃ。元来生死は一つであるから、生を究め尽くせば死もわかるものじゃ。人多くは生と死とは全く別なものと思い込んでいる。一つものと云う事が信じられない。生きているものが死ぬると思うからさみしいのである。死ねば自己の本性に帰るまでじゃ。本来が不生のもの、不滅のものである。今は只カリに現れているのみじゃ。之を因縁所生の法というのである。あたかも水と波との如くじゃ。風の縁次第で波が大にも小にもなる。同じ波でも一々皆その形が違うているように、人も業因が違うから一人一人異なるのじゃ。波も本は水だから本性は同じである。その波の一つを究めたら四大海の水の味はわかる。それと同じに自分一人を究めたらよい。それが坐禅じゃ。自己を究め尽くせばよいのである。つまり自己の無自性に徹すればよい。平生の心を把えて見よ。心というものがあるかどうじゃ。自己なき時自己ならぬはない、と再活現成すればよいではないか。本当に自己を忘ずるまでじゃ。
  虎と見て 石にも征矢は たつか弓
         ひきな ゆるべそ マカ菩提心
                                  勉セン勉セン

仏道とは?

 「仏」は実には仏陀という。訳して覚者としてある。悟った人ということじゃ。自己の本性に目覚めた、ほどけた自由な大人格者のことと思えばよい。解けるとは、一体何にくくられているのかといえば、自分の煩悩や妄想にくくられているのじゃ。自分の心にくくられていて、それがわからんのである。だから、くくられているとは決して思うてはいない。これを無縄自縛というのじゃ。これは悟って見るとよくわかる。皆自分の念にしばられて居ることがわからん。そこで不自由千万である。それをほどいて自由にするのが坐禅である。この坐禅という妙術を修すると自からほどけてくる。有り難いことじゃ。
 お念仏を称えても、お題目を称えても、坐禅の心で称えれば皆仏様じゃ。そういうことを知らないと、称えながら仏を殺していることになる。さて、それなら仏になる坐禅の心と云うのは、どういうことかといえば、これは別なことではない。只称えればよいのじゃ。
 こういう歌がある。
  称うれば 仏も我も なかりけり
         只ナムアミダ仏の 声ばかりして
 しかしこの歌はまだ充分でない。
  称うれば 仏も我も なかりけり
         只ナムアミダ仏 ナムアミダ仏
 これで本当の仏様になったのじゃ。声ばかりしては、まだ仏様と声とへだてがある。毛ほどでもへだてがあるとだめである。
 要するに仏とは親密の極である。これが仏の道なのじゃ。だから人の世には仏道がなければならないのである。世の中と切っても切れない妙所があるのじゃ。そこで道とは満つるなり。世の中に満ちみちているから頭上漫々、脚下漫々じゃ。道は須臾も離る可からず、はなる可きは道にあらずじゃ。もともと少しもはなれていないものじゃ。
 各人の生活即ち仕事は、其の人の道じゃ。先生の道、農の道、産業の道、政治の道、宗教の道、おのおのそれぞれの道がある。天職そのものである。各々の天職に成り切って自己なきに徹することである。そこに至るのには坐禅を修せねば道は分からん。
 そこで習学ということが入用じゃ。習の字は羽が白いと書いてある。それは自分の羽の白さを知らずにいたのじゃ。だからそれを清くするのには洗うという手続きがいる。煩悩というアカじゃ。これを洗い清めて何もないところまで洗い尽くさねばならん。洗うという手続きは坐禅じゃ。坐るばかりではない。日常の上に何をするにも余念をまじえず、純一に成り切って自己なく只仕事になるのじゃ。相手取らずにやることじゃ。相手が立ったら直に捨てて純一にやる。之を洗うというのじゃ。これが習の字じゃ。
 学は知ったりおぼえたりということではない。仏法の学はまねぶという意じゃ。古人の行履をマネて行くことである。私心があるとマネて行けない。児鳥が親鳥の通りにとべば児もとぶ。親がツイバメば児もマネてツイバム。後に親か児か分からなくなってマネが本物になる。まねぶじゃ。

自己の忘じ方

 今までに仏道ということは自己を忘れるということを説いて来たが、ここであらためて実地の忘じ方をいうておかねばならん。自己を忘ずるというのは、自分の強為やはからいでは決して忘れられるものではないのである。是は正修行のたまもので、時節因縁のもたらす所じゃ。即ち工夫の純熟する処にある。
 彼の有名な回石頭は代々石匠を業としていた。無論、眼こに一丁字もないんじゃ。しかし、常に出家したいと念願していたので、遂に当時有名な彼の南堂静禅師に参じていた。いつも出家の願望があるので誠に熱心であったが、参ずること久しかった。或る日チンカンチンカンと石をうつ、堅さはかたし力一杯打ちければ火光一閃したトタンに大悟した。その偈にいわく
  工夫を用い尽くして全く把鼻なし、
  火光迸散、元這裡に在り
 この句を呈した処、汝徹せりと印可された。法衣を与えて始めて出家された。石頭自回禅師と号して機鋒師に十倍すと時の人はたたえていた。
 工夫は用い尽くして全く把鼻無しという処まで来ねば、真の工夫ではない。本当の工夫はタダじゃ。ここまでくると万法に証せらるるのである。自己を運んで悟るは迷いである。つまり縁より悟入するを悟りというと、古人はいっている。縁は宇宙的だから万法というのである。万法来たって我を証するとはここじゃ。
 元来修証は不二のものである。これは法の本質がそうなのであるが、修する学人の側からは直に本質の通りには行かんのである。それは吾々には生まれながらにしての業障がこびりついてクセになっている。これが純一をさまたげるから、法の本質が分からなくなっているのである。それでどうしても修をからねばならん身になっているのじゃ。修は元来証中の修だから別ではないが、しばらく修として行ずる所に意義があるのじゃ。修せざるには現れず証せざるには得ることなしとある。
 いきなり本証妙修なりというと丸呑みにするから正法が却って邪法となるのである。鵜呑仏法は禅家の禁物じゃ。教相家の分斉なら丸呑みも仕方がないが、禅者である限りは実地の修行で得たものでないと何の役にも立たぬ。行解まちまちじゃ。自分の苦悩のとれて居らんものが他人の苦しみ悩みを救う力はないはずじゃ。そこで自度の力を充分に養うことが大事である。口ではタダやればよい、タダ坐ればよいというもの多いが、タダを頭で考えるから決してタダでない妄想じゃ。或いは雑念妄想のままを只管と思い間違いをしているものもある。
 真実の只管は仏祖正伝の法なのだから、妄想だらけのものがイキナリ只管になれるものでないことを知らねばならん。只管は大悟の結果を先に出して示されたのである。毫厘の差千里というはここじゃ。頭で思うとる只管と実地の自己を忘じた自覚の只管との差じゃ。御用心御用心。

随息三昧

 妄想だらけで幾ら坐禅しても了期はないのである。一度はどうしても妄想を収め静めて一点に集中する力がないとものにならん。それが為には随息三昧になるのが一番無難じゃ。弊害も起こりにくい。元来印度にはヨガの坐方が釈迦以前から伝わっていた。所謂原始仏教の一部はヨガから来ているというてよい。そこで釈尊はラゴラに念息の法を授けられた。これが即ち随息の法である。阿含経に出ているから見ればよく分かる。
 修行に真偽があるのは、坐禅工夫に正邪があるからじゃ。正修行というのは工夫の真なることを示しているのである。釈尊が示された随息の法は、吸う息、吐く息に成り切って余念をまじえぬことを強調されたものじゃ。若し余念が出たら、相手にならず直に捨てて呼吸になるのが秘訣じゃ。要するに呼吸に成り切り成り切りケン命にやればよいのである。つまり無字と同じゃ。無に成り切り成り切りやるのである。無という声を出すことはいらない。若し無と声を出させたら二重じゃ。若し又無を頭におくとそれが邪魔になるのである。
 工夫は意根を断ずるのが中心であるから、わずかに意あらば自求不了じゃ。其の点は無より呼吸の方が数倍ましである。それは呼吸は頭におけないからじゃ。実地に吸ったり吐いたりするのみで頭で考えられないからである。これが一番弊害のない工夫の仕方じゃ。
 だんだん純熟するに従がうて呼吸が調うと雑念妄想が調伏されて呼吸もいらなくなる。ここまでくると真の工夫に入るのじゃ。これを只管工夫というのである。真の工夫は工夫なしとはここじゃ。
 さてここからが又容易でないぞ。日常の生活の上に私し無く、木人になり石女となって行くのである。何事をも只やれる。誠にすらすらと滞りなくやれる。誠に清らかで何事にも衝突することなく、すらすらと濁ったこともとどこうりもない。だから無論苦しみ悩みもよりつく隙間がない。単調にして無風流だが妙味津々じゃ。之を又風流というておる。
 ここをもう一きわ頑張ると一切から離れ落ちて大きく甦った時の自覚が本当の自己を忘じた有様じゃ。万法に証せらるるとはここじゃ。その万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心を脱落せしむるなりとある。万法に証せらるるは、工夫が熟し切ると柿が熟し切ったと同じに自然に地に落ちるように忽念として脱落するものじゃ。
 これで自度の完成ができたのじゃ。これからは他度をやらねばならん。他人を度達する力が出て来るから他己の身心を脱落せしめねばならんのじゃ。これで自利利他の行が一応完成するのであるが、ここにまた問題があることを知らねばならぬ。それは身心を脱落しても直に仏祖と同じようにはいかぬことがある。それでこれを悟後の修行というのである。悟った自覚のクサ味を捨て切らねばならぬ。
 それが悟後の修行じゃ。

悟後の修行

 そこに悟後の修行と云うことが大切なのである。これは悟ったという自覚が強いから、その悟りの迹かたが忘れきれないものなのじゃ。此の悟りのクサミをなくせないと本当の自由の分が供わらんのである。それでこの悟りのクサミを取り切らないと、これが鏡になって、いつもこの鏡に照らさねば、いうたり行うたりが出来ぬのである。誠に不自由である。古人が鏡を打破し来たれ、汝と相見せんと云うている。現今この鏡を振り回す人も二,三人はいる。なかなかこれが打破出来にくいものじゃ。なぜ打破できぬか。これは問題じゃ。せんじつめれば菩提心が足りないのである。眼を高くもってよく考えてみよ。
 窿隠老大師はここを、うたた悟ればうたた捨てよというてござる。そうして只管を練って行くのである。悟ったなどの持ち物がないと、本当の只管が練れるのじゃ。ここが一寸解りにくいものじゃ。そこで悟りがつきまとうて困っている。とにかく菩提心でぶち切るのである。
 道元禅師は悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむるというてござる。悟ったアト片を休歇と思えばよい。長々出ならしむるというのが悟ったクサミを捨て尽くせとみればよい。これが除かれ、或いは尽されたら、全く自由自在の那一人となれる。
 仏祖をも手玉に取る大力量が供わってくるものである。
 彼の有名な大燈国師は二十四才の時、悟りを開き、師の命に従って二十年聖胎を長養された。どんなことをして過ごされたかと云うと、京都の五条橋下に至り乞食のむれに入って二十年も過ごされたのじゃ。或る時は試し切りに会れたこともある。その時の歌に、
  うきことの なほこの上に 積もれかし
         限りある身の 誠ためさん
 と。泰然として坐禅していられたら、武士どもは驚いてこそこそと逃げて行ったということじゃ。後には後醍醐天皇の師匠となられた。又花園天皇の御帰依も厚かった。
 其の弟子に一等地をぬいていた者に関山国師という人がいた。これも亦、八年間も伊深山中に隠れて聖胎を長養されていた。昼は百姓の手伝いをして、夜は、庵に在って坐禅をしていられたのじゃ。今日はうちに来て下されよ。今日はうちの方に来て呉れよというて引っ張りだこである。ハイ、ハイというて何処へでも行かれ、牛の様に成って働かれたものじゃ。一寸普通の人のやれないことである。だから高徳の方とも知らずおい使ったものである。ところが或る日勅使が立ってお迎えが来たので百姓共は、ビックリ仰天して驚いてしもうた。平生親しくしていた百姓の夫婦が、お帰りにのぞんで仏の教えをお伺いしたところが、夫婦の頭をハチ合わせしてコツンとゆわせ、仲良くするのであるぞ、仏の教は別にはないのじゃと、いわれたとある。味ふべきことじゃ。

聖胎長養

 聖胎長養というのは、悟り得たら聖胎をうるのであるが、これを長く養なわねば古人のようにはゆかないのじゃ。悟った聖胎の通りに自分を修しコナスということがなかなかむずかしいのである。それは凡夫の時の習慣がとれにくいものじゃ。それ故に祖師方も皆長養に骨を折られたものじゃ。吾等も自分で自分をぶんナグルことも、しばしばある。クセだから何変でも出て来る。日々新しい事柄に出逢うからシバゝゝクセが出る。それを浄除して行くのが悟後の修行というものじゃ。即ち、聖胎の長養ともいうのである。だから常に自分を練磨せねばならんのである。
 古人が命根を断絶せよというが、それは容易ではないのじゃ。自己を忘じた自覚はあっても我のクセは出るものじゃ。そこで本当の繁地一下大死一番底という、再活の一刹那をいうのである。ここにも深浅があるから師たるものはよくよく点検して見ないと許されぬ。ここは学人よりも師の力にまたねばならん処じゃ。実にキワドイむずかしい処である。
 雲門は且緩々々々々と、シバラクシバラクというたのじゃ。勢いはあっても本当の再活か否やを見るのである。法見仏見が出るものじゃ。見は何としても我見じゃから許されぬのである。許したら学人は死ぬる。腰をかけてノビないからじゃ。
 古人の例を出してみよう。彼の有名な僕山和尚と同格に見られ居る劉銕磨という老女がある。碧巌に出ているから誰も知っていらる筈じゃ。いつも僕山に往来していた老女じゃ。当時有名であったので或る日、志閑禅師が尋ねてこられた。 劉銕磨とはお前さんかと問うた。銕磨は不敢と。支那の返答じゃ。まあそんなものじゃというた。成るほど見るからにウスの様に横にフトッテいる。そこで志閑禅師はイキナリ右転か左転かというたのじゃ。右に廻るか左に廻るかというのだから銕磨はカラカワレタと思うてか、和尚顛倒することなかれというた。語勢に我のある処を見たので、すかさず一掌を与えた。小キビのよい打ち方じゃ。我見が本当にとれ切って居らぬ処を打ったのである。志閑禅師の眼光は実にスルドイものがある。得ても欣々たること勿れじゃ。だから古人に恥じなきを得るやと常に自己を練磨して居らんと思わぬ処で敗闕を取ることがある。
 そこで悟後の修行ということは最も大切な一大事である。クドイ様だが言うておきたい。古来の祖師方に深浅の差があるのは、やはり悟後の修行に依って自から差があるのじゃ。碧巌録は多くその深浅を示したものと見てよいのじゃ。悟後の修行というは消極的に自己の習気というクセを除くばかりではない。積極的に前人未曾有の度生門を発見することがあるのじゃ。趙州が汝は十二時に使わる、我は十二時を使い得たりというた。他の祖師にない言葉じゃ。又我が窿隠老師は転た悟れば転た捨てよと云うが如きじゃ。

クセを取る

 習気というて習性が人々皆異なったものがある。教相の方では習気というのであるが、我が禅門では是を習慣のクセというのじゃ。
 見性後でないと、このクセは明了しないものである。それは自己の本性即ち仏性を見届けて始めて仏性の如何なるものということが明かとなるからである。
 この仏性に照らして見て、今まで知らずに暮らしていたクセが手に取るように明らかとなって、自から恥ずかしくなる。日出て後一場のモラというじゃ。
 見性したら人格が一変するということはこの悪いクセが是正されて行くからである。努力次第で早くクセが取れて行くから面白いものである。
 見性したら直に仏祖と同じように成ったと思うたら大間違いじゃ。仏の世界へ始めて生まれ出たばかりだから直に独り歩きはできぬ。長い間のクセがあってなかなかキレイにならぬものじゃ。併し見性後のクセは罪にはならぬ。それは自性が明らかになって来ているから根を引かぬ。ここが見性の尊さである。ここに知らねばならぬことは見性前も、見性後も同一にみえやすく、クソ、ミソを一所にしてよく、害を起こす。だから真箇の見性でないと以て非なる者になりやすい。
 そこで年月を待って、知育もせねばならぬし、徳育もせねばならぬのじゃ。
 さて知育徳育を如何にして成すべきかが実に興味ある問題である。世の中の徳器を成就するようなものとはおもむきがぜんぜん違うのである。
 どこまでも内面を浄除して行くのである。ようするに只管を只管たらしめて行きおると、知育も徳育も自然に供わってくるのである。皆これを知らない。どうしても世の中の学問の様に思いたがるものじゃ。世の智恵の世界とはぜんぜん趣が違うていることを知らねばならん。
 只管にかくの如き威力あることを皆知らぬ。見性すると皆解るじゃ。併し本当の見性でないとだめじゃ。又残り物があるとはっきりしない。解ったような解らないような妙なものじゃ。ごまかしがきかないからどうにもならん。
 悟ってみてもクセが強いからいつまでたって、うだつは上がらぬ。又これ以上如何にしてあるべきかと自己反省がないのである。そこで古人を偲んでどこまでも、どこまでも、大菩提心をもってやることじゃ。
 そうすれば見性したものの情操も自から供わってくる。有り難いことじゃ。
 悟後の修行を重くみなければならぬことをよくよく知るがよい。悟りを養うて行かれた古人の涙がわからんとしたら見性が充分でない証拠である。
 その時は直に一層の菩提心を振り立てて、求めず、願わず、只管々々に成り切って、勇猛に坐禅をするがよい。
  勇猛の衆生 成仏一念ニ在リ
 とある。

坐禅の工夫に就いて

 是れは全くの初心者に対していうておかねばならん大事なことがある。
 だいたい坐禅というものは、釈尊がお悟りを開かれたことに原因しておる。吾々も釈尊にあやかって、悟りを開くことが目的なのである。いわゆるの信仰とはおもむきが違うておるのじゃ。
 さてその悟りを開くということは、見性というて、自分自身の、心の性体を見破るのである。これを見性というのじゃ。禅に見性というものがなかったなら意味をなさないのである。丁度塩にカラ味なく、砂糖に甘さがないようなものじゃ。無味乾草の哲学禅になって、天人の笑いを買うことになるのである。
 大通智勝仏が十劫の間、之は長い長い間ということじゃ、坐禅をしたが悟れなかったようなことになるのである。だから始めが大事じゃ。最初の着眼点が違うと大変なことになるのである。労して功なしじゃ。そこで時間の賊といわれることにもなるのである。或いはまた妄想禅や、無事禅となり、或いは公案の奴隷となるから、よほど心得ておかねばならぬ。
 だから善き師に就かないと色々な弊害が起こるのじゃ。併し学人には未だ択法眼がないから一面誠に気の毒である。元来初心者は西も東もわからないのであるから罪はない。むしろ素直で純情に富んでいるから、よき師に会えば幸である。その反対にヘンな師に会えば不幸である。只今の禅者即ち師家たる者は、大に責任を感じて先ず自らを修してほしいと願うばかりじゃ。
 オット、ペンの先生が妙な方に走りよるぞ・・・さてこれから本筋にかかるとしようかな・・・
 一寸坐れば一寸の仏、一尺坐れば一尺の仏じゃ。まてまてこんなことをいうたらチンプン、カンプン、分からないぞ。只分かることは、一寸坐れば一寸の仏、一尺坐れば一尺の仏ということのみじゃ。実はそれでよいのである。
 だから只黙々と坐るのみじゃ。ところがナカナカそうゆかんものじゃ。そこで手段がいるのである。
 本来本法性、天然自性身というて吾々は皆仏性を持っているのである。本質があるから元の姿に立ちかえるのじゃ。
 瓦はいくら磨いても鏡にはならぬようなものじゃ。元々仏であるから修すれば仏の光りが出てくるものじゃ。
 吾々は元来真理の現れであるからその道に従って工夫すれば必ず、真理を見出すことができるのである。こう云えば一番よく分かるだろう。
 さて工夫と云うても色々あるのじゃ。真の工夫は工夫なきを以て工夫となすとあるが、初心者にはこの言葉はなかなか分からぬ。そこで随息の工夫もよい。又公案工夫もよい。現成公案もよい。人々の因縁に従うことが一番よいのじゃ。処が工夫と云うこの工夫が実は一番大きな問題を持っているのじゃ。

丸ごて

 さて工夫について難しいことをいうても解らんから、できるだけ平易に書くことにする。
 先ず工夫は丸ごてと見ることじゃ。元来この工夫ということは、線路工夫が声をそろえて、ツルハシを振り上げて無心に働いている姿である。見ていても実に感じのよいものじゃ。そこから工夫ということが出てきたという人もある。こじつけのようだが、つまり無心の姿である。丸ごてだから余念のはいるスキ間がない。実に宇宙的じゃ。
 線路工夫だというと皆バカにするが、もっての外じゃ。このツルハシ一つの中に宇宙を占領している偉大な力があることを知らねばならん。人を見ず其の為す処を見るべしじゃ。どうじゃどうじゃ分かるかな。どの公案でもこの心で工夫するがよい。先ず随息の工夫から書いてみよう。
 工夫の中心が手に入ると、どの公案でも皆同じ事であるが、この中心は俗にいうコツじゃ。これが手に入るまでの辛棒じゃ。
 アキ性でウツリ気ではだめである。何でも辛棒が大事じゃ。石の上にも三年とことわざにもある通りじゃ。まして生死解脱を得るのであるから、何事よりも辛棒強きが大切なのである。
 心得一つで日常生活を通じて工夫ができるのだから、それは実にあり難いことではないか。法の心得で日常生活に接するのと、只無関心で日常を暮らすのとでは、雲泥の差が出来るのじゃ。
 どうじゃ皆さん、一つ勇気を起こしてやってみては・・・。よしやってやろうと願心が起こったら、シメたものじゃ。是れを菩提心というのである。
 本当に菩提心が起きたら、一歩々々足を踏みしめてやることじゃ。退転さえしなければ必ず仏地に至ること保証する。それは今までの祖師方も証明していられるのだから疑う処はない筈じゃ。
 始めは西も東も分からぬ凡夫が苦心の結果、仏地に至られたのじゃ。
 我も人なり彼も亦人なり。願心一つで必ず、やれると自分で決定するのが秘訣じゃ。
 さて随息の工夫とは、息になることじゃ。始めから丸ごてにはなかなかなれない。そこでしばらく息に随って只やっていくことじゃ。
 吸う時は吸うばかり、吐く時は吐くばかり。是れを一心不乱にやるがよい。なかなか一心不乱にやれぬものじゃ。そこに努力がいる。この努力心を菩提心と名づけてある。菩提心に菩提心をぶっかけて一生懸命にやりつつあると、いつの間にか息の丸ごてになっていけるようになる。ここは手ごしらえではない。自然のたまものじゃ。
 静かに人々が反省して見るがよい。自分は正直に導かれるままに、やっているかどうか。
  虎とみて 石にも征矢は たつか弓
         ひきなゆるべそ マカ菩提心
 と有るぞ。

随息と公案

 大抵は菩提心でやっているつもりじゃが、いつの間にやら感情の波に遊んでいる。妙なものじゃ。眠ったり覚めたりしてなかなかシャンとしないものである。菩提心とは又努力心ともいうてあるとおり何でも気をゆるめずに努力することが大切じゃ。吐くにまかせ吸うにまかせてやりよると、だんだん雑念が退散して来る。相手になるといけない。取り合わぬがよい。相手にせねば自ら出なくなる。そうなって来たら今一層の努力を加えて行きよると、頭脳が澄み切って呼吸も忘れて打坐三昧に入るじゃ。あとは云わぬが花じゃ。人々の努力で実地に修してみるがよい。さて公案だ。
 公案にしてもそうじゃ。公案にも色々あるが、まあ代表的に無字についてのべてみよう。
 無字の工夫も呼吸と同じ事であるが、名が変わると又別の感じが起こるものじゃ。しかし実は少しもちがってはいない。只公案というと一段と向上した心地がする。随息は初心者に身心統一の為に公案家の師家があたえた為に先入的にそう思うて居るものが多いのじゃ。気持ちというものは妙なものじゃ。
 皆道だから心得一つで、何でも真理に達する道がちゃんと供わっている。
 随息をやっていると云うと、この人は初心者だなあとスグ見下げる。私は何々の則を見ていますと、公案になると威張っている。処が無字をやっていますと言うても又バカにする。随息に次での初心者として見なしてしまう。
 無字でも四十八則もあり、機関、言詮、と難しい名がつくとお偉方に見ている。やる方もいばるし、見る方も尊敬する。尊敬されるとマスマスいばる人間の心理だろうか。変なものじゃ。
 次から次に公案を見て一人で喜んでいる。何々則も見性しました。あの則も見性しましたと見性の乱用じゃ。まあ前おきはこの位にして、無字の工夫にうつるとしよう。
 無門関の第一則に無字のことがくわしく出ている。殊に飯田老師の無門関鑚燧は実にすぐれた書物で簡明極まるものである。この本の右に出るものはない。所有の方は之を見られるに越したことはない。只ムーと無字の丸出しじゃ。丸出しだから汚れようがない。
 理屈をつけると無字に衣物をきせるようなものじゃ。だから只ムーと一声に参ずるより外に道はない。声を出しても出さなくとも、そんなことは問題ではない。只ムームーと全身満身無字に成り切らせるのじゃ。
 一心不乱にムーとやれば、宇宙はムの全世界じゃ。無字に依って悟ろうと思うと無字をケガスのじゃ。
 依るという気持ちが二人づれの元じゃ。併し初めはそのような気がするものである。兎にも角にも只ムーと一心にやりよると自からムの独立じゃ。

只ムームーと現成公案

 時しも本月二十日は開山窿隠老大師の祥月命日じゃ。老漢今何処にかある。声なくして去り声なくして来たる。ムームー。この一声のムー。常に愛用して衆人を度す。又よからんかな。
 ご自分が最初に無字で打ち抜かれたから、一入感が深いと見える。さもありなん。ムーと此の間なにものかある、サア道え道えと、皆なとっちめられたものじゃ。学人は唖しの如く聾の如し。我も亦此の類にもれざりき、呵々。慈悲徹梱の涙じゃ。知るものが知るのみである。ムー一声に成り切って師家の前に出ると大抵は透る。無字は通過したが、無字の姿は・・・無字の年は・・・さあどうなるか。煩悶は煩悶を生む。無字は透うても苦しみは同じじゃ。死んだ後のムーはどうなるか大変なことじゃ。きまったもの四十八もあるから数えきれない。
 元来意根を坐断するものであるのに、却って意根を働かすように仕組んである。そこで公案解答集が出て来て師家の室内で邪魔をする。呵々大笑・・・。
 今後の師家がどんな導き方をせられるやら。飯ビツがカラになりはしないかと、いささか心配である。併し盲千人の世の中じゃ。案ずることもなさそうじゃ。オット道草道草。
 一日再び来らず即今如何。只ムームーと成り切ってやるより外に道はない。無常迅速じゃ。菩提心を引きしめてやれば必ず達成するよ。彼の烏丸光広のように。「無字を咬当して歯先ず亡ぶ。端的に嚼む時無尽蔵」と叫んだ。面白いではないか。
 達成しないのは願心の不足じゃ。因果は歴然である。人々の努力次第じゃ。収穫は其の人の力一杯しか得られるものでない。努力はその人のものでほかへは行かぬ。精進あれかし。
 次は現成公案じゃ。是れはその人の疑問じゃ。他から与えられた公案とは大に異なっている。現成公案ほど真剣味のあるものはない。人々の疑問だから各人各様にある。見聞覚知の五官より生ずる日日の現成底じゃ。見る底是れ何物ぞ。聞く底是れ何物ぞ。知る底是れ何ぞ・・・。即今是れ何ぞ! 皆是れ自己に即迫した現成公案じゃ。
 無常観より来る現成公案は又一入深刻な公案じゃ。親、兄弟、妻子等に先達たれて、我も亦かくなり果てなんか、死して何処に行く可きや、亦如何になりはつるや我れ知らずとあっては誠に心細い限りではないか。不安極まるものがそこにある筈じゃ。身に逼まってこんと真剣味が出ないものじゃ。
 或いは人知れぬ罪悪感もある。罪のやり場に苦しむものもあるだろう。数え来れば限りはない現成公案じゃ。この身近にせまった疑問を公案としてやるのだから、古則公案の比ではない遙かに真実味がある。古則公案は古人の悟った因縁を再生して行くのだから、師家のオモチャに会うような一面もあるよ。

道元禅師の疑問

 そこで公案解答集で、ニセの師家が首をチョン切れる番になった。主客顛倒だ。他日汝が門に入り汝の学をまなび、汝が衣をきて汝の法を亡ぼしてやると、魔が釈尊にちかったことがあるが、正しく今日を云うのであろう。メッタニ紫の衣にホレラレヌぞ。
 さて自己の疑問は人々の問題であるから、師家のおもちゃにならぬ。実に自からの味わいと趣きがあるといえよう。
  ころころと ころんで遊ぶ 心かな
 さて道元禅師は十五才の時、比叡山で一切経を読んで大きな疑問にブツカッタ。それは「本来本法性、天然自性身」ということじゃ。人は生まれながらにして法性を具している天然の仏じゃ。しかるに三世の諸仏も歴代の祖師も何故に修行せねばならんのかという疑問が出た。比叡山の学者法師に尋ねられたが誰も満足な解答をしてくれない。僅か十五の時じゃ。誰も手ゴタエのある返答をしてくれなかった。
 止むなく三井寺の公胤法師にも尋ねられたが是れも明答でなかった。公胤法師は、今建仁寺に栄西禅師が居られるからそこに行け、と教えられたので栄西禅師の許に行かれたのが、即ち禅の初まりじゃ。上足明全和尚に就いて九年間臨済の宗風を聞かれたが、最初の疑問は解決がつかぬ。
 遂に支那の大宋国に行かれて、いささか五家の宗風を聞くとあるから、臨済は元より僕仰宗も雲門宗も法眼宗にも行って見られたが、皆公案を以って接しられたとみえて道元禅師の気に入らない。公案のことなら全和尚に九年も就いて居られたから皆すんでいる。
 そこで一応帰らんとして海に出られた。たまたま育王山の典座和尚に偶然に会われたのが幸いであった。色々問答の後に、天童山に如浄禅師あることを聞かされて、再び天童に上られた。如浄禅師は一見して大器なることを知り、道元禅師も此人ならばと機々投合したので天童に止まられた。
 或る日方丈に上って拝聞の時、五蓋無明の除く可きことを聞かれた時、実に未だ嘗て聞かざることを聞いたと感激して涙をこぼされたことが記してある。之が本来本法性をさえておる大きな病であることを知るものが少ない。比叡山に居られた学者法師は五欲六塵の除く可きことは口では云うても実地に自分が除いていないから分からなかったのじゃ。
 業障の除く可きを聞かされた時、なる程三世の諸仏も歴代の祖師も是れを除く為の修行であったのじゃと知られて間も無く、参禅は須く身心脱落なるべしと本当に自覚された。その時始めて十五才の時からの疑問が解決されたのじゃ。此の脱落から説き出された正法眼蔵だから一度本当に自己を忘じなければ眼蔵は説けるものでない。字義の説明は学者でもやれるが、何の力も味もない。所詮学者の手の届くものでない。先ず洗面一回し来たれというの外はない。お経を読んでも祖録を読んでも一向に疑問が起きぬのが不思議じゃ。春の田の蛙の鳴く声とひとしいのか。噫! 地下に祖師はなく。

只管工夫

 今度は只管工夫じゃ。何でも只やることじゃ。そこで無字でも随息でも理屈をはなれて只やるがよい。只管は一切に通じている。タトエていえば物の真髄である中心じゃ。真ヅイをぬきにしては物は成り立たぬのである。
 只管といえば始めの終わりじゃ。いい換えれば目的であり結果である。ダカラ只管を立て、只管に向かって行くのだ。これを一心にやると自然に只管が只管を教えてくれる。
 猶更に只管をねり続けていると、只管に在りながら只管を忘れて縁にふれて自然に打発する。即ち繁地一下というものじゃ。「求むれば知んぬ、君が見る可らざることを」とあるように、求むるに非ず、求めざるに非ずじゃ。実に微妙な処である。自から修して味うより外はあるまい。
 心行所滅、意路不到と云う言葉があるが実にその通りじゃ。この只管は大乗根機のものでないとチョットやれない。何も相手がないのであるから手がつかぬものじゃ。シイテ云えば地切り場切りの相手じゃから千変万化している。
 併し一つ物の千変万化だから着眼点が大切である。わかるかなー。只管が中心で真ズイだから有り難いことには、逃げようも離れることもできない。諸君どうじゃ。ショウギづめに会うたような様子があるぞ。ここに至っては工夫の余地があるか、どうじゃ。一切を投げ出さざるを得ないではないか。サアどうじゃ、文句があれば云うてみよ。そこで師家が胸グラ把て、サア道え道えとやらざるを得ないじゃ。無眼子の師家もよくまねをする。ダマサレるなよ。学人は目を白黒させているばかりじゃ。
 心行所滅、意路不到。この句を忘れさえしなければ、いやでも大成するものじゃ。そこで真の工夫は別に工夫なしとある。只管の大詰めじゃ。坐にあっては坐死せざるを得ない。活動に在ては活動死するより外に道はない。
 公案のなかった時は、古人は皆只管打坐でやったものじゃ。二十年三十年、大梅禅師の如きは四十年、或いは三年五年、或いは三日三晩でやったものもあるじゃ。皆因縁所生の法だから時の長短を念とせずに只菩提心でやるのよ。
 この願心が不足してはおらんか。自己に返照して見るがよい。でも願心が小さいと得力も小さい。だから大願心を持ってやれば、いやでも小成に安じてはいられぬものじゃ。我が心、道にかのうているや否や、曽子は日々に三度我が身を省みるとある。道人たるもの何ぞ返照せざる。
 似て非なる宗教がバッコしている今日、禅界中にもじゃ。法の盛なるは滅尽の兆なりともあるが、それは一色辺の大天狗が、法を立てて振り廻すところに原因している。恐るべき法我見じゃ。大いに自己反省して道のために道を修してもらいたいものである。
 兎にも角にも高く眼を付けて、亡び行く大法を食いとめてもらいたいものじゃ。
 色をかえ、品を変えて書いてみたが、結局同じことじゃ。
 「同じことは一つことじゃ。」
                           勉旃 々々