法話2023年9月25日 自己を忘ずる

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  • 今日の法話、核心のところですね。正師に就いて、教え通りに自分が本気になって行じないと気付くことができない処ですね。

    私の場合は、時間がかかりましたが、次のような経過を辿ったように思います。

    1、坐禅は身でやる
    五官の動きに本気になって打ち任せ、その自活動に教わる。どんなことがどうあっても、手を付けずにそのまま(縁のまま)に、そのものの動きだけに教えられていく。この段階に早く到達するための実践的工夫として、
    ーー 私の場合は、原田雪溪老師から「数息観(息を吐きながら一つ、吸ってまた吐きながら二つと、十まで数えてまた一つと繰り返す):ステッキ(杖)」を実際にやって見せて指導して頂き、それをその通り実践したことがたことが大変有効でした。それに徹していると、知らん間に、五官の自我なき動き(雨の音、虫・鳥の鳴き声 等)に教わっていました。ーー

    2、忘我の時節
    静、動の坐に徹していると、自己を忘じるということがある。「本来の姿」に触れ、それを信じることができるようになる。それが本当の修行の始まり、それで終わりではない。

    ーー 私の場合は、発心寺の寒行托鉢で、「ホー」と誦えながら歩いているときに、自己を忘じることがあり、目に入った山と一つになっている自分の様子に気づいた事がありました。 ーー

    3、純熟修行と訣著
    私は、「得られたという法」と「得たという自分」との二人連れで本当に行解相応する自由性というものがないことに気づいていたために、純熟修行を行じていました。
    ーー 宮崎慈空老師の独参を受けた帰りがけに、老師から「手を消毒して帰ってください」と声をかけられ、手を消毒していると、老師から突然「あなたの何処がそうさせていますか」と問いかけられ、その導きの縁で「知らん間にゴロッとそうなっている様子」にこの全身が気付いた。咄嗟に手を振りお応えしていましたが、気付きの様子を言葉でも説明しようとする癖がまだ残っていました。更に3ヶ月、独参、純熟修行を続け、その中で「なーんだぁ」と求心が止む。ーー

    人の見解を一つも用いていない時に、正師の絶妙な導きの縁で、コロッとそのもの自体が「在る」。何処がそんなことをさせるのか自分でも分からない。あまりにも意外なことがパッと起きると、考える余地がなく呆然としているから、それで、「考え方」と「考え方でないこと」とのズレがちゃっとこう分かる。「現実の脱落しきっている自分の姿が、そこにゴロッとそのまんま放り出されている真相」に気がついた。
    全体を上げて縁と共にそういう活動がある。因果関係において只、必然にこう動いている。知らんうちにサーッと動いている。それをこれ全体が気付いた。二人連れの見が落ち、求心が止む(歇む)。
    正師に感謝感謝です。

    話は変わりますが、
    昨日もピア(心の病がある当事者)の会に出席しました。
    両親の庇いすぎにより自立できずに依存症・総合失調症に陥っている40代の女性、
    父親の抑圧から妻を守るために自殺した夫の話をされている奥さんも総合失調症に陥っている、
    そういう二方のお話を聞いていますと、家に引きこもらないでこういう場に出て来ておられている、一歩踏み出しておられるので、過去じゃなく、今・ここ・そのもののに目を向け、手を付けずに行じられると、垢が少しずつ取れ、苦しみから解放できるのになあと思いながら、相手がこちらに向いてくれるのをじっと待っている。
    もうしばらくは、信頼関係ができるまで、相手に要求が出てくるまで、聞き方に専念しようと思っています。
    私の報恩の活動はまだこんな状況です。何かご示唆いただければ、幸いです。

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