禅の友

心の決着

少林窟道場五世・海蔵寺住職 井上希道

彼は、河で身を清め、威儀を整えて樹下石上に座した。
 思念思惑は朝から晩まで続く。思いはありとあらゆる場面を想像しイメージし続け、而も激しく感情を揺さぶる。何も為すことなく静かにすればするほど、念想観の独壇場に如何ともすることが出来ないのだ。
 やがて、「こうした精神現象は何時、何処から、何によって起こって来るのであろうか?」と、瞬時に出没する心自体に、完全に注意が向けられたのである。
「それは、外からもたらせると言うものではなく、自己の内に於いて現れて、そして消えてしまうものだ。一体何処から? そして何処へ?」
「それは今一瞬の世界から起こってくる。そこから総ての心が始まるのではないだろうか?」
「苦しみが始まる本が分かれば、それが終わる世界もはっきりするはずだ!」
「では、どのようにすれば掴み所のない、一瞬という心の世界を明らかにすることが出来るのだろうか?」
 ここまで明確化した彼は、或る重大なポイントを発見することになる。眼耳鼻舌身意の感覚機能は色声香味触法として作用するが、それは瞬間の現象であり、知性的観念的な想念世界以前の、純粋な事実だけの世界であるという厳密な発見である。熱いか冷たいかは触れた瞬間に分かる。つまり、分別のような知性的なものは一切必要がない端的極まる世界であるという気付きであった。それがそれだということである。
 この大事な発見は、次の結論に達して、彼をいよいよ端的な実践修行に走らせるのである。即ち、目に執われ、耳に囚われて心に問題が生じるということは、瞬間の事実の世界と、認知し思惑する知性の世界との境がはっきりしていないからだ、と。
「そうか! ここが本来の瞬間、純粋な世界なのだ!」
「そうすると、すぐそれを見失う癖を陶冶しなければ、瞬間の把握は出来ないぞ」
「その見失う癖とは、瞬間に出る諸々の思惑のことだ。これを早く発見し、速やかに捨てたとしたらどうなるのだ?」
「捨て尽くすと瞬間の世界が明確になる筈だ! 何となれば、そこにあるものは今一瞬の事実しかない。他に何物もない世界だから」
「しかし、事実と認知した時、その事実も瞬間も既に無い」
「と言うことは、事実を認知する知的作用自体が『隔たり』となり、迷いを生む元だったのだ!」
「そうか、『知る』と言う精神行為をも捨て切るということか!」
「よし! 出て来るものは総て雑念として切り捨てて、捨て尽くせばいいのだ!」
 こうして到達した絶妙な実践用方法論は、毎日の経験観察と、試行錯誤と、深い論考の末確立されたもので、決して思いつきや自然発生的なものではなかったのである。彼自身、もうこれ以上疑う余地の無いほど、徹底観察し推敲し尽くして行ったのだ。
 長かったその努力の甲斐あって、雑念の発見も次第に早くなり、やがて念の起こった瞬間が発見できるほどになって来た。そして、切り捨てた切り口まで見え始めたのである。
 とうとう念が現れる瞬間が分かると同時に、出た念が瞬時に切れるようになったのだ。観念現象の拡散作用が、思うように切り捨てられ、処理征服できるようになった時、或る事実に気が付いた。この出来事を境に、修行が大変楽になり、又面白くなって来たのである。
 即ち、観念として発動する以前の「何も起こらない」一瞬の世界があることを初めて知ったのだ。そこは何も無い、カラッとした空白の世界。「隔たり」が無いから癖も拡散も起こる隙間の無い世界。一切の災いが無い世界に気が付いたのだ。そのままが本来だったのである。そこが心の始まる瞬間であり、心として作用する所だったのだ。彼は「何も無いので、何もする必要が無い」という決定的な気付きを得た。
 目や耳に諸々の色や形や音がある。それが何の意味も理由もなく、厳然として、既に、只、是の如く在る。意識以前の天然の様子がはっきり分かったのだ。
 しかし、これで結論が出たのではない。努力という条件下での、ほんの薄っぺらな心境なのである。「分った」という事くらいで満足する彼ではなかった。修行の急所として、心に起こったことは総て捨て尽くして行けば、必ず根源的に解決が付く、と確信したのだ。
 それからというもの、いよいよ寝食を忘れ、来る日も来る日も、ひたすら捨て尽くすことに専念して行った。一切の念を取り合わないようにし、そのことに油断しない努力をしたのだ。感情は機能停止し、無表情極まりないところまで漕ぎ着けたのである。
 多年の研参、結果自然に成る。彼は遂に自己を全忘し、宇宙に蕩尽し切ってしまった。時空間を超越したまま、時は幾ばくか流れて行った。
 当然ながら身も心も放ち忘れた彼は、一切の知覚作用すら超越していた。純粋機能のみになって大自然の真っ直中に入ってしまったのだ。死に切ったのである。
 ただの枯れ木同然である。岩や雲と同じだ。一度、ここに突入しなけば「隔たり」である心の癖は取れないのだ。
 静寂の朝まだき、坐中の視線を徐に上げると、明けの明星があった。その瞬間、明星と一体になり、その縁によって我に還った時、「隔たり」が全く解け落ちていた。明星と現成したのだ。死から生き生きと蘇ったのである。
 釈迦牟尼佛の誕生である。
 惟時、今を去ること二千五百有余年十二月八日、暁天もやや白らみ始めし朝霧の中ならんか。まさに尊中の尊なりしなり。