参禅の記 小積忠生

さわやかな風


目次

石柱

「道心無き者は山門に入るべからず」
急な坂道を登り切ると禅寺海蔵寺の山門にこんな石柱がどっかりと立ち、端正なたたずまいのこの辺りを、いかにも重く引き締めている感がしています。
「入るべきか? 入らざるべきか?」
「よく心して入るように!」といっているように思えるのです。

僅か人口一万足らずの小さな町、忠海町の一角にして駅まで徒歩六分、真っ直ぐ一直線。ほんに少し小高い所に有るだけで、ここはもう別天地の聖域なのです。しかし此の町に住む人々さえも意識しないような小さなお寺、私は今その山門の入り口に立って居ます。

このお寺の有る町、忠海は瀬戸内海に面し、直ぐ後は黒滝山の山裾がせまり、極狹い平地に家々がひしめき合っています。その山裾にこの海蔵寺があります。丁度南向きに有るこのお寺から、小さな町並みと、それに続く顔戸内のキラキラ輝く海が目の前にせまり、とても見晴らしの良い所に位置しています。
このお寺はつい四、五年前迄は荒れるに任せ荒涼とした、人も近づかない荒れ寺でした。しかし、今は立派に再建され住職の並々ならぬ努力が伺われるのです。

私はこの山門を堂々と入って行く勇気もなく、何時も山門をさけ勝手口から玄関へと続く道を選んで先生に会うべく、何度かここを訪れているのですが、いつもこの山門に立つ度に思うのです。
「大体お寺という存在は、誰が訪れても良いはずだ! だって心のよりどころを求めて、救いを求めてやって来るのだから!
なのに、こうも大上段に構えられては、少なくとも気軽に来ることが出来ないではないか!
先生と何度も逢ううちに縁も出来ると言うもんだ!
それこそ、そんな深刻な人ばかりではなく景色を眺めに立ち寄ってもいっそ構わないではないか!
お釈迦様も、きっとそう言われているに違いない!
何時かこの事を先生に切出してみよう。でないと私自身が素直にこの海蔵寺に来ることが出来なく成ってしまう・・・・」

或日私は自分のこのような心の思いを勇気を出して先生に話してみました。
何時もの先生の柔和な顔が一瞬引き締まり、純粋な視線で激しく私に迫って来ました。その厳しく私を射るような視線に耐え切れず、先生のそばに掛かっているダルマ大師の絵に目をそむけたのです。
丁度ダルマ大師もこのような目で人をニラミつけて居たのだろうな? と思いながら。すると、
「小積さん、そんな人はこの海蔵寺に出入りされては困るのだ!」
ドキッ! としました。
自分の申立てを拒否されるということは、当然その当事者がそれに該当するから[お前もだぞ! 宗教的な目的無しに妄りにここへ来るな、分かったか!]と言われたようでした。
先生の低く静かな口調、そして再び目が合います。

「真剣に道を求め法を求め修行する人だけで結構なのだ!
ここはそうした人々、坐禅を志す人々だけの心の根本道場、禅堂なのだ!
従ってレジャー的に単なる経験をしに来たり、又ひまつぶしや浮ついた気持ちでこの海蔵寺に来られては大変に迷惑なのだ!
心から真剣に道を求め、命懸けで修行する人達にとって邪魔にこそなれ必要はない!
自己をなげうって道の為に真剣に努力している人を妨害することは、仏の願いを踏みにじり諸天善神の切なる祈りを殺す事なのだ!
取り分けその導きをしている私の大いなる邪魔をしてくれるからだ。
解かるか! 小積さん!
だから神社仏閣のような魂の世界に足を歩み入れる為には、先ず心を清浄にして、俗世の念や軽薄な心を捨て、自分の真なる魂との出会いをさせて貰う、という極めて敬けんな気持ちが無ければ、本当にそこへ入る資格はないのだよ。
少なくてもそう努力し、そう心掛けている人のみの心の山門なのだ!
そして私はその人の為に、最も素晴らしい魂との出会いが出来るように純粋さを守らねばならない出家者としての使命が有るのだよ!
解かるか! 小積さん!」

暫くの間、私は先生の言葉を理解することが出来ず、ビックリしてしまってどうして良いのやら解からなく成っていました。何だか場違いの所に座っている思いに只恥ずかしく、ほてった顔を手で押さえながら先生の顔を正面に見る事も出来ず言葉も無く、只黙って下を向いたままの私に・・・・
「小積さん! 貴方は違う、何時の日にかここに来て、本真剣に坐禅する人物と私は信じている。貴方は真実に対する心の深さが一般の人と違う。それだけ縁が深いのだ・・・」

静かで優しいいたわりに満ちた声、柔和な顔、それでいて[必ずそうなる]と言ったその気迫と自信に満ちた姿で私を見ていられるのです。気付きの無さからだとは言え、幼稚な世間一般論を先生にとうとうと論じて、今自分の浅はかさを知ってがっくりきていた時、先生の意外な一言に力強い深いものを感じて気を取り戻していました。
しかし、現在の私には法とか、道の木質を知る術もありません。元来物事を突き詰めて考え追及して行く性格では有りませんので、自己流に[道には色々の方法]があって私なりに一生懸命に努力していればその内どうにかなるであろう、と思いつつも何かふっきれないどうしようも無い現実では有るのです。

何はともあれ、この海蔵寺の何処に禅堂が有るというのでしょうか?
又何処に雲水がいるのでしようか?
坐禅をするお寺はそれなりの歴史があり、大きなガランを有し多くの僧侶や雲水達で賑っている光景が思われるのです。又―般の人達が大勢で坐禅しに行くことも知っては居ますが、しかしこの様な小さな寺で一体どんな坐禅をすると言うのでしょうか?
もし、私が坐禅を始めたならば、私―人しかいない筈。何処でどの様に座るのでしょうか?
坐褝に未知な私は、この様な思いが頭の中を駆け巡るのです。そして心の底では、
「これは大変な事になった!」
「この海蔵寺が! この先生が禅の師匠だったとは!」

その先生に偉く評価された私は、一週間本当の坐禅をする羽目に成ってしまったのでした。そしてそれから坐禅を続けるように成ったのです。
その後の私は、度々海蔵寺を訪れるのです、何だか心の安らぎを得る事の喜びに足が自然に此に向くのです。
上がって、
そして御挨拶をして、
そして御茶を頂きながら御話をして、
そして御挨拶をして、
そして合掌を最後に下山する、
たったそれだけの事、それだけのほんの一時の出会いでしか無いのに、何故か私は静けさと安らぎをそこから得ることが出来るのです。何という事はないのに、それが私の心には大変意味があったのです。
奥様は何時も黒の作務衣を着ておられ、髪は後ろでまゆを結われ、何時でもキチンと正座され合掌して私を迎えて下さいます。お寺での作法、礼儀として私も合掌し、手を突いて、
「おじゃま致します。」
「良くいらっしゃいました。」
と丸でテープにでも吹込んだ様に、形どうりの挨拶をすませて、先生の居られる座卓へと案内されます。奥様とのこの御挨拶から、心が急に洗われていき静まるのです。
先生のお出かけの日など、奥様と良く話し込む事が有ります。
そんな或日、奥様自身が坐禅をされ、本質の一部を得られた時の事をお聞きしました。

「今」に目覚められ、何も入りようの無い自然の世界、「あるがままの今」、「瞬時の今」、「真理の世界」、「自己を越える」、「彼岸の世界」、「仏の境界」、「悟り」・・・・
「真理、超越、悟り」、と聞くと私には別世界のように思えるのです。「生涯無縁の境地、大それたそんな世界を知る術も無く、仮に求めて見たところで「悟る」事など到底できっこない、遠くの世界の次元のお釈迦様だけが至り得た境地なのだ」と言う認識の私にしてみれば大変な驚きで、今現在の私には奥様の真意が計りかね、直ぐにはとても理解できないのです。

悟りの心境とはどのような境地なのか?
精神的にはどんな安らぎを得るのか?
人格はどのように変るのであろうか?
感情はどのように成るのであろう?
喜怒哀楽のない自己に成ってしまうのであろうか?
欲望、自我、欲求などのない人に成ってしまうのであろうか?

今の私には皆目分からない事だらけで、胸のうちがスッキリしないまま、それでも[坐禅して、悟りを得る]事がこの私にもできるとでも言われているのであろうか?
「悟り」を開く迄には、何年、いや何十年と坐禅しなくてはそのような境地に辿り着くことはできないであろう。ましてやこの私は、片田舎の町で食品スーパーを営み生計を立てている身。たとえ半月でも店を留守にすれば、生計が立たなく成ってしまう、今の私にはそんな時間は無い。
たとえ私が発心し、道を求め坐禅三昧に入ろうと思ってみても、家族を捨て、仕事を捨て生活を捨て、私に関係する総てを捨て切る事など、今の私にはそのようなとてつもない勇気など有りません。
お寺で生れ育ち、一生を仏門の中で修行して行く身であればこそ、坐禅三昧の生活もできるであろう、と思うのです。
それに、我が家の信仰は代々「浄土真宗」なのに、坐禅をすることはご先祖や菩提寺に申し分けがないのでは・・・・
様々な思いが目まぐるしく浮かんでは消えて行きます。なのに先生のあの言葉が私の胸にグサリと突き刺さり離れようとはしないのです。
「この海蔵寺は、命懸けで坐禅する人の為に・・・」と言われた言葉が折々に出てはくすぼりを見せるのです。

決心前夜

何時ものように、座卓を囲んで先生と話しています。特別な御話ではありません。
私は常に姿勢を正し正座して先生と相い対しながら、不思議と心の安らぎを覚えるのです。
それは、お寺という環境の中で錯覚しているのでは決して無いのです。
何が私をこのような安らぎにさせて呉れるのでしょうか?
先生の目は何処までも澄み渡り、その瞳の中に知らず知らず吸込まれていき、私自身が丸で裸同然に成ってしまうからでしょうか?
純枠に澄んだ瞳に、何の抵抗もなく素直な心に成ってしまうからでしょうか。
兎に角、今の私には暖かく迎えて下さる、先生、奥様の存在がこの上も無く嬉しく、心安らむ場を得た喜びで、時間の許される限り海蔵寺を訪れる日が多く成っているのです。

そんなある日、一日の作業の労をねぎらい、先生と会食をしていた時のことです。
突然先生がビールの入ったコップを指差しながら、
「コップと言わずして、何と言う!」
と言われました。私には何のことだか理解に困り、はて、変なことを聞く先生だ。何処から見てもコップはコップなのに、「コップと言わずして、何と言う」だなんて、何をこの私に聞きたいのであろう?
「コップをコップと言わないとしたら、ガラスですか?」
「違う!」
「飲み物を入れる容器。」
「違う!」
違う? 何処が? 何が違うと言うのでしょう? 私には見当もつきません。困り果てた私は苦し紛れに、
「このコップができた時から、コップと名が付き、それから紛れも無くコップに違いない!」
と答えますと、先生は笑顔で、
「そうだろうなぁ。」なんて、静かに笑っておられるばかりです。
何の事だか、私には全く分からず、不安な気持ちに成ってしまい、もしかしたら先生はこの私を試されているのであろうか? 何を言いたいのだろうか?
そんな思いに今はもうビールを口にすることさえできないで居ますと、そんな私に先生は、
「コレは、コレでしかない。コレと言う言葉も関係が無い。」
と言われるのです。それはそうに違い無いのだが・・・・「コレはコレ」、そのことが真理であるなら、「コップはコップ」であらねば理屈がおかしい。すると「コレ」と「コップ」とはイコール一つ事、同じ事だと言うことになる。そうか!「コレはコップ」で良かったのだ!
「先生! コレはコレ、コップはコップ。コレはコップで絶対じゃぁないですか!」
「小積さん! 皆そうなんだ。根元的にはっきりしていない、つまり迷いつつ有るのだよ。
コップと言うのは物を区別するための便宜上人間が付けた音の符丁に過ぎんだろう。
違いますか?
それぞれの国の言葉で名前が付けられるので、民族や文化に依って皆違う。するとコップとばかり言われなくなるし、いろいろに成ってくるではないですか!
でもコノ物自体は言葉や文化や所に一切関係無く、確固としてコレ自体でしか無いではないか!
コノ物は説明や言葉に関係無いでしょう。コレ自体で総てなんだ。
そう言った事がはっきりしたなら、本質に目覚めたならば理屈が無い世界なので単なる符丁や名前と本質とが混乱し得ないから迷わないのだ!
コレとは現時点今、見つつあるそれ自体よ。
理屈が無ければ即それ自体よ。
理屈無しとは「素直」と言うことだ。
今、理屈無しに、ただ見る。只、見るばかり、見る者も無い、見らるる物も無い。
満身目じゃ。満身コップじゃ。
その時その物と同化しているのだ。コップそのものになっている。」
私には反論することもできず、そうかと言って素直には先生の言葉も理解できず、只何となく、生返事で、
「はぁ?」
「そうですか?」を繰り返すばかりです。
「小積さん! 何事も只本質的におやりなさい!」
「只、素直に、見る時は、只見るままに・・・・それ自体がそれ自体で外に何も無い・・・・その上に念を付け足すと同時に迷いが始まり、その物自体が見えなくなり、混乱が始まるのですよ。」

とにかく、何を言われているのか、その本質的なことが今の私には皆目分からないのです。先程から言われている「コップ」を、本質的に「只見る」としても、その本質的が何かと言う事に迷ってしまうのです。
「本質的」は国語事典によりますと、「本来の性質、根本の性質」と書かれています。ここで又分からなく成ってしまうのです。だって「本来の性質の本来」とは?
「根本の性質の根本」とは?
もう、私の頭の中は勝手気ままに、「ああでもない、こうでもない」という思いに悩むのです。
そんな私を前にして、先生は独り言でも言うように、
「心は、コロコロ変るから心と言う・・・・」
何だか今の私の心の迷いを見透かされているようで、背筋がゾーッと寒く成り、逆に顔は赤面の至りなのです。私のこの様な思い、「自己」とは「心」とは、と突き詰めれば途方もなく広がって、今の私には説明や納得どころか、訳が分からなくなっているのです。

「一体私とはなんだろう?」益々迷路に入ってしまいます。
しかし、私は此にこうして存在し生きています。そして毎日毎日が日々新たで、幸せで、安らぎで、何か良いことが有るようで、誰からも愛され必要とされる人間になり、成功が保証され、この命も永遠を願い、何時までも健康で有りたい。いつもそう願っている私が、今ここにこうしてちゃんといるのです。思えば思うほど、幾ら思っても飽き足らず、思いは次から次へと湧き出して来ますが、現実にはそのように思い通りならない事も良く知っています。

自分の思い通りには事いかず、
自分の考え願いがとんでもなく誤解され、
自分はよしとして実行したことが、とんでもない結果となり、
自分は他の誰よりも愛しているのに、愛してもらえず、
自分は本音で言っているのに、建て前でしか聞いてもらえず、
その内、どうせこれが世間というもんだ、俺は俺だ! となり、
自分一人頑張って生きて行った所でどうにもならないし、
だったら俺は俺の思い通りに生きて行くしかない。
・・・・と思いつつも、
これでいいのだろうか?・・・・と迷い、ためらい・・・・
自分はなぜに、こんなにも苦しみ、悩まなくてはならないのだ?
全ては周りの人々に、私を見る目が無いのだと、
自己を正当化し被害者となり、
やがて開き直り白けて通ろうとしつつ、
何時もこれも運命だなんて、事あるごとにそう思い、
仕方ない、だって一生懸命頑張っているのだからと、
自分をいたわり慰める、
自分をいたわると悲しくなり、
どうしてこうもツイテいないのだ! とツキのせいにして、
考えれば考えるほど迷路に入り込み、
何時の間にか自己から逃げている。

しかし、どの道明日が来る。
自分こそ限りなく悲劇の主人公であり、ダメな男でありつつも、
一人の生身の人間であることを思いだし、
短い人生を思うと、
自然に幸せを求め、
明日も頑張って働こうと思い、
家族の為、
可愛い子供達の為、
己れの体構わず頑張ろうと闘志を燃やす。
・・・・そして私は思いに耽る。
一体この身は何なのだ? 自己とは結局何なのだ?
何の為、人間として生を受け、生きているのだ!
只、家族を持ち、子供を育て、夢を求め、欲求、欲望を満足させ、
飽きる事のない生きることへの執着、
地位、名誉、財産などが心の何処かに渦まいて、時折、強く顔を出し、
世の中が有って自分が有り、社会が有り家族あって自分が有る。
ならば一体自分とは何ん何んだ?

私の人生の目標は何だろう?
人生の成功とは何だろう?
真剣に言葉に追い立てられても、ハッキリとは分からない、
余りにも自分、自己を持出して只面食らうばかりだ、
だけど、成功もしたい、
ハッキリとした目標も持ちたい
そして人生の価値観もしっかり明確にしたい、

なのに、こうも自分自身がハッキリとしない中では、
たとえどの様な成功を夢見ても、
目標を作成しても、
すぐに挫折してしまうだろう、
それどころか確実に失望し、
より拒絶してしまい、
その侭人生を終えてしまう!
・・・・?

これで本当にお前は良いのか?
嫌だ!
そんなのは嫌だ!
兎に角、自分の人生だもの!
確固としたものでありたいと願うのは当然だろう!
自分のかけがえの無い人生だもの!
とにかく、
陽が沈むまで、自分に輝いていたいのだ!

入山

先生と初めて出会ってから早くも一年が過ぎ、時―九八三年の五月初旬、あたかも「目に青葉、山ホトトギス初ガツオ」の季節の真っただ中、海蔵寺のあの石柱の前に私は立ち、本当に、
「自己とは? 心とは一体何か?」を知るべく先生を訪ねたのでした。

今の私には一週間が、仕事を離れる事の出来るキリギリの時間なのです。こんなにも店を留守にしたことは今までかって只の一度も有りません。店の経営に不安を残しながらの決意でした。
先生にお会いするなり、
「一週間この私に坐禅を教えて下さい。本当に一生懸命やりますから・・・・」とお願いしました。以前に先生から、「坐禅は命懸けでやらなければ・・・・」とお聞きしていたのですが、幾ら一週間、一生懸命に座ったとしても、「自己開眼」の難問が解けるとは思ってもなく、只一週間も静かに座れば、これまでの自己を自分なりに整理出来るだろうし、心静まればそれでよし。そのうえ体も静養出来れば上等だ。その内「自己とは?」が少しでも、理解出来ればいい・・・・
又現実の中では、あれこれ考え気を使ってきたが、それをしなくて済むし、体を鞭打って働く事もなく、只座っていれば良いのだから、精神の休養と体の充電には最適だ。
究極的には勿論「自己を解決し悟り」の境地に到達しては見たいけれどまず無理であろう。一週間ではどうしようも無い筈だから・・・・

果たして先生はこの様な私にでも坐禅をさせてくれるであろうか? その様な私は、先生と奥様の顔を代わる代わる、内心不安な表情で見ているのです。先生は、笑顔で、
「ほう、それは感心、今から直ちにおやりなさい、私の言う通りに。とにかく菩提心が肝心だ!」
と言われながら、その外坐禅についてのこまごました作法など、全然教えてくれないのです。私にとっては初めての経験だと言うのに・・・・少し不安になりつつ、先生は本気でこの私に坐禅を教えて下さるのであろうか? もしかして、私が何処かの禅堂で、禅についての作法など習って心得ていると思われて、作法のことなど教えてくれないのでは?
その様なケゲンそうな私を前にして、奥様がお茶を入れて下さいました。そして、
「良く決心がお付きになりましたね、頑張って御やり下さい。この町の人で、本格的に坐禅しに来られたのは、貴方が初めてのお方ですよ。」だなんて、笑っていられるのです。そのうち先生が、
「何はともあれ、やるからには私を信じて、私の言う通りにやらなければだめですよ。命懸けでやりなさいよ。この道は方法に寸分の狂いが有ったら達する事が出来ないから・・・・
ところで! 呼吸は一体誰がしている?」と突然に切出して来られるのです。私はとっさに、しかも自信を持って、
「私が呼吸をしています!」と答えますと、
「では、吸うだけになってみよ!」と、とんでもない事を言われます。そんな、無茶な事が出来る筈はありません。
「出来ません!」
「そうだろう、呼吸すら自分で自由に、思う様には出来ないことが分かるか!
何でもかんでも自分が有ると思い、自分がしていると思い込んでいる。
呼吸一つ取ってみても、意識や判断や決断、学習などに依って有るものと違う。
呼吸は、因縁の寄せ集めであるこの体が、一個の固体として機能出来る様に既に成っている。その命の源であり、ただ大自然の作用である。

つまり呼吸一つすら自分のものではなく、大宇宙の不可思議な作用が、只自分の上に模様されていると言うことなのだ。だから大自然の作用を自分が勝手に変更することは出来ない。これが秩序であり法則なんだ。この峻厳にして絶対な法を「戒」と見たら良い。その働きが、もともと自己が無い作用であり、今を正念(只管)にあらしめ、かつ継続すれば正法に目覚め必ず救われる。
見ることも、開くことも、とにかく本来は理屈の何ものも無い、六根ことごとく清浄なのだ。つまり、汚れても、迷ってもいない。只その物以外に何物も無いのが本質なのだ。
ここが、最も肝心なのだ! 理屈の入らないと言うところが・・・・そこが脱落の世界であり仏の境界なのだ。
では聞くが、歩くとはなんだ!」

全く心臓に悪い事ばかりを質問する先生だ! どういう精神構造をしているのか診てみたい!
もうこうなったら、自分の感じるままに答えるしかない。
「歩くとは、目的が有って前へ進むことです。」
「成る程、しかし未だ外にもあるであろう?」先生に誘導されるままに、
「右足が前に出て、後足が左で・・・・」私は今自分が何を話しているのか、何を言おうとしているのか、頭が混乱し・・・・だって、歩くなんて極当たり前の事で、四十年間そんな事考えても見ませんでしたので・・・・しかし、この様な弁解は通用しません。

「歩くとは? 歩くとは?」と必死になって考えても、一向に答えになりません、先生はなぜに私をこの様は困らせるのだ? 分からない? とうとう私は、
「歩くとは何でしょうか?」と先生に聞き返していました。先生はいきなりスーッと座卓を立ち、
「歩くとは、ほれ! これその物だ!」と言われながら奥様や、私の前を歩かれるのです。
「何を考え、煩う事があろう! 歩くとは素直に只歩く事だ!
何処に理屈が有る! 迷わせ苦しませるのは、ただ理屈がそのものを見えなくしているからだ!」

この愚かなる私は、歩くと言う「言葉、概念、観念」に振り回され、私自身の既成概念に完全に囚われて居るのです。そんな私に先生は優しく語り掛けてくれるのです。

「いいですか! 今貴方が坐禅しようとしていることは「あるがままの今」を体得することなのだ。
言い換えれば「今、一瞬一瞬の今に成り切る」ことなのです。
成り切るとは、大自然に帰り、理屈漬けになっている自己を超越することなのだ。
すると本質[真理、道、法、彼岸、ネハン、仏、皆同じ]のままに「今、今、その場、その場」ただある、つまりそれと一つに成っているので自信と安らぎ、そして豊かさや尊さや慈悲心が湧いて来るのだ。
その力で人を救い世を救っていくのですよ。その為の修行ですよ、目的が大きいのだ。
とにもかくにも我を忘れて一呼吸、ただ一呼吸に成り切るだけ。
足が痛く成れば、足を替えれば良い。どうしても眠たければ眠れば良い。体が痛くなれば、座を立ち一歩、一歩ただ歩いてその物に成り切りなさい。
吸うは吸うだけ、吐くは吐くだけに全意識、全神経、全自己を集中し切り没入し切る事だ。
そのものに心を治めて拡散の余地を作らなければ、自己は自然に脱落するじゃ。
別の言い方をすれば、色々な妄想が次々と襲ってくる、寸暇無く取り留めの無い雑念に振り回されて、一瞬たりとも治まらない。
その出て来る妄想を切っては捨て、切っては捨てて純粋な今に帰る努力だ。
何も無い一点に治まってくると、外境が蕩けて無くなり、見ても聞いても触っても話しても、総てが何もない今の一点に帰納している事が分かってくる。ここを「只管」の入り口として、理屈も何も無い一心で、今、今、その物、その物の事実に成り切って行けば良い。
これを「只管」を練ると言う。
「只管」とは「ただ、無心、その事だけ、その物、成り切る、見聞覚知を意識で捕えないでそのまま、意識や感情の起こる以前」と受け取ったら良い。皆一つ様子を言うたものだ。
存在そのものが総ての問題を引き起こすのだから、自分にしろ見聞覚知意にしろ、その対象にしろ、一切の存在の依って起こる所、本質を極めなければ本当に解決が付いた事にはならない。その存在以前の世界が「只管」である。
兎に角存在を越えた「今」に成り切ることである。否その物に徹することである。
本当に我を忘れてその物と一つに成ってもたらされる「本来の大自覚が悟り」であり、仏法現前である。それまでは衆生であってもその時からは仏である。理屈が無いから天地がそのまま境界である、春夏秋冬である。
かくして一切が仏と現成し一切が光明となり救いとなる。
何人も既にその存在である。その確かな自覚が無いだけである。
問題の真の解決はこの大自覚に依ってのみ付く。
只、努力有るのみ!
悟りの無い坐禅は仏の居ない仏教で、何の力にも、何の救いにも、何の報恩にもならない、ただのマネ禅となってしまう。仏の最も悲しむところであるから、よくよく心せよ!
分かりましたか! 小積さん!」

今の私には、先生のこの言葉を「只信じていくしか道は無い」のです。
これは大変な事に成ったぞ! この時初めて「坐禅の本質的な目的」がハッキリとしたのです。
今の今まで先生より、こんな凄い法話を聞いた事がないので、言葉も分からずレベルも付いて行けずでやたら心の高ぶりを覚え、本当の世界の素晴らしいのには、ただただ驚きでしかありませんでした。
「より以上の決意で覚悟を持って取り組まなくては!」
先生の言業、一言一言を聞き漏してはと真剣にならざるを得なく成っている私なのです。

持参した剣道着に体を包み、「この上は先生を信じ、先生の言われるまま一週間頑張ろう!」と固く心に決め、禅堂の人と成りました。

禅堂の一夜

禅堂と言っても別棟のお薬師堂で座るのです。先生と共にお堂に入ります。正面にぬかずいて薬師如来様を拝し、それから座布なる物の説明を聞きます。この座布は丁度車などで使うクッションの様に丸い物です。
その上に座るのですが、坐禅ですので普段の座り方とは少々異なって居ます。左足を右の大股の辺りに上げます。そうしますと足がさほど痛く感じないどころか、非常に楽に座る事が出来るのです。
しかし本格的な格調高い形は片方だけを股に上げるのでは無く、両方だそうです。ところがこれは私にはとても痛くて大変なので片方ずつ代わる代わる組み替えて頑張ります。

その他先生は坐禅に就いてのこまごまとした注意など一切何も言ってくれません。ですから勝手に「禅は形ではない。精神そのものだ。」と受け取ったのです。

しかし坐禅をするために来たので、坐禅をするのが本旨である。少なくとも出来る限り真面目にやりたい。平素好い加減に過ごして居ることの反省も有って、何から何まで出来るだけ本当にやろう! そう思っているので、これからここでの禅生活、形や規矩の指示が有るものと思っていたのでとても不安に成って来ました。
「自分の思うようにやれ!」と言われているのと同じなのです。お寺の生活や修行がどんなものであるか、どのように立ち振舞いしたら良いのか何にも分からない者にとって、この位いとまどうことはないのです。
本格的にやりたい! 本当にしてみたい! それなのに何にも教えてはくれない。
「どうしようか? 今、一息に取り敢えず成り切ろう!」
そのことに真剣に取り組んで必死に成って、[今]を追っ掛け回して、時に立って歩く。
[今、一歩だけ! 徹底そのことだけ!]何も分からないからそれをするしかないのです。

ところがそれから苦しい数日間の後の事、自分にも思い掛けない力を発見したのです。
頭の先から足の先まで本心真剣になってきましたら、歩き方から合掌の仕方から仏様に向かう所作など、何れを見ましても皆道に入ってそこそこに型に成っているのです。
形の元になる心が確立してくると、隙の無い品性が備わり、動きが自然に成って来たのです。私の所作が品位の有るものとは口がさけても言えませんが、[どうしたら良いであろうか?]の形に捕われた不安は無く、ただ真剣さが総てを大事にさせ、そこから精―杯の[捧げる心]が私にはとても格調高いものに映るのです。

与えられた形などではなく、自分の心で掴んだものです。そしてそれは道場でも海蔵寺でも常にそれを自分の姿としてやっているのです。家庭や職場ではそうもうまく行きませんが・・・・
不思議にも誰も皆教えられてはいないのですが、道場やこの海蔵寺に来たなら皆心から殆ど同じ様にするのです。若し初めから形式を厳しく教えられ強制させられていたら、心から、そして自分の姿として何もかにもにはとても心は行き渡っては居なかったと思うのです。

格調高い秩序が宗教の形式であることは良く分かります。そしてそれにはそれに相応しい、心が有る筈です。素晴らしいことです。しかしそのすっきりした格調高い心を求めるためには日常いつも格調高い宗教形式を一生懸命し続けていなければなりません。雑巾がけ一つするにも物々しい手順が有って茶道ならぬ掃除道がなければその心は得られないことになります。その形を習得することに主旨が偏って、心は後回しになり、結局は心の無い形に終わってしまうことになるでしょう。

形に心が有ることこそ最高でしょう。しかし形から本当の心を学ぶ事は出来ません。心が無くても形式は幾らでも作る事が出来る[振舞方]でしかないからです。
どちらも大切なのですが、形式と心とはどちらが価値あるものかとなりますと、当然心でしょう。心を美しく立派にすれば、必要に応じてそこそこに形式は分かってくるし、又やれるようになるのです。禅生活の総てはやり方や形式では無く、心そのものであらねば修行していることにはならないと言ってもいいのです。
我が師は「何をさて置いても兎に角先ず心眼を開くことだ! 形を覚えても救われぬ! 今は形に捕われるな!」と私達を導いて下さいました。この事を今、本当に感謝しているのです。

「小積さん、世界広しと言えども真の法を求め、菩提心を燃やして坐禅する人は少ない、その人は正しく大法の人なのだ! 宇宙を一にぎりにするのだ! 大いに自信を持っておやりなさい!」
と言われて薬師堂を出て行かれました。先生の言葉に私は大いにファイトが湧き、「何が何でもやらなくては!」と思い、早速正面の薬師如来様と相対して坐禅に入りました。

裸電球を消すと、お堂の中は真っ暗闇です。しかし、今は目を閉じて座って居ますのでそんな事は余り気には成りません。只、先程から私自身の呼吸だけが、むやみやたらに響きが大きく息をすればするほど、もの悲しさが湧いて来るのです。「一呼吸、一呼吸ただしなさい。」と先生の声がします。自分で言い聞かせているのです。
先ず、吸う息だけに焦点を合わせて見よう! そして吸う息だけに成らなくては!

「吸う」吐く「吸う」吐く「吸う」吐く・・・・「吸う」吐く・・・・

どんなに頑張っても出来ません!
駄目だ! 駄目だ! どうしても成れない!
吸う息が駄目なら、今度は吐く息だけに焦点を合わせなくては!
吐く息、吐く息だけに成ることだ!

「吐く」吸う「吐く」吸う「吐く」吸う・・・・「吐く」吸う・・・・

どの様にしても駄目だ! ちゃんと、しっかり先生から教えて戴いた通りにしているのに! とても「吸う息、吐く息だけ」には成れない私なのです。
「吸う息だけ」に成ろうと思っても、次から次へと色々な思いが起きて来るのです。目は閉じているのですが、私の頭の中は真昼の様に映像がハッキリと浮かんでは消え、浮かんでは消えて休まる所を知りません。その内、時間が遅く遅く感じ始め、益々頭の中は混乱し、どの様にすることも出来ないのです。
しかし、自分から逃出してはいけない! いけないのだ! 逃げる訳にはいかないのだ! と、自分自身を叱咤激励して、ようやく持ち応えているのです。
今私はここにこうして座り、しっかりと息をし、何も考える事も思う事も必要ないのに、どうしてこんなにも色々出て来て苦しめられるのか? 何故こんなにも思いが次ぎから次ぎに私を襲うのか?
町からは、電車の鉄橋を渡る音がこの静寂なお堂に響き、その音はかすかなのに、丁度すぐ目の前を走っている様に聞こえるのです。やがて電車の姿がズームインして大きくなり、窓の明かりが明るく美しく輝き、知った人の顔が見えてくるのです。
そして駅のホームへと到着し、キーッと音がして止まると、ドアが開き、疲れた表情の会社員、うつ向き加減の御婦人、跳ねる様な若者・・・・何と人の臭い迄伝わってくるのです。まるで私の頭が勝手に映画を見ている様です。
「この電車は下りの最終便だな、すると座り初めてからまだ一時間も過ぎてはいないではないか!」
「何と言うことだ! 私は内心既に二、三晴間はゆうに坐禅していると思っていたのに?」
「足が痛む! 足を替えよう。」それはもう悲鳴でしかないのです。

一呼吸に成り切るどころか、様々の妄想の中に入り早くも目的から逃げ出してしまい、坐禅はただ形ばかりなのです。そのような心境の中で、これから先座り続けなければ成らない自分を責め始めているのです。たった今、雑念との飽くなき戦いが始まったばかりでしかないというのに・・・・自分を責めながらも、「いや、私は自ら進んで坐禅をしにここに来ているのだ! こんな事でくじけてなるものか!」とややもすればくじけて仕舞いそうな自分に言い聞かせつつ、
「私は今、正しくここに、こうして座って居る。これこそ真実なのにこの真実から離れて仕舞うことは出来ないのに・・・・どうしてこんなにも心が乱れ、苦しいのであろう?
今は息を大きく、力一杯に全神経を注ぎ、一呼吸、一呼吸丁寧に行なうしか、この雑念から逃れる方法はない!」そう決心を振るい起こし、雑念の中に猛然と一息だけを頼りに切り込むのです。

一呼吸、一呼吸を力一杯に行う為か、喉が息をする度に痛く感じ初め、その事が私の神経を余計にイラダタせて、やがて涙が私のホホを流れて来るのです。
「とにかくそうしなければ!」呼吸で雑念を切る激しい戦いですから、自然に力が篭もってしまう、それでもそうしなければ本当の自然な呼吸との間に雑念が有って、私は雑念の呼吸しか出来ないのです、永遠に。だから今は痛くてもそうしなければ!
でなければ総ての本当のもの、本当の世界には目覚められない筈なのです。

坐禅を気楽に考え甘く見ていた私の浅はかさに、自分自身がいたたまれなくなり惨めになるのでした。そして逃れる事の出来ない事実に、只、只切なく最早誰か家の者がこの惨めな私をここから一刻も速く助け出してはくれぬかと、ついにはその事ばかりを祈っているのです。
電話でもいいから、急用が出来たから急いで帰れ! とか、

嘘でもいい、誰かキトクの電報をしてはくれぬか! とか、
兎に角、この私を急いでここから連れ出してほしい! とか、
薬師如来様、どうかこの私の願いを叶えて下さい! とか、
今はもう本気でお願いしている私なのです。

しかし、その一方では、何を意気地のない! このお堂に入ってわずかの時間しか経ってはいないではないか! ほんの少し前に座ったばかりではないか! この恥知らずめ! と次々と自分自身を責め立てるのです。そんな私はやや気を取り戻し、「一呼吸、一呼吸に全力を傾ける」のです。

座り始めてから二時間が過ぎた、そんな程度でしょうか。とにかく私の心は走馬灯の様にこれらの思いに混乱し、自分自身が分からなくなり、只、只辛く苦しくそれでいて座るしか無いこの現実を恨み、罵り、悲しく、「何でこの様な辛い目をしに、わざわざ坐禅をしにやって来たのであろう?」とその志自体を恨み、そしてひどく後悔し、今はもう先生の言葉も忘れ、辛く悲しい思いが優先して妄想の地獄の中で苦しんでいるだけの私なのです。

先程から、薬師如来様の台座の裏の方で、カサカサと不気味な音がして来ます。もう既に真夜中をとっくに過ぎた時刻です。それでなくとも心中穏やかでない私は、音に特に敏感に成ってどこかでオドオドしているのです。
このお堂の直ぐ近くに、神社の森が有ります。その森の辺りから物寂しいフクロウの鳴き声がして来るのです。今の私には何とも言えない悲しくて寂しく胸に迫って来るのです。
その内、フクロウのあの丸い大きな目がこの惨めな私を見ているのです。枝にとまりこちらを見ているのです。「お前は虚勢を張っているだけで、本当は恐ろしくて仕方がないのだろう、この俺には皆分かっているのだ!」と言うフクロウの鋭い視線を全身に感じると、もう恐くて・・・・今度は孤の鳴き声です。こんなにも近くに狐がいるとは驚きです。鳥肌が立ってゾッ! として・・・・

私は更に真剣に「只、息を吸い、吐く!」その事に満身になって居るというのに! どうした事でしょう? 確かに今息を吸っています。それも何となく息をしているのではありません。
「一生懸命に息を吸う事に集中し、吸い切って仕舞うと、今度は大きく吐く」ただその事だけに集中していると言うのにこれだけの妄想に苦しみ悩まされるのです。

先生の言っておられた「妄想」とは、この現象の事だったのです! 如何にしても何ともならない「巨大な心の嵐」だということを知ったのです。これを整理しなければ真理が見えぬとは!
今夜はとても眠れないだろう、だってこの様に辛く悲しく人恋しく・・・・と思うと今度は、子供達の顔が目の前に迫りこの私を探すのです。
「お父さんは、何処に行ったの?」
「今夜は、どうして帰ってこないの?」
「お父さん! お父さん!」
何時も、代わる代わる私の膝に座り、喜びを一杯に現してくれます、三歳と五歳になる女子です。それが私にとって一日の安らぐ時間でもあります。
しかし、今ここにこうして座っていてはどうする事も出来ません。これから先―週間も、と思いますと、もう気が狂ってしまいそうです。もう駄目だ!

私は精も根も尽き果てて、もうこれ以上座り続ける気力も喪失し、只、涙の内に床に入りました。だけど床に入っても神経の高ぶりを、どうにも押さえる事も出来ず、寝返りを繰り返し、少しでも速く夜が明けてくれる事を薬師如来様に懇願し、
「もうこんな夜はマッピラ御免だ!」と叫び続けているのです。
私の人生にとって、最も長くて辛い夜なのですから。涙は止む事を知りません。今はもう、先生を恨んで居ます。だって、
「眠りたければ、ただ眠れば良い。寝坐禅だ、寝床に入ってもただ呼吸をしなさい。
ただ吐き、ただ吸う。これを一生懸命しさえすれば立派な禅修行だ。
必ず我を忘れて呼吸と一枚に成る時節が有る。満身呼吸そのものに成った時、自我が脱落してその物の無自性空なる事を自覚する。
この明快な大自覚を悟りと言い、見性と言い、脱落と言い、三昧の消息と言う。この覚証こそが禅の生命である。これを得んが為の坐禅修行である事を忘れてはならぬ。
雑用心して心を拡散させている限り、絶対にその物と一体には成れぬ。つまり自己を忘ずる事はできない。したがって計らいの無い大自然の道は見えぬ。
それで雑用心無しにただ眠ればよい。ただ寝る時自己はない。自己無きを法と言う。
それで眠入ってくればただ寝れば良い。眠る時は眠るのが法である。法に成り切るを禅という。」

と言われているので、やりたくもあり、そんな世界に達してもみたいし、そうかといって目茶目茶辛いしもう何が何だか分からなく成ってしまい、寝坐禅の辛い夜でした。
安易に考えて入門してきた自分自身が情けなく、馬鹿さ加減をただただ罵るのでした。これほど迄に無力な人間であったとは! その内、何時しか深い眠りに入って居ました。

夜明け

「チィ、チィ、チィ」小鳥の朝のさえずりの声が、そんな私を眠りから覚めさせてくれたのです。新鮮な朝の営み、この町にこの様な自然が有ったとは知りませんでした。昨夜はフクロウや孤達、今朝は様々な小鳥達の鳴き声。窓越しに朝の明かりが洩れてきて、小鳥達の朝の宴の中で昨夜の辛かった色々な出来事を思い出し、無事こうして変わらない何時もの朝の訪れを実感してホッとしたのです。

単なる朝の訪れによって、昨夜の地獄から救われた有難さは何とも言えませんでした。このお堂からは私の生れ育った小さな町並みが見渡せ、それに続く瀬戸の海が朝モヤの中に浮かんで居ます。と次第に感傷的になってくるのです。今の私は大変に涙もろく、情緒不安定に成っているようです。しかし気をとり直し、自分で自分を鞭打ち、やっとの思いで座に着きました。

座に着き目を閉じますと、絶えることのない小鳥達の声が、すぐ私の耳元で鳴くのです。
「チィ、チィ、チィ」もう私の頭のなかは小鳥の声で一杯です。
一呼吸、一呼吸の中で小鳥達が技から枝へと飛び遊ぶのです。私はしばらくの間、この小鳥達と一緒に遊ぶことにしました。今の私は、「一呼吸の今」に一生懸命になるよりも、小鳥達と遊ぶことのほうが余ほど楽だったからです。いや、苦しみから救われたかったのです。そんな雑念に心を任せることで誤魔化しの平安をむさぼっていたのです。

町の少し小高い所に位置しているこの海蔵寺のお堂には、町の人々の活動の色々な雑多の音が良く響いてくるのです。それらの音と共に、私の心は敏感に反応して映像が、思いが、駆け巡るのです。
町工場から流れて来るチャイム、ラジオ体繰のメロディー、小学校、中学校から聞こえて来る始業のチャイム、海行く船の気笛、それらが総て入り交じり、一人静かに座る私を痛め付けるのです。
私の心は静まるどころか、激しく波打ち動揺し、「ただの一呼吸」に成るどころか乱れるばかりです。「どのようにすれば、これらの音から逃れることが出来るのか!」
今の私にはその糸口さえも掴むことも出来ずに、只早くこの地獄から脱して、先生の言う「本当の一呼吸」に成りたい一心で無我夢中で「吸う、吐く」を繰り返すのです。

焦れば焦る程、呼吸は乱れに乱れ、体全体が大きく波打ってくるし、組んでいる足が段々と痛さを増してくるのです。
それでも私は真剣に座って居るのです。背筋を真っ直ぐに伸ばし、あごを引き締め、姿だけでも坐禅している仏像のように。「せめて形だけでも本真剣にしなければ心は地獄の真っただ中にあるのだから」と、自分自身に言い聞かせて。

足の感覚が次第に無くなっていき、それでも我慢出来る所までは我慢しようと思い、足の痛さに耐える事、痛さを我慢する事だけに一生懸命でした。
「一呼吸に成り切る」どころか、痛いという感情に囚われて坐褝どころではありません。先生は、
「足が痛めば我慢もほどほどにして、足を替えることだ。それでも痛めば座を立ち、一歩に成り切ってただ歩けば良い。
本当にただ歩けば自己は無い、これを歩行禅と言うのだ。
一歩、一歩、その物に成り切る努力は、一息に成り切る努力と全く同じ事である。そして本当に成り切った一大事の大自覚は一つしかない。
何人も、深浅の差こそあれ、その大自覚は皆同じものである。
それを伝えてくれるのが師であり、それが本物かどうかを見届けてくれるのも師である。」

しかし、今の私には先生の本意が理解出来ませんでした。
「私は坐禅をしに来ているのだから、ここはもう少し我慢しなければならぬ。」と痛さをこらえるのです。
「果たしてこのような状態でいいのだろうか? 一呼吸、一呼吸に成り切るどころか、色々な妄想が私を支配し私を苦しめる。私は坐禅する資格などない人間かも知れない。
こんなにも地獄なのは、私だけかも知れない。」
僅か一夜でこんな弱音を先生に訴える勇気もなく、自分自身がこんなにも弱い人間である事を認めてしまう事がいかにも惨めで、「何が何でも頑張らなくては!」と、ガムシャラに「ただ一呼吸」をすべく決意するのでした。

「今は吐くだけ!」「今は吸うだけ!」と何度も何度もただひたすら繰り返すのでした。

朝食

お堂の引き戸が音もなく開き、奥様が静かに正座し両手をついて居られます。そのそばにはお膳が整えられ、部屋の隅に置かれ、そして私に合掌し一礼されるのです。
私はその姿に思わず合掌し、厳粛な中に暖かい励ましの心が伝わってくるのを感じるのです。一層今我が身が、心が引き締まるのです。

今、一人お堂の中で初めての朝食を前にしています。
精進料理のお膳に「御箸袋 福寿山海蔵寺」と書かれた箸入れがあり、その三折りになった箸入れを開きますと、「五観の偈」と書かれていました。食事の前に感謝の心でこれを読むのでしょう。一から五迄を読み進む内に、「五つには、成道の為の故に今この食を受く。」と書かれてあります。私は繰り返し繰り返し読む内に、ドーッと涙が溢れ、
「今自分は道を求めて此にいるのだ! そして道を求めんが為に今正しくこの食を受けようとしている! 昨夜から今朝にかけての苦しみは、道を求めんが為の苦しみであったのだ!」

その様に自分に納得させると、これまでの惨めな私は何だか嘘のように希望が湧いて来るのです。そして、今の涙は昨夜のものとは確実に違う涙なのです。希望と感謝の涙です。この素晴らしい食事を「今正に、成道の為に」戴く事が出来る喜びの涙なのです。

一口、一口静かにゆっくりと戴きます。これまでのどの様な料理よりも、おいしく有難く戴いています。思えば本当に不思議な心の変化です。四十年の人生で、今程、感謝の思いで食事した経験など無かったからです。此にはテレビや新聞などありません。一口、一口静かにただ食ベるだけです、その事が、今の私をますます感謝の心に導いてくれるのです。

見付けたぞ! 着眼工夫

私の精神状態がようやく普通と変らなくなったのでしょうか、感謝の気持を持てる程になったのですから。いや、少し増しになったのかも知れません。今のこの心を大事に座れば、それこそ静かに坐禅することも出来るだろうと、そんな気がして来るのです。
「早々に座らなければ!・・・・薬師如来様、どうかこの私を見守って下さい!」と、線香に火を付けます。ここの線香は大変に長いのです。約三十センチはあるでしょうか。手を合せ、合掌しながら私はいつしかこのようにお願いしているのです。

昨夜は目を閉じて座っていましたので、あんなにも「妄想」にさいなまされていたのかもしれない。
「今丁度線香に火を付けたばかりだから、この線香の火に焦点を合せて座ってみよう。何かに意識を預けて動く余地を与えねば、騒ぎ回る心を静める事が出来るのでは・・・・」

僅かながら自分で修行の糸口を発見したように思え、修行を積極的に進める勇気が出て来ました。それまでは取り留めも無く騒がしく、ただ辛くて苛立たしく、もがきと苦しみばかりでした。
私は何だか宝物を見つけた思いで、早速座り始めたのです。
線香が燃え尺きるまでにはどれ位の時間が掛るのか、あの線香が尺きる迄となると大変掛かる事だろう。よし! この一点に心を置く事をとことんやってやろう! どの位不動の心で居れるか、と。

目は線香の火に集中させ、呼吸は今まで通りに「大きく吸い、吐き、吸い、吐き、又そ
れを繰り返し、一呼吸、一呼吸を大事にハッキリ」とさせるべく努力を始めたのです。
そうしたら、昨夜から今朝までの苦しみが何だか幾分和らいだかのような、がんじがらめの心のもつれが弛み始めて来た様です。
一息、一呼吸と、雑念との悪戦苦闘の連続の様子が、見届ける事が出来るのです。先生の言われていた、「一息になり切る事」が何を物語っているのか、それが大変大事なことという事が少し漠然とではありますが、糸口が分かりかけてきたのです。そんな思いで線香の火を凝視しているのです。
「ただ一点を見つめて息を整え、姿勢を伸ばして座る。」
今、私はやっとの思いで、どうにか形だけは坐禅に近づいた感じです。そして「どのようにしたら次から次へと襲って来る妄想を切ってしまう事が出来るだろうか?」と、理屈ではなく、「今」のこの現実を如何にしたらいいのかを、「一息の一点の中に見つけよう」と一心でした。

少なくとも、線香の火を一心不乱に凝視することで、雑念に依る撹乱は防がれるに違いない! この課題も少しずつ分かってくるてあろうし、多分ここに重大なヒントが有るのではなかろうか? 私は今ここに座り、呼吸し、線香の火を凝視している。この事以外には何もない状態にある、間違いなく現実ここにそうある・・・・と、又外の雑音に心が乱れ、妄想が襲い掛かってくる!

「この起こり始めはどうなっているのだろう?
この雑念の出所は何処なのだ? 先ずそこを知りたい。
雑念は何時出てくるのだ?
何時の間にやら出ているではないか!」

私は迷いだらけで、そのためにまずこの事を懸命に努力するしかない。と自分自身に言い聞かせ、猛烈に座るのです。
この海蔵寺から少し登った所に保育園があります。その保育園へと続く道がこの寺のすぐ下にあるのです。私は昨日まで時々子供達を連れてはこの道を通っていました。
静寂なお堂に子供達の騒ぎが聞こえて来ます。するとどうでしょう、忽ちのうちに今までの静寂は消え失せ、我が子の顔が私の体中を駆け巡るのです。

折角静寂に成りつつあった私の心は取り留めもなく騒ぎ、胸が張り裂けんばかりに子供がいとおしく思われ涙が溢れ出て、今にも坐を捨てお堂から飛出して行きたい衝動をやっとのことで押さえ、「座り続けなければならない!」と自分に叫び続け、この現実に涙するしかない私なのです。
このような状態では線香の火を凝視する事も、一呼吸に専念することも忘れ、心の乱れをどうすることも出来ないのです。
やがて保育園から童謡のメロディーが流れ始めると、それに合わせて子供たちが体操をする様までがイメージされて、これでもか! これでもか! と出てくるのです。

何とかこのあらあらしく鮮明なイメージから逃れてしまいたい!
その一心で思わず座を立ち、お堂の中を歩かずにはおれなくなってしまったのです。とにかく自己との闘いそのものでした。
「歩くとは! 歩くとは! 一歩、一歩、今、今!」と、足を運ぶ度に口でつぶやき、つぶやき、これらの映像から必死で逃れようと歩き続けるのです。これを放棄した瞬間、私はここを飛び出し、紛れも無く保育園の我が子を抱きしめに走るだろう、そしてその直後、私は取返しの付かない自己嫌悪に陥り、多分一生後悔する事になるだろうと思うのです。

そのうち先生の一声がするのです。
「あれこれ思わず、一歩、一歩になり切れ! 全身丸ごとの一歩のみ!」の言葉に、今、真剣に取り組み始めたのです。両手を胸の前で合せ、丁度、薄氷の上を歩くように、恐る恐る、静かに静かに、一歩、一歩、注意深く、確実に歩くのです。私にとって、生まれて初めての歩みです。極めてゆっくりと、そして真剣な歩みなのです。
「歩くことの実感。一歩前に出る一歩の実在感、重み」を連綿として感じ、自然に足に注意が注がれます。普段、こんなにも自分の全てを懸けて歩んだことなんて、只の一度だってありません。

保育園の賑わいも終り、ようやく静寂が戻って来ました。今、もう只歩くしかないのです。一歩、一歩、と歩きながら、ぶと、私の呼吸が、或る一定の働きをしていることに気がつきました。呼吸と、一歩の体全身が一つの動作になっていたのです。
吐く息と同時に一歩前に出ています。体が止っているときは、確かに息を吸込んでいるときなのです。総ての人がそうだとは勿論思いません。しかし、この自分の一事実は、私にしてみれば大きな驚きで、新たな発見でもありました。
「意識に無い体の動き、これは大変な発見だ!」
「ここに着眼して、今、一歩、一息になり切る努力をすれば良いに違い無い!」
「やった! やった!」
「先生の言葉の意味がやっと分かったぞ!」

私の胸は高鳴りました。僅かな着眼点を見つけ出した喜びで「只、只、歩く事」に楽しみさえ覚えてくるのです。当ての無いさまよいの時、ほのかに見つけた方角は何よりの救いだったのです。
何時の間にか子供の事、総てのことを忘れ、今、歩く、一歩に集中し、呼吸に合わせ、一歩を踏み出す事に専念努力が出来るのです。目は足元の一点に置き、畳の目に沿って、一歩、一歩、前進するのです。

どれぐらい歩いたでしょうか。畳十二、三枚程のこのお堂を歩くのですから、何十回となく回ることになるのです。その内にだんだんと、畳の表情に心が囚われていることが良く分かる様になったのです。畳の色の違い、傷の出来方、破れ方、畳の堅さ、その事などが今の私を捉えてはいますが、それ以上の事は無く、だからそれ程苦しくなく歩く事が出来るようになっていたのです。座る事さえも忘れてひたすら歩いたのです。全く時を忘れて・・・・その時、本堂の庭の方から、こちらのお堂へと向かって来る先生の足音が聞こえてきたのです。

この寺の庭は何と無く端正素朴で、有名な京都の石庭を思わせる、何でも無い砂と、何ても無い石の庭なのです。その上を、先生専用の草履で歩くのですから「ザック、ザック」とすぐにでも先生だと分かってしまうのです。
するとどうでしょう。またもや、ようやくのことで静まっていた私の心は、頭は、先生の映像が浮び、先生の姿がこちらに向かって歩いて来るではありませんか!

「こんなことではどうしようもない! 音に囚われず、無我夢中で歩け!」と叫んでいるのです。
私は確かに、一歩、一歩に全神経を注ぎ、一呼吸に心を合せ、耳からの「妄想」を解放し、少しではありますが楽に一歩、一歩が出来る様になっていた矢先の事でした。思わず、
「このイメージ、何処からか来る?」と自分自身の頭を打ちつつ、
「だめだ! だめだ! 何故こんなにも耳から聞こえて来る音に敏感に反応し、瞬間にイメージを作り出し、心が動じてしまうのだ!
真理は? 真理は?
今、私はここにこうして、一歩、一歩、一呼吸、一呼吸確かにしているではないか!
この一歩以外、何処にも真実はないではないか!
この一呼吸以外、何処にも今は無い!
なのに、何故? どうして? 雑念は私を責め悩ませるのだ!
この思い、この心の苦しみは、どうしたことか?
先生の足音に、先生の顔が、姿が見えて来るのは勝手に私が描く「妄想」!
この「妄想」は何処から湧いてくるのだ?
私自身が? 私の心が? 敏感に音をキャッチし思いやイメージを作っているだけだ!
作る癖? 我見?
そして、勝手に悩み、悶え、苦しみ、涙し、恨み事を言っているのは誰だ!
ならばこの、妄想のおこりばなを捕まえれば良い筈だ!
捕まえてしまえばもっと、冷静不動にその物を見つめることが出来るだろう、そうすれば、「今、今の一息、一呼吸、一歩に成ることが出来ると言うもんだ!」
自らに言い聞かせ、言い聞かせ、外の先生の足音を払い除け、聞き流そうと、一段と強く、激しく吸う歩く 吐く歩く 吸う歩く 吐く歩くを、もう一生懸命繰り返しているのです。
やがて先生の気配もなくなり、私も坐に戻りました。しかし、先程の動揺からなかなか立ち直ることが出来ません。
「こんな事ではいけない! どうしてなのだ! 早く一息にならなければ!」

ところが一息になるどころか、どの様にすれば様々の音から逃げ出すことか出来るのか?
「只、一息、一息になる為には一体どうすれば良いのだ!」
例え一息に成り切ったとしても、音は聞こえて来る筈です。音を聞かない訳にはいかないのです。小鳥の声も、フクロウの声も、カラスの声も、チャイムの音も、子供達の声も。

どの様にしろと言うのでしょうか?
只私は座って居る。この現実、この真実、この今は離れられないし、「妄想以前」なのです。
本当の一呼吸、吸う瞬間、吐く瞬間の明らかなこの事実。紛れもない瞬間の今、あるがままの今を一心不乱に全エネルギーを集中し没頭している連続の中でも、私の頭は混乱し続け、矛盾が大きな波紋のごとく襲って来るのです。
だけど! だけど! 今私は座っているこの真実! 座って居る事実! 座って居るこの今は、紛れも無く私自身なのだ! これ以上の真実が有るとでも言うのであろうか?

昼食

こうして空しい孤立無援の闘いに、私自身の生理現象迄も忘れていたのであろう。昨夜からまだ一度もトイレに行くことさえも、このお堂から出て行く事すらも意識になかったのです。瞬時の煩悩との悪戦苦闘の連続が、これほどまでに人の心を締めつけ、変形させていたのです。

このお堂から約五十歩ぐらいの所にトイレがあります。本堂の横を通って行くのですが、私の姿は座卓の在る先生の部屋から丸見えなのです。お堂で一歩、一歩、ただ歩くのと同じ様に呼吸を整え、
目は足元におき細心の注意を払って、視野に入って来る総ての物を無視し、
「今はこの一歩に在り!」と心で叫び、その通りに実行しつつ向かうのです。
排尿の時も、「今、これだけ!」と心に命じて事実にのみ観念を固定させ、じっと没頭するのです。
もう今の私にはこの事だけに「全神経を集中」させ、そのように努力し「一挙一動を信じ、そして見守り、そして明らかに行う以外には道はない」所まで、自らを追い込んで居るのです。

用を足し又、「一歩、一歩に成り切る」べく先生の居られる座卓には目もくれず、とその時、
「小積さん、小積さん!」と先生の呼ぶ声がするではありませんか!
思いもしない先生の声に戸惑いながら、「一歩、一歩から心を奪われない様に」ゆっくりと先生の待って居られる座卓へと向かいます。
静かにお茶を入れて下さるその姿に何とも言えない爽やかな、暖かい心が伝わってきて、それとともに思わず涙が溢れ、涙を拭く事も忘れて静かな無言の世界に居るのです。

「この静けさを壊しては、自分の努力に申し訳ない!」と思いながらも、しかし今の私には昨夜からの苦しい体験、今朝の食事、なにもかもさらけだして聞いて頂きたい事だらけで一杯なのです。そんな私をみ透かして居られるかの様に、先生は優しく語りかけてくれるのです。

「今に成り切るということは大変でしょう!」
と、先生の言葉に何故か又涙が溢れ出るのです。
「先生! 五観の言葉を拝読するうちに、私は泣けて仕方が無いのです。成道の為、今まさにこの食を得る奥様の心温まる料理と、自分は正に道を得る為にこの禅堂にある事、今までかって無い感謝の思いで食事しました・・・・」と。
しかし、先生は私の話にはあまり反応してくれないのです。それどころか「本来の今、瞬時の今」とは違うとでも言わんばかりなのです。
この様な「感情や思いが起こる元の世界」の「今」、その「今」を求めて、いや体得してこそ本来だ。先生は無言で私をこのように指導して下さっているのです。それが今の私には痛いほど良く分るのです。
座卓の向こうの先生が今私の世界であり、先生の一言一句、一挙一動が私を拘束している。それは私の目に見えない私を先生に依って浮彫りにされ、それに依って観念的自己と言うか幻の自分は急速に溶解しているのです。
先生は先生という個体の先生ではなく、今は完全に私の中に溶け込み、私の意識の構造その物をあらわにし、もつれを解き、腐りを取除き、曇を取って下さっているのです。そして溶けていくのが分かるのです。
ですから先生に依る明快な自分、本来の自分に操られ、乗移り、成り切れば、それが出来れば一番救われるのには早道なのだという事も分かるようになっているのです。
静かに法話して下さる先生の言葉その物しか無く、私の気持ちや考えなど一切今は無いのです。

「坐禅は心を明らかにして、迷いの元を解決付ける、すると大自然の様子が分かる。
それを大道とも真理とも言う。ここに体達した人を仏とも覚者とも祖師とも言う。
般若心経に、「五蘊は皆空である」と断言して居る。五蘊と言うのは眼耳鼻舌身意のことで、我々の身体もただの寄せ集め、一時の因縁の出来事であるということじゃ。
夢、幻が本当なら、今真実の夢、幻にあらしめる力があれば、常に真実ではないか!
生死のまま夢であり幻であり、それがそのまま真実である。宇宙である。
因果のままに因果の拘束を受けぬ。大自在である。
すでに何人もそうであるが、自ら凡夫であり、迷うのは当たり前、だから欲のかたまりになるのも当たり前、皆そうだから損をせんように、と我を張って本当に凡夫になってしまっているだけだ。
それは自分で自分の仏を殺しているのだよ。
本来は今、このままで仏なのだよ。我のかたまりさえなければ!
今、そのものには自我など何にも無い、仏なのだ!
今、そのものに成り切るとは、仏が仏に出会って確かな確認をする事なんだよ。
心を雑念に用いず、その事、その物に没入し成り切って、我を忘れるのじゃ。」

先生のこの難しい法話が、今はとても良く分かり喜びなのです。先生の大切な部分が今の私に感じ取れる様な気がするのです。
かってこの海蔵寺を訪れた時、必ずと言っていいほど、
「小積さん、足元! 足元!」と言わわて私を見送って下さった事を思い出すのです。そんな時、
「何のことだろう?」と理解することが出来ず、只、私の足に何かしら問題でもあるのでは? それにしても変な事を言われる和尚だな、と思っていた次第です。
今、一歩、一歩、の「歩行褝」の修行をしてみて初めて、このことを言っておられたのだな! と気が付いたのです。

いささかの時が流れて先生も私も只黙って座って居るのです。その静けさの中で、私は又不安に落込んでしまったのです。事もあろうに先生は明日から二日ほど留守にされると言うのです。今の私は先生を頼にして、悪戦苦闘の中に有っても何とか頑張る事が出来たのに!
何という事だろう、先生の居られない二日間、どうすればいいのだ?
漸く一息、一歩、少し分かり掛けた時なのに!
私は混乱し、これまでの静けさは何処かに飛んでこころ細くなってしまったのです。そんな私に先生は、
「小積さん、そんなに心配しなくても良い。これも(奥様)少々心得ているのだから・・・」と笑って居られるのです。奥様もそばで微笑みながらうなずき、
「安心しておやりなさい。」と言われます。先程まで狼狽していた私は奥様のその姿に少し安心し、「よろしくお願いします。」と心からお願いをしつつ、「そうだ奥様もこの道を極めようと努力されていらっしゃるのだ!」と心強く思え、ようやく「自分で頑張るより道はない!」と決心が付いたのです。

先生は静かに座を立ち書斎から一冊の本を手にして座に戻られ、
「私の居ない間、何時でも良いからこの本を読んでみなさい。」とページを捲りながら特に、「只管工夫」を読むようにと言われて、井上大智著「三十余年の病床生活と禅の力」と言う本を私に下さいました。
この一冊の本が「今」、に目覚めさせてくれようとは! この時はまだ知る由もありません。
再びお堂の人となりました。
奥様の心温まる昼食を前にして、「よし! この食事、徹底ただスキ無くたべるぞ!」と誓いました。一箸、一箸ゆっくりと口許まで運び、確かに口にくわえ、出来るだけゆっくりとした動作で、丁度一歩、一歩、一息、一息と同じ様に、一噛み、一噛みだけに成るのです。

全神経を一箸に集中させ、一噛みに集中させ、いちいちの「今」に成り切る努力をするのです。このお堂の中では、いちいちがハッキリと、明確でなければだめなのです。
やっとその事に気付き、そうする事でしか「今」に成り切る道はない。その事実を只、只理解した程度にしかすぎない私なのです。

しかし、昨日とはかなり様子が違っているのです。自分の一挙一動や周りの環境、一個の存在が漸くのことで明白に成ってきたのです。一つ一つの事実に心が行き届き、今の私を大いに落ち着かせているのです。こうなったら後は今の一呼吸に、只一心不乱に全エネルギーを集中させてやる以外にはないのです。

昼食の後もすぐに座につき、時間の経過も余り気にはならないのです。出て来る色々の「妄想」がことごとくハッキリと捕える事が出来るのです。
「あっ! 今出て来た!」
妄想のおこりばながハッキリとして来ましたら、昨夜の様な苦しさはなくなっているのです。それどころか、坐禅が苦痛では無く面白くさえなっているのです。
「これでもか! これでもか!」と明快に切る事ができるのです。切ると瞬間に呼吸に戻っているのです。雑念がスカッと消えて無くなるのです。
本当に一息しかない。本当の今はこの様に余念の無い「今だけ」なのだ。総ては自分が作り出して居る過去の既成概念でしかない。この心を自分で決着つける。それしか本来の今を得る方法はない!
「分かったぞ! 余念の無い瞬時の今、瞬時の世界が確かに有る!」
こうした確かな目標が、今私の心で渦巻きだしたのです。
俄然、やる気充分!

猫と鈴

奥様が昨夜と同じ様に、心からの食事を運んで下さいます。夕食には大盛りの御飯と、みそしる、ジャガイモの煮つけです。ただ合掌と感謝です。
食事するこの一瞬もことごとく「今」を離さない修行なのです。
一箸、一口、一噛み、の瞬時の今がことごとく修行で、この一挙一動がスローモーションなのです。家でこの様に食事したならきっと、家中の人達から不信な目で見られること請合いです。

しかし、今はそれどころではありません。感謝の内に終り、私はゆっくりと座に戻ります。一息、一息、ゆっくりと確実に、大きく吸い、吐き、ただ単純にこれを操り返すのみです。自分自身の鼻息がこの静寂さの中で一段と響きます。
ころはよし! 今夜は徹底座ってやるぞ! 何が何でも今を見つけてやるのだ!
と必死の覚悟で座って居る私に、無情にも猫の鳴き声と首に付いている鈴の音が、この私を一晩中狂わせようとは!
猫の鳴き声と言っても通常の鳴き声ではないのです。今は五月、丁度猫たちの発情期に当たり、複数の猫独特のあの愛の声でひっきりなしに鳴くのですから、もうたまったものではありません。その鈴の音が、このお堂の下、本堂の下、庭中を本当に処かまわず朝から晩まで四六時中わめき回り狂い回るのです。
頭の中は猫のあの声、あの鈴の音で狂わんばかりです。猫の動きに私の心は全く囚われ、どうする事も出来ないのです。一つのイメージを退けても、もう次の鳴き声と鈴の音に依るイメージが待っているのです。
鈴を着けた猫は明らかに一匹と分かるのですが、もう私の頭の中は猫が何十匹となく、あっちへ、こっちへ行きかって止む事を知らないのです。

ようやくの事で落ち着きを見せて居た私の心は、くちゃくちゃになり元の私に返ってしまい、着眼も工夫も目標も見失ってしまったのです。只、猫の存在を恨み、飼い主がつけたであろう鈴を恨み、一時も早く猫たちが何処かに去ってくれぬかと、そればかりを願っていました。
現実から逃癖する習慣が何時の間にかこんな私を作っていたのです。
しかし、この現実に聞こえて来る猫の声、鈴の音、正しく事実であり疑うことの出来ない今の真実なのです。なのに今の私はその事実の音、声から逃げてばかりいる。
「これで良い筈はない!
逃げてはいけない!
真正面から取り組まなければ!」
この事は私にとって新たな挑戦でもあり、工夫でもありました。猫と鈴が私を勇気づけてくれているのだ、と気を取り直し、「一息、一息、吸い、吐き」を大事に大事に、ゆっくり、ゆっくり、大きく、大きく、私の総てをこの一息の中へ没頭させていったのです。
しかし、何時までも何時までも、猫の鳴き声と鈴の音はこのお寺から離れてはくれません。
鳴き声に猫を想像し、リン、リン、と聞こえて来る音に、鈴を連想します。
「これがいけないのだ! 鳴き声は鳴き声なのだから・・・・
だったら猫のイメージは、これは完全に私の既成概念、潜在意識でしかないのだ!
音や声から来るこれらの意識、イメージを切ってしまうことだ!
「声」は「声」、「音」は「音」、としてこれら自分の耳から入って来る一切をほっとけばいい!
耳から入って来る総ての音、声などどうしようもない! この事も事実なのだから・・・
そうだ! そうだ! 音は耳、ただそれだけなのだ!
音や耳はイメージではない!
音は音だ! 耳は耳だ! 単純な事実だ! 有るがままではないか!
有るがままを只素直に聞きっぱなしておればよい!
耳や音は意識以前だから、音を意識で捕えたりせず、こうして聞こえて来る一切の音に素直になればいいのだ!
音を音のままに聞くということは、その「音」に素直になりさえすればいいのだ!
素直に聞くだけに成ることは、否定ではなく、又肯定でもなく、只自然の有るがままに丸ごと音に成ってしまうことなのだ!
そこには、苦しむイメージも、虚像もなく、潜在意識など入り込むすきまなどなにも無い只「今」の「今」が有るのだ。音は音なのだ! 簡単明瞭にそう成れば良い。・・・・」

今の私にはハッキリとは分からないが、確実に「今」は存在している。少しずつではあるがその「今」に近付いて居る事は確かだ。今夜一晩中「猫と鈴」との戦争だ。何でもハッキリとさせなくては。その為にはより以上の努力をしなければ!
猫の声に惑わされず、鈴の音に惑わされず、この座、この一息が私の総てなのだから、声は声、音は音、一息は一息、この事しか真実は無い、と言い聞かせ取り組むのです。
この単純な目的と方法で、厄介な相手を寸暇無く整理し続ける事が、どんなに困難な事か。肩から腕は凝り、肺線や胸は痛む。時の流れは苦しみの流れでした。

やがて夜も白み始め、猫たちは今は何処へ行ったのか気配も有りません。
私は何時か深い眠りに入っていました。

只管工夫
名著との出会い

朝方近くになってふと気がつくと、既に町の活動も始り、すっかり朝寝ぼうした私は未だ寝床の中で、慌てて起きるでもなく今朝は町から聞こえて来る色々な音を静かに聞いて居るのです。
あれほど私を狂わせたチャイムの音、小鳥たちの声、子供たちの声も、今朝はとても静かに聞くことが出来るのです。未だ映像には成りますが直ぐにその映像を、切ることが出来る様に成ったからでしよう。

今朝、もう先生はこのお寺には居られないのですが、昨日迄のあの心は今朝は有りませんでした。朝食を済ませ、昨日と同じ様にすぐに坐禅を始めます。昨日と同じ修行と言っても、今朝はまるっきり様子が違うのです。随分と落ち着き、不安やイライラやどうしたら良いのか、といったあせりなどが無くなっているのです。すると先生の言葉だけが今聞いているかのように出てくるのです。

「目的が「心の癖を解く事」に有るのだから、それに最も適した方法を行うべきである。つまり一切を放棄して身にも心にも行為しなければ、目的や方法などを持つ必要はない。
本来なら、そこで何事も無く安らいだ自然の侭に有る。総てが救われて居る筈だ。
ところがそういかないのは、経験に依って学習されたもの、何何と思い込んだ概念、認識や判断、感情など諸々の精神作用が勝手にそれぞれ刺激し合って、取り留めもなく色々な思いに駆り立てる癖が着いているからですよ。
それを破る為の修行だから、とにかく先ず、身も心も何もすることの要らない状態にしておいてそこを標準にして過去の一切を離れた、「今、本来の自然」に帰るのだ。
坐禅はその標準である。最短距離であり、その物の丸出しである。
それ自体に成った大自覚が悟りである。故に最も尊いのだ・・・・」

今それらを思いだして、坐禅の大きさや深さ、そして何より私達を根本的に救ってくれる尊い事に実感として気付いてくるのです。こうして私の心の中に仏教の本質的な「敬い、憧れ、求道心」が一緒に成ったような信仰心が急速に高まって来ているのです。
足が痛くなるとお堂の中を一歩、一歩と歩きます。
ここのお寺の環境は実に静かで、お堂の外からの音や声さえ気にしなければ、坐禅の修行には絶好の環境に有ります。ふと又、私は先生の言って居られた言葉を思い出して居るのです。

「坐禅とは坐禅なのだ、その事を体得するのだ。初めからはなかなかそうはいかぬ。色々な雑念に際限無く振り回されるので自然の心にならないのだ。
どうしても初めは例えるならば桶の渇った水をかき廻している状態、その水槽を静かに置いて居ると、何時しか渇った混ざりものは下に溜まり、澄みきった水と成る。雑念はほって置く事しかないし、相手にせずほっておき、ひたすら坐禅することだ。そうすると丸出しの坐禅が出来るようになる。
しかし、そうした訓練によって静まったものは、一度大きな刺激に会うと一たまりもなくもとの濁りとなる。それは濁れる物があり、溜まる物があり、掻き回される物があるからだ。
本来総てが丸出しそのもので、濁れてもいないし、留める事も出来ないし、他に因って暗まされる物でもない。
濁れは身と心とが離れ、心と物と離れて居る、つまり「隔て」を自らがこしらえているだけだ。
それが我見である。癖である。そのことが解からない為で、それを「無明」と言う。
我見のない濁れの無い自然の心、今、生まれ立ての純真無垢の心で有ることを体得する、そのための坐禅である。修行である。
今に徹して我を忘れ切れば良い。
その物になりきれば、自我は自ずから脱落しておる。
今じゃ。たった一息じゃ。全命じゃ。命懸けでやらねば駄目じゃ。
とにもかくにも、一にも二にもひたすら努カじゃ。やれよ。やれよ!」

私は今その意味する処が、やっと分りかけて来た思いです。私の心の濁れがそのまま総て既成概念であること。潜在意識であること。見る物、聞く音、五感(眼、耳、鼻、舌、身)を通して感じる総ての作用にそれらが関わって、「私という自己意識を形成している」のだ。
又、好き嫌い、建て前、本音、良い、悪い、と自分で決めつける一切の私は、自分自身が勝手にその虜に成ってしまい、その様な自分にドップリつかってしまい、その自己をして自分だと思っているだけなのです。
それこそ勝手気ままに喜怒哀楽に振り回されていた、この事実こそが、今迄の私の正体だったのです。今の私は未だ完全に澄みきった水の様には成っていません。しかし、自分の心の様子が手に取る様に分るのです。イメージ、思いの起こりが少しずつ分かってきて、それらを容易に切ってしまうことが出来る様に成ったからでしょう。この事は私にとって大変な向上なのです。
なぜなら濁って居た私の心が良く見え出したからです。濁れの中にあって、濁れとも思わず、気づかず、分かろうともせず、「自分は自分なのだからそれで当たり前」、昨日まではそんな私だったのです。
先生の言われる「坐禅とは坐禅なのだ、そのことを体得するのだ。」この言葉が重く大きく、優しく有り難く私の総てを包んで居ます。なのに、今の私は強烈に現れてくるイメージが問題なのです。
本来イメージなどの入り様のない今、瞬時の今の筈ですから・・・・

今朝はなにはともあれ、とにかく「一息の今、一吸いの今、一吐きの今」に徹して「もっともっとゆっくり、深く、大事に」瞬時瞬間に成りきって懸命に努力しました。

昼食も終り、一歩一歩と[歩行禅]の中でふと、先生から頂いた本のことを思い出したのです。今の私には[今ただ一息、今ただ一歩]の「今」「ただ」がどうしてもハッキリ分からないのです。と言うより本当に心は澄み、落ち着いて来ては居ますが、「妄想、イメージ」を瞬時に切るのですが、それが長くは続かないからなのです。
それだけに先生から頂いたこの本のなかに、重大なヒントがあるのではなかろうか? 早速に夢中に成って本を手にしました。
初めから最後のべージまで、一字たりとも逃すことなく読んでいます。この本のどの部分にヒントがあるのか分からないからです。目は一字、一字、一言一言に吸いつけられています。私の全身が目になり文字になり言葉になっているのです。

どの位の時間が流れたのでしょうか?
その間、外からの音も声も無く、イメージも妄想も無く、「今」一字一字だけに成っているこの瞬間だけ。ましてや書かれて居る言葉に勝手に注釈を持ち込むでもなく、思いを入れるでもなく、只読み進んでいるのです。
目はやがて「只管工夫について」の処まで読み進んでいます。「只管工夫」何と読めばよいのだろう? そうだ奥様に聞いてみよう。
「只管工夫」、ここの処はどの様に読めば良いのでしょうか? 奥様は微笑みながら、
「しかん、くふう」と読めば良いのですよ。
「只管」とはどう言った意味なのでしょうか?
「只管」とは、「ただ」という事なのですよ。「ただ」読めばいいのです!

奥様のその「ただ読めば良い。」と言われた一言が、私を「今」により近づけて下さいました。
「そうだ! そうなのだ! 私はたった今の今迄、只読むだけに成っていたではないか!」
その事実に気付くと、とても心が軽くなり、お礼もそこそこに「只管工夫」、「いろは法語の主旨にもれず」と、次から次へと読み進んで行きました。

宗教とは

井上大智老尼著[三十余年の病床生活と禅の力]より

宗教と申しましても、何百というほど宗旨宗派が建っております。・・・・ここに、釈尊直系の大自然の上から論を進めて見たいと思います。
この宗教という言葉を現代の方に分かりよく申し上げますと、真理ということであります。よく真理の探求として世界的に称えられておりますが、これはすべて世界的文化の中心になっているからであります。
真理と申しますと、なんだか幽玄なような感じがしますが、読んで字のごとく真の理であります。
この真実の理を分かり良く申しますと、誠ということになります。なんでも物その物には、中心というものが自然に備っているものであります。丁度人間の中心は真でありまして、みなさんがよく用いられます真心です。
世の中すベてのものは、真理というものをことごとく備えていると同時に、実は離れられないのです。我々人間といたしましても同じことであります。自分自身にはなにも分らなくても、この尊い真理からは一歩も離れようがありません。こうした尊い真理を開くすべを知らないので、丁度宝のもちぐされをしている有り様です。

さて、時代の波は幾千万年と、一波の波は一波の波と次から次へ波紋を画いて、今日に至っていることであり、今日のこの波紋は又幾千万年と果てしなく、次から次へとうつり変わってまいります。
しかしこの波紋は海の水を離れてあるベきはずのものでもありません。
時代の波のまにまに生まれてくる人々も、大波乱の大波の時代もあれば、またさざ波の平和な時代もあります。これは時代時代のありさまで、いかなる時代に生まれましても、波の形に変遷こそあれ、海の水には変わりないのであります。・・・・

さて、この尊い真理は、釈尊以前から在ったのでありますが、これを知るすべもなく、又見出す人もなかったのであります。・・・・
釈尊は、インドのカビラ城の王子でありましたが、生老病死のこの必然の理の前に大いに悩まれました。
なぜ人は生まれたら年を取って老いて行かねばならないのか。
又病気もせねばならないのか。そして死んで行かねばならないのか。
この大きな四つの疑問の前に立たれたのであります。・・・・

王子の身であるから栄耀栄華は思いの侭であり、王妃には国内第一の美人、ヤスタラ妃をおもちになっていられましたが、この四つの疑問の為に、やがて自分自身もかくのごとくなるであろうと、日夜悶々として大変お悩みになりました。・・・・
ある夜ひそかに城を抜け出されまして、ヒマラヤ山にお入りになりました。丁度十九才のお年でありました。・・・・
のちにニレンゼン河のほとりで、一人静かに坐禅されたのであります。・・・・色々の魔が現れていることは、これは釈尊自身の心の悩みを形容して書き出してあるのでありまして、決して形に現れたものとは違います。要するに、心の悩みの離れがたいことを形容してあるにすぎません。

さて、真理はいつでもどこにでもあるのでありますから、わたしたち自身の心がこの真理のごとく静寂そのものになって、清浄な心になりますと、おのずから世の中の邪念のない心になり、自然に真理が真理に投入せざるを得ない、真理が生まれてくるのであります。丁度釈尊もあらゆる心の魔を征服されまして、シンシンとふけ行く夜半に心身ともに、静寂そのものになられました。
おりから暁天の星を一目ごらんになられた瞬間に星と一つになられたのであります。そうしていままでの辛かった苦しかった四つの生老病死もここに解決あそばされたのであります。
これが即ち仏教の起源となるのであります。

この星と自分とのへダテの取れた上から、一切の物を御覧になって、大変驚かれました。世の中のありとあらゆる物は何一つヘダタッタものはない。このヘダテのない上から見れば皆我がものである。小さい自分を立てていたからヘダテを造り迷っていたのである。
一切はすべて宇宙的ではないか、なんと不思議なことであると、一人感心せられ、そうしてなお七日間、心静かに思いにふけられました。・・・・
星と自分とへダテのない世界を発見して、そのヘダテのない目で一切をみてミナ相手ながらへダテのない世界であると知ったのだ。
一度はこのヘダテのない世界を徹見しなければ、見えないであろう、又わからないであろうと、お考えになって、これから縁に応じて説法を始められたのであります。
そうして諸国を四十九年間も説法してまわられました。これが、八万四千の法門となって現在も世に残っているお経であります。
いよいよ最後の説法に、今まで色々と講釈をしてきたが、これは月を教えるまでの指に過ぎないのである。じつは一字も説かなかった。否説けなかったのである。そこで、みんなも自分が踏んで来たように坐禅して、本当の味を味わってくれよと申されました。・・・・

世はまさに科学時代宇宙時代となったのであります。
やがて地球内の問題は、ささたることになるでしょう。そうして宇宙のなかの月や、星の世界と交通が始まるかもしれません。それほど世の中は進歩しているのであります。
人類がこせこせしていることは、もはや取るに足らないことになりはしませんでしょうか。
又生あるものは必ず滅する必然的真理の前に、幾億万年の後には、この地球も必ず破滅の時が来るのであります。
太陽にしても、星にしても、月にしても、かかる必然の理はまぬがれぬことであります。これは大きく宇宙を眺めたときのお話です。又虫ケラの一つ一つ、あるいは顕微鏡で見なければ見えないものでも、この生死の因縁はまぬがれないのであります。

時間においても又そうです。一瞬一瞬の生死をくり返しながら、流れてやまぬ有り様です。この生死の因縁を泡にたとえましたら、良く分ります。水の上に泡がポツンと出来る、「生」。これがポツンと消える、「死」。実に明瞭なものではありませんか。

釈尊は宇宙は只人々の心から造り出しているのだと申していられます。そうしますとわれわれのこの個々の生命以外には実はないことになります。この生命の本質が宇宙を通して、生命と現れているのですから当然なことです。そこで釈尊のお言葉を信じ、この個々の生命以外に究める何物もないと決定されて、この心を究められましたなれば、生死問題及び一切の事柄は明瞭するのであります。ですから宗教とは命なり、あるいは生活なりと申すことが出来るのです。

そこで釈尊の踏まれました方法に依りまして、自覚いたしますと、宗教の本旨の偉大なることはもちろん、宇宙の絶大なることも、手に取るように明瞭いたします。これが生活の一点の上に一切万象の力をふくんでいるのですから、実に面白いではありませんか。

さて今日の世相をつらつら感じますと、どうも物質本位のように考えられます。何だか人間までが物質に成り下がっているようです。人間的情味がなくなりますと、畜生と同じように思われてまいります。よく人面獣心と申しますが、まさしくそういう感を深くいたします。親子の情も師弟の情も、物に依って左右されがちとなるようです。
金で買えない人間性のあることもよく考えて頂いて、人間的情緒生活を営んで行きたいものと思います。そうでないと人間的情緒が失われて、なんだか人生にうるおいがなく人間は機械となって丁度ロボットの世界になるようです。
どうしても釈尊の実践されましたように、われわれもこれを実行して一度はこの真理を究めて情緒的交流がなければならないものです。

さてミナさん、如何にしてこの真理に徹するかということになりますが、これは、人々の願心に依るのであります。この願心を、生活の中にブチ込んで行くのでありますから、願心さえあれば、別にムツカシイ注文ではないのであります。
「大人は市にかくれ、小人は山にかくれる」と昔の人も申していますが、実に味わうべき言葉ではありませんか。・・・・
人として、自然の姿の本質を体得せられまして、一切すべての物を我がものとして、世界的な立派な人と成って頂きたいと願うのであります。この大きな抱負が日々の生活の一点から生ずるのですから、実に愉快ではありませんか。
さてこの一点とは何でしよう。
これは日々の見ること、聞くこと、食事をすること、大小便することなのであります。このあるがままの平凡の一点は、心の現れで、これ以外には、着眼点はないのであります。よくよく自分の日常生活の姿を考えてごらんなさい。

泣くかと思うと、笑い出し、寝るかと思うと起き出して、顔を洗い、御飯を頂く、学校に行く、或は会社に行く、次から次に、活動してやまないではありませんか。この活動してやまないものは、何でしょう? ただ心の動きに過ぎないではありませんか。
そうしてみるとこの心の動きを中心に、動くその物になるより外に方法はないのであります。
竹は竹を通して竹の性を知り、松は松を通して松の性を知り、人は人を通して人の性を知るのであって、そのものをぬきにして、そのものを知ることは絶対にできないことです。そうしてみると。この空とか無とかいうものは結果であり、味わいの上からいうてみるだけのことです。初めから、空なり無なりということは、宗教を汚すおそれがあります。

それぞれの性を知るには是非なすべきものに、成り切って行くことが大切です。この成り切るということは、ヘダテのないことで、たとえば、先生は生徒の心に成り切ってヘダテなく、又生徒は先生の気持ちに成り切ってヘダテなく行く有り様です。職場に在る時は、その職場に全身を、ブチ込んで職業と自分とへダテなくやる。これを成り切ると申すのです。
これが即ち全身これ、まことを持って、宗教生活を営んでいることになるのです。又そうあらねばならない自然の姿です。これは、われわれ人間を通して、大自然の道に目ざめられる直道で実に尊いことなのです。
善いことをすれば理屈なしに、なんとなく嬉しい、又悪いことをすれば、理屈なしに苦しい。この自然の前に、自らの責め苦は心ある者の、味わえるものではありませんか。たとえガンゼない赤ちゃんでも、つめれば痛いので泣くではありませんか。さすれば、よろこんで笑うではありませんか。自然の善悪は教えなくとも、ちゃんと知っています。これ即ち天与の賜でなくて何でしょう。

自分勝手、即ち身びいきする方向に歩みを進められるか。或るいは自分勝手な身びいきを捨てて、生来の希望の道に進んで、人生に貢献すべき方向に進まれるかが人としての分岐点と成るのです。
「まことは自然の道なり、これを行うは人の道なり」と、よく味わって世界的模範青年と成って頂きたいと、心から願ってやみません。
「耳に聞き心に思い修すときは、いつか真理に入るぞうれしき」
初めはよく聞いて、そうしてよくよく思いをこらして「よし我も人なり、やらずんばあるベからず」と決心されましたら修行にとりかかるのです。この決心が人をして人たらしめてくれるのです。
「只静かに座する」ことが一番よろしいのですが、初めから、なかなかそうは行きません。人は感情の器ですから、坐禅している間中、次から次と、感情が出て来て邪魔をします。釈尊が、あらゆる魔と戦われましたように、初めは誰にも出て来るものです。しかし釈尊のごとく、努力を払いましたならば必ず出なくなります。努力せずしてこれを望むことば無理です。

さて、どうしてもこの感情に負けますときは、起きて来る感情「何れよりか来る!」と、その感情の源に向かって切り込んで行きます。そうしますと、いつのまにか出なくなります。又出て来る。そのつど「これ何んぞ! これ何んぞ!」と繰り返しながら感情と戦って行きます。そうして戦いつづけて行きますと自然に出なくなります。面白い現象です。

一心不乱に時を重ねているうちに、おのずから座に親しみが出て参ります。そうなるとしめたものです。これを一心不乱に務めますと、自然に真理に徹するのであります。それまでの努力は人々の性質にも依りますが、大いに務めなければなりません。
この方法の出来ない人は、自分の呼吸を自然にまかせて調えます。これは「呼吸の単になる」のです。吸う時は吸うの単になり、吐く時は吐くの単になる、これを一心不乱にやるのです、我を忘れてやっておりますと、自然に呼吸が呼吸を教えてくれます。

読書禅

私はここまで読み進んだとき、自然に読むことに成り切っていたのです。自己の総てがただこの本の中に投入されていたのです。
今はもう何の感情も湧いて来ないのです。本の一字一字がハッキリと見えます。本から徐に目を離して当たりを見ます。書籍棚、窓、机、湯飲みそのいちいちがとても新鮮に一つ一つがハッキリとしているのです。
私は、思わず大きく一呼吸をし、吸い、吐き、吸い、吐きを繰り返し一歩、一歩と歩くのです。
「やった! やった! きっとこのことだ!
今まであんなにも苦しく、辛く悩んでいた一呼吸! 一歩! 見るもの全てがそのままに見える!
一呼吸は一呼吸。一歩は一歩。ただ成り切ることが出来るではないか!
この事だったのだ!
直ぐに座らなければ!」
今つかんだばかりの「今」を大事に大事に離さないように、禅堂に入り静かに座りました。

一呼吸 大きく吸い 吐き 吸い 吐き
何の抵抗もなく出来るのです。そこには何の意識もなく、「今に成らなくては」という感情もなく、ただあるのはこの「事実の一息」だけなのです。

何と静かな安らぎの世界でしょう!
これが、成り切った「今」なのであろうか! いや! 先生の言われる入り口程度だろう!
それが本当なら逃がしてなるものか!
今思えば正しく老尼の書かれたこの本に、只成り切って我知らずだったのでしょう。私の智恵も、知識も、常識も、感情も、感性も、何も役に立つことなく、却てそれらがジャマであリ、邪念の始りであったのです。それらがそのまま、この三日間私を苦しめ続け絶望のふちに追いやっていたとは!
只単純に、素直に、そのことに成り切る。呼吸の単になる。只静かに座る。今に成り切ることが出来るのです。
総ての事の起りは、何と言うことはない、自分自身か作り出している心の作用でしかなかったのです。ここまで整理出来ますと、もう私はお堂を走り出て奥様に今の心境を話しているのです。
奥様は終始笑顔で私の話を聞いておられます。
「よかったですね! 入り口ががお分りに成ったのですね! 明日方丈が帰りますので、今夜もしっかり練っておかれたらいいですね。」
あまりの嬉しさに、急に動き、話したためでしょうか、次第に「今」が逃げてしまいそうです。
「これはいけない!」奥様にお礼もそこそこにして急いでお堂に入り、「今」を確かめるべく座に着きます。
自然の呼吸、一息、一息、大きくゆっくり吸う、吐く。
「今」にピッタリ帰ることができるのです。今夜はとても眠ってしまうことが出来ず、一晩中座ったり、歩いたりして、「只の今」を逃がすことなく、一心不乱に成り切る努力をしたのです。

お堂の外では、相変わらず猫と鈴の連呼ですが、もう今の私は大丈夫なのです。鳴き声は鳴き声として、心は動じません。イメージもありません。鈴の音は、只鈴の音なのです。何処から聞こえようとそんな事は少しも関係ないのです。
今有るこの一歩は、この一歩だけなのですから!
今有るこの一息は、この一息なのです。
小鳥たちのサエズリも今朝は全く違うのです。小鳥たちのイメージもありません。只気持ちの良い声だけがしているのです。私自身が「声」に成り「声」ばかりなのです。

お堂を開け外に出ました。
何と表現すればいいのでしょう! あれほど帰りたく執着して私を離さなかったこの景色!
今はキラキラ輝く新鮮な景色ではないですか!
それどころか、目の前に広がる景色と、私とが一体と成って何のへダテもありません。
それは丁度心の結びが取れた今、総てが一体と成って私、全自己をおおっているからでしょう。空を舞うトンビ、電線に羽を休めるツバメ、屋根で庭で餌をついばむスズメ達、遠くに輝く瀬戸内の海、島々、町の家々のたたずまい。自然のいちいちが何の疑問も引っ掛かりもなく、一体感充実感が静かに私を包んでいるのです。
私は今ここにこうして確かに生きている、自然のいちいち総てが確かに生きている。只、只感謝の気持ちに包まれていました。
自他一如とは、このような心を言うのでしょうか!
「心はコロコロ変るから心という・・・・」先生のこの言葉がぶと、「全くそうだ」と納得できて思わずふき出したのです。

昼前に待ちに待った先生が帰って来られました。私は一刻も速く先生に会いたい気持ちで一杯です。先生はニコニコして私の前に現れ、
「今の心境はどうですか?」と言われながら、お堂の縁に座り、この世界に生れ出たことを話して下さるのです。

「小積さん、この身を受けるということがどんな重大な因縁を持っているか分かりますか。
真理を得る為に人間に生まれて来たのですよ。
どういうことかと言うと、聞いて、思索して、判断する、そして最も大切な事を求め選択する事ができるのは万物の霊長たる人間だけなのです。
真理を得んが為には、どうしても人間に生まれて来て、何が真理かをよく聞き、よく考えて、判断する。そして確かにこれが真理であるということが分かったらそれを選択し求めなければ絶対に得ることは出来ないのだよ。
そして、人間誰でもこの力は十分に備えて生まれているのですよ。備えていなければこの体を授けてもらう事が許されないのだ。それは人間として生けていけないから。つまり世界が違うから、そんな自分に最も相応しい縁に触れた所へ出現することになる。人間以外の世界に生まれると言うことだ。
だから、人間に生まれると言うことがどれ程困難な事か分かるだろう。その事だけでも一大事因縁なのだ。分かるだろう、小積さん!
折角そうした受け難い人身を受けて、総てを豊かに備えても、その豊かなる力をあたらこの身の為のみに使われてしまうと、より真実へ、より普遍的安楽へ、より多くの人々と幸せにと言う働きにならないのだ。
又、希にネハンを得たいと願っても、その為の真の法を聞くことは更に困難な事なのだよ。
よしんば、そんな師に出会って法を聞く事が出来たとしても、世間の大事を捨てて仏法の一大事を選ぶ事は又々困難な事なのだ。
今この身の安泰を願うは人間同じであっても、その為に努力をせずただ楽を求め、やがて空しく時過ぎて老い、苦悩して滅び行く我が身の恐ろしさを知ると言えども、忽ちに今の快楽に落ちる。
今本当の安楽を願う者は忽ちの快楽を願ういとま無く、只真実の法を求め、今忽ちに真実たらんと願って今を行ずるのである。
これを持って人の来世を見れば、その人の行く末明かなりじゃ。・・・・」不思議な涙でした。

作務禅

この海蔵寺に来て四日目の朝を迎えました。
「小積さん、今日から、掃除など始めなさい。」と、帰られたばかりの先生は少し単純になった私を見て喜ばれ、動きの修行をするようには示されました。
「拭く時は、只拭く時。掃く時は、只掃くだけ。」だと言われます。
この事はいちいちの瞬時瞬間を、只その物に成り切る着眼であり工夫なのだと教えられました。
草々にこのお堂から拭くことにしました。右から左へと手を運びます。
一拭き、一拭きが今その物なのです。
一拭きは、一拭き。右も左もない一拭きなのです。
右だ左だなんて考えてしまうようでは、本来の「今」ではないのです。そんな隙間はそれ自体にはないのです。その事が実に良く分かるのです、かつて奥様が、次のような話しをして下さったことがあります。

「長い長いあぜ道の草刈をしなさい、と言われて、これは大変だ! と思いながら作業に取り掛かります。少し時間がたった頃後を振り返り、なんだ未だこれぐらいしか刈っていないのか、と今度は先を見てしまいます。
まだまだその先は青々とした草に覆われていますのを見るにつけ、段々と気持ちはいらだち一向にはかどらない仕事にヤルキを無くしてしまうのです。
そんな自分の隙だらけに直ぐ気がつき、心を単調にして只その事だけになりました。
今手元の一刈り、一刈りにさえ成ればいいのですよ!
[今]には後先きなど無いのですよ、小積さん!」

その頃の私には、分かろう筈もありません。「ハアーそんなもんですか?」と理解も出来ずに聞いていました。でも、今は違います。今の私にはすっかり納得出来るのです。
だって「今」のこの一拭きも、一刈りも同じで有ること。過去、現在、未来、を含んでいることもよく解かるのです。

しかし、過去を悔やみ、過去におぼれ、現在に怠慢し、未来に夢見て、「今」を忘れていて。何と言う悲劇の人生でしょうか。つい四日前の私が正しくそうだったのですから、この一拭き、一拭きが「今そのもの」なのですから!
この驚き、この感謝をより多くの人に知らせなくては!
私一人のものでは無い!
人間である以上誰でもが得る事の出来る世界なのだ! と次第に勇気が湧いて来るのです。
一拭きの後は本堂を掃きます。この一掃きも同じです。本当に一掃き、一掃きが、出来ます。ホウキという意識も、掃くという意識も有りません。只一掃きが有るだけなのです。理屈の世界ではなく、「只単の一掃き、その事だけ」の今なのです。その物に成り切る。そうです。ホウキと一体と成っているのです。ホウキその物に成って居るのです。
先生が庭から手招きして、私を呼んで居られます。

「小積さん、ちょっと庭に出てきなさい。」
私は何の抵抗もなく呼ばれるままに直に下ります。五月の空、日本晴れの空です、空には雲一つ無く、とても奇麗です。私は思わず、
「わあー! 何と言う奇麗な空なのだ!」
と思わず声を出して感嘆した次の瞬間、先生の手にした竹ボウキの柄が、私の頭を一撃して居たのです。
「きれいとは何か!」
・・・・?
「何が奇麗と言わせるのだ!」
・・・・?
「そのものと隔たっているから形容詞が引っ付くのだ!
今は自我を殺すことが目的なのだから形容詞即ち念を用いてはならぬ。自我を殺すとは超越することで、認識作用、判断作用などの知的作用や喜怒哀楽の感情作用を一度は殺し切って木石のごとくロボットになって我を忘れ切らねば本来の様子を自覚することは出来ぬ。
解かったか!」
答えるどころか不動金縛りに合ってこちこちでした。
「ただ、有るが侭。本来一体ではないか! 何も無ければ!
分かったか!」
と大きな目をより大きく見開き、両手を空に向かって「わあっ!」と声にもならない小さな声で、空と一体と成っているしぐさで笑って、私にもやってみよ、と言われているようです。
先程のホウキの一撃で、「雲一つ無く、とても奇麗な空だ!」なんて形容した感情も何処かに飛んで行き、ただ見るばかりです。心は雲も無く自己も無く空も無く先生も無く、ただ何となく・・・・・
ホウキその物に成り切った一掃き、右も左も無く只一掃き、一掃きの今その物に成り切った今。しかし、時、所、位が変れば即感情に流されてしまうのです。そのような私の心の動き、感情の起こりばなを無視したらだめだぞ、と的確に指摘して下さったのです。
[本当の我が師を得たり!]
僅かこの一週間の坐褝でかくも私を高め、「今」らしきものに目覚めさせてもらえるとは!
只、只感謝あるのみです!
坐禅と言えばお寺の子息、それも専門分野で、プロを目指す人のみが出来得る世界の事としていたので、坐禅を本格的にやろうと思えば、それこそ家を捨て、子供家族を捨てて頭を丸め、修行僧として覚悟しなければ出来ないと思っていたのです。
そのような妄想はもう今の私には有りません。誰にでも出来るのです。菩提心を強くして、道を求める心がより深く有れば。

すっかり落ち着き、目にも耳にも、そして思ってもさらっとして切れがたいへん良いのです、又いちいちが皆美しいものばかりです。心が在るが侭になると総てに抵抗が無いのです。
大きくて尊い、言い表わし様の無い心。在るのは不思議な程の落ち着きと安らぎ、そして形なき満たされた心と皆に分けて上げたい感謝の様な豊かさです。

最も不思議な事は、「自分が居なかったら会社が困るだろう」という自負心がすっかり消失して、その代わりここに居て、会社の様子が逐一皆解かるのです。一人一人の特徴性格動きの癖、表情まで見えるのです。それでいて懐かしさとか人恋しさと言った感情は起こらないのです。
例処までも無心にただ思うだけです。思おうとすることを止めると、何もかも奇麗に消えて跡形もないのです。

下山

いよいよ下山の時が来ました。あれほど迄に狂い、一刻も速く逃げ出してしまいたい私でした。しかし、今は全く違っています。汚れた水がようやく澄みきり、心の安らぎを得たこの先生から離れて行くことが悲しくさえあり、何時までも海蔵寺に居たい。この平和な安らぎの中で、もっともっと真実の「今」を見つめて行きたい。
出来る事ならこのまま僧侶にでも成りたい。でも現実には、私の生活が待ち構えて居るのです。下山しなくては成りません。

この七日間、テレビを見ることも新聞を読む事も有りませんでした。しかし、そのような世間の情報もここでは何の役にも立つことなく、全く必要のないぎりぎり一杯の真実の世界を求める時、我々は如何に多くの情報に翻弄されていたかが分かったのです。心の静けさこそ、今日これからの最も必要な力だと思うのです。
むしろ情報化社会の中にドッブリと浸かって生活している現代人として、その事が一人の人間形成にどれ程に役立つのでしょうか?
情報化社会、それはあらゆる社会生活の分野に必要かつ、重要な位置を担っている事実は否定出来ません。最も危険なことは、情報にならされて仕舞うことです。社会の動きは人類が続く限り続く事で、終局の無いドラマです。そのドラマは、人間の欲望と理想と、真実と噂と、喜怒哀楽と努力と、怠慢と、結局は、そうしたなし崩しに建設と破壊を繰り替えして居る社会の動きの一コマが、情報となっているだけです。
それらに付いて回るうちに自分の座標を見失い、本当の自己は何処に有るのか分からなくなってしまうのです。
自己開眼の確かな方法を得た今、情報の持つ本質を見極め処理出来ることは只「不動の単」になることなのです。

海蔵寺での最期の食事が始まりました。先生と奥様、私の三人で初めて戴く食事です。
「小積さん、実に惜しいなあ! 実に残念だ! もうしばらく、そうだ、もう二、三週間修行したら、もっともっと「今の事実」を練ることが楽に出来るようになるだろうし、ずっと深まりいい心境を得る事が出来ようものを。」
と先生は心から残念がられるのです。今の私も先生の元から離れることは即、着眼工夫を見失うことになります。私もこの今の心境のままで何時までも在りたいのです。下山することは私にとって大海原に出て行く心境なのです。果たして大海原での着眼工夫をどのようにすればいいのでしょうか?
「小積さん一歩寺から下りても、一歩は一歩なのだよ。
一歩は何処まで行っても、一歩でしかない。
確かな、ただ一歩で有れば良い!
しかし、多分そうはいかないだろう、たちまちの内に「今」を見失う事になるだろう、三十分、一時間もてば良い方だよ。
総て相対の動きの中で、絶対の今を守る、つまり単々と、為すべき事をただやって行くということは至難な事だよ。」

恐らく先生の言われる通りになるであろう自分が、情けなく悲しくなるのです。
合掌の内に先生に、奥様に心からお礼を申し上げ山門を後にしました。
一歩、一歩を確実にゆっくりと一歩を確かめつつ、約五十歩位下った時、前方から親しい方がやって来ます。その姿に私の今はたちまちにして何処かに飛んで行ってしまったのです。
「小積さん久しぶりですね!」
「今日はお仕事はお休みなのですか?」
ごく普通の挨拶なのに今の私は、只返す言葉もなく力なく笑って会釈し、一刻も早くその場から逃出したい気持ちに成って居るのです。一言、二言の会話にかくも心が乱れ今が逃げ失せて仕舞うとは。
「今」が逃げる、「今」が無い、折角掴んだ着眼の急所の今が無い!
慌てて一歩、一歩に全神経を集中させ、
「もう何処も見ない事にしよう、家にたどり着くまでは、只一歩、一歩の足元だけを見ることにしよう。着眼の急所がかくも純粋で大事なものか、それを乱す観念の癖の強いこと。只一歩だけだ!」

玄関に入ると、家族の皆がいぶかしげに迎えてくれるのが良く分かるのです。私の表情は笑顔も無く、ただ「ただいま」と一言を残し、草々に仏間へ閉じこもりました。そこは、我が家で誰にも邪魔されない空間だったからです。
「今」を逃して成るものか! という「今」のとりこになっている私は、かつての苦しかった三日間の私が今又此に有るのです。日常生活での禅、正しく私の日常禅が始まろうとしているのです。
「禅は禅堂だけにあらずして、何時でも何処でも今即禅修行である。
その事だけに成り切ることである。その努力が修行である。」

先生の声が今の私を奮い立たせるのです。そうです、真実でない世界は何処にもないのですから。
「あるがままの平凡の一点は、心の現れで、これ以外には、着眼点はない」老尼のお言葉です。又
「心の動きを中心に、動くその物になるより外に方法はない」

今の私には、どれを取っても新たな出会いなのです。この瞬時瞬間の出会いのいちいちが着眼工夫なのです。しかし、またまた感情が優先してしまうのです。どの様にすれば、日常での目まぐるしく変り行く環境のなかで、心を一点に「今」に成り切る事ができるのでしょうか。

もしも、日常生活の中で「今」を見失い、見放してしまったならば、それは只坐禅を経験したに過ぎず、返って大きな我見の人となるでしょうし、人としての向上はあり得ない筈です。
安らぎの「今」、素晴らしい「今」は禅堂だけの物ではない。
日常の中にこそ「今、禅」を得なければ!

要点を見失うとすぐに先生の元に行き指導を受けます。先生はそんな私に、
「小積さん只、素直に、単純に、あるがままにただある。これが日常禅の着眼工夫なのですよ。それが修行ですよ。その努力が何時でも何処でも坐禅していることなのです。
常に初心にかえって座る事が「今」に成り切る最短にして最大の道なのだよ。
又、本当に道を求める人で無ければ、ここの禅には付いて来れない。」
と言われます。私も心からそうだと思うのです。

私は山門に少し、ほんの少しだけ足を踏み入れた程の、修行の方法が手に入ったか入らないか程度に過ぎないのです。しかし、日常がひどく楽になり単純化し一元化して来ているのです。
禅堂で得た「今」は禅堂だけのものとして、日常生活で生かす事の出来ない、努力心の無い人はここ海蔵寺の山門へはそれこそ「入るべからず」の人なのです。しかし、努力心を起こし向上心を燃やして求める人には、何時でもここ海蔵寺の山門は開いて居るのです。
今や流行のように禅が語られ、禅道場が大繁盛しています。
しかしどのように立派な指導を受けても、結局は自分の事ですから、自分を徹底掘りおこし、自我の正体を解明させていく方法でないかぎり、本当の禅にはならないのです。
言ってみれば、禅は本来の自己に目覚める事です。つまり色々方法が有るように見えても、その中心とするものは唯一つ、「成り切る、徹する」事にあるのです。
「ナムアミダブツ」「ナムメョウホウレンゲキョウ」そして一般の読経、何れも皆こちらの自我、自力、生身の自分を捨てていく。そのための導きであり方法手段であるのです。従って一心不乱に唱え、成り切らねば意味がありません。
そうなることに依って我を忘れ、既成概念を破る事が出来、真実の今の姿に目覚める事が可能となるのです。三年を経ての今日、総てが集約された世界が見えてきてこの事が分かったのです。

今への執念

七日間の坐禅に依って雑念以前の自己そのものが蘇り、あの素晴らしく心安らいだ「有るがままの世界」入り口に達した時、初めて自分の心に出会う事が出来た様な気がしました。しかし、それは「只心の拡散が治まったに過ぎない」と言われました。
心乱れる事無く何処までも静かに只在る部分と、生活に振り回されて「今」を見失い、瞬間、瞬間の出会いに感情ばかりが先行して、坐禅する以前の自分に戻ってしまっている部分とが同居しているのです。
先生はだからここを「本当の有るが侭の今」だとは決して言われないのです。乱れるという事は「成り切っていない」ことであり、煩悩の元である我見が完全な状態で、心を牛耳って居ると言うことなのですから。

そんな私は「今、只静かに在る心」をたよりに、激動し続ける悪なる心と一騎討ちを続けているのです。その為「今」を探し求め、満身創傷の中であえいでいるのです。
辛く苦しい為に心安らぐ「今」を夢見て、焦れば焦る程「今」を見失い、日常生活に於ける禅の着眼工夫の糸口さえ掴む事も出来ず只、只涙するばかりとなりました。

あの七日間で体得したはずの素晴らしく静寂な心の安らぎ。
それはあるがままの「今」。
見るは見るだけの「今」。
聞くは聞くだけの「今」。
一切その物に成り切った「今」。
瀬戸内のキラキラ輝くあの海。
庭の松の葉の一本一本の輝き。
戯れ遊ぶ小鳥達。
空は何処までも青く、総てに振り注ぐ太陽。
それら一切の輝く命。
形や姿は異なっても、只一つ。
総て平等にして、同一に。
只、只感謝の私だったのです。
そして
生れ出たばかりの素晴らしい世界をチラッと知ってしまったこの私。
しかし、しかし現実の実生活の中でこうも簡単に見失ってしまうとは!
私の「今」は何処へ行ってしまったのだ!
先生は言われます。

「自我が本当に切れていないからだ。本物で無い証拠よ。」
「在るがままに、成り切る努力よ!」
「在るがままに、成り切れば良い!」
「時間の許す限り座れば良い一。」
「今で無い世界が何処にあると言うのだ!」
「既にちゃんと今はあるではないか!」
「なのに他に向かって今を探し求めるとは!」
「坐禅は誰がしているのだ!」

坐禅は私がしているのでしょうか?
いいえ違います。
坐禅は坐禅なのです。只、坐禅が坐禅しているのです。
すると、この師の元で出来ることが、何故に日常の生活でうまく行かないのでしょう!
海蔵寺の環境のなせる業とでも言うのブしょうか?
いいえ違います。環境は何処まで行っても環境なのですから。とすれば一体何なのでしょうか?
瞬時、瞬間留る所知らず次々変る出会いの連続の中で、尚且つ「只一点の今」を守らなくては、と言う心のあせりや思いが私を支配し、やがて「今」を守る気力も消え失せてしまい、感情のるつぼにどっぷりとつかってしまっているからです。

禅堂に於いて、ことごとく出て来る感情、妄想を切り捨て退治したかに見えた「今」、その事は正しく、「あの時の今だけ」に過ぎなかったのです。常の今はまさしく「今だけの今」でしか無いのです。禅堂のあの「今」は過去以外の何物でもないのです。
結局は日常の生活に於ける着眼工夫を、如何にすべきかに着目しなくては何ともなりません。それは師の言われる「今、なす事に成り切る工夫」しかないのです。とにかく頭で考える事ではない!

「あるがまま、只素直に」なる努力。事実を事実として、只素直に事実に身も心も任せるのみ。感情も、思いも、願いも、憶測も、事実には何の関わりもない。
事実以外に無い「今」を別に探し求めて苦しみ、そんな「今」のとりこになるよりも、「何もかも投出してしまう勇気」に気が付いたのは実社会に戻ってさんざん苦しんだ後のことでした。「勇気ある努力」が無いから「今」のとりこになって苦しんでいたのです。

聞きたく無い事も沢山有る、知りたく無いことも沢山有る、見たく無いことも沢山有る。しかし、事実からは逃れることなぞ不可能だと決心して、「心に持ち込む事をしない工夫」を始めて、それから心が軽く成り楽に成って行ったのです。
その方法はと言えば何ということは無い、「只聞くだけに、只見るだけに、只有るがままを知る。只、只努力心あるのみ。只勇気あるのみ」なのです。
自分を捨てて素直になる。これが日常禅に於ける最も大事な着眼であったのです。常に念の起こる元を急所としてそこを見失わない努力、厳しく雑念を切り捨ててすぐにそこへ立ち戻ることです。

また性格が、坐禅に依って根本から無くなったりする事など有りませんが、卑しさが取れ、豊かさが具わり、感謝の念が現れて来るとどんな性格であろうと関係無く皆尊く美しい人なのです。
裏切りも無く、裏表も無く、自惚れも無く、人の心を傷付ける事も無く・・・・誰が信ぜずにおりましょう。

やっと山門に足を一歩踏み入れたに過ぎない私ですが、それらの事が皆見えてきたのです。とにかく日を重ねるに従ってはっきりしてきたのです。見るもの聞くものに心騒き、その癖今しかない事実の確かな存在を知った力と努力が、少しずつですが手元がはっきりしつつあるのです。

そんな最中、我々の業界の研修があって、広島市の素晴らしい大店舗を見学に行きました。勿論過去何度もこうした研修をして来ましたが、「自分の世界ではお話にならない物、夢の大店舗」の感ばかりして、ただの羨望でしか見れなかったのです。
ところが全く不思議な事に、ただ単々と何の感情も既成概念も無く目に任せて見ると、勿論見る所のものしか無く、その上そこへ完全に心が行っているので総ての様子が丸見えなのです。
「陳列の配色が今一歩、並べ方に気配りが不足しているから垢抜けた感じが出ていない。人員配置に無駄がある・・・・」
私は何時の間にか経営者として、その店の在り方を見ていたのです。
「もっとお客様本位に立って喜んで貰える店作りが出来るし、小さい店の気配りで大型店舗に競合出来る。」私は商売の因果を考えるともなく、それも何心無しに見えて更に余力が有るので大変驚いたのです。

時面白くしたもので、そんな事があって間もなく、三原市の或るスーパーが我が社に経営を持込まれました。私には何も専門学的知識や判断はいりませんでした。即開店の準備に掛かり、間もなく開店しました。私が密かに読んだ初日来店者予測数の一名がはずれた外は、思惑通りに運んだのです。
そこが軌道に乗り掛かった頃、又々スーパーの経営依頼が持ち込まれて来たのです。

私は自分の運命が、開発的荒波に生涯を置く星に有るのではないかと思ったのです。そしてその事が迷いも苦痛も無く、生来の積極性にとんだ自分には如何にも似つかわしいとさえ感じたのです。再び出店の準備に取り掛かり、予定通り開店したのです。
しかし、これは大失敗でした。失敗の原因は、商売道を忘れて宗教者的に何の疑うことも、検討点検することもなく、すっかり信じ切って相手の言うままになったためでした。
打開するとなると、相手の持つ一方的な優位性を崩さなければなりません。当然それは格好よく物分かりの良さから一転して、誰しも嫌いな戦いとなり、信よりも思い遣りよりも義理よりも、ただ損得利害掛け引きで争わねばなりません。これは純なる法に生きようとする自分には、大変苦しみ迷うところでした。
私はこんな世間事を我が師に聞くことさえも筋違いであり、はばかっていたのです。が道に叶っているか背いているかは重大な事だったので、不本意ながらお聞きしました。師は、
「喜びの時は素直に喜び、悲しみの時はただ悲しみ、大事に会った時はそれのように対するのが法であるし、戦いの時は戦うのが道である。病の時、それに合った薬を用いるように、自我の無い心で只誠を尽くしていて色々出会う事の中には、戦うという薬も教え方もあるのだ。
自我なくして良かれと思う道のみを見て、戦いを見ない事だ。只戦えばよい。道に自我はないからその縁が終わったら、又何事も無い自然になる。これが道の尊いところである。」
と明快な法をお聞きしました。
早速努力して、お陰でようやく常識の線にまでこぎ付ける事が出来ました。法という特別神聖なものを持ち、美しく格好よく、おおらかにあることこそ法であり道であると思っていたのです。今が道なら、災難に会った時はそれに素直にただ対応していく、これが法だったのです。刃物を持って襲いかかって来られたら、それに素直に対応してこそ道だったのです。
やはり頭での法は現実の力にはなりませんでした。

これが軌道に乗り切らない内に更に又出店依頼が来たのです。人材の不足している現状ではとても不可能なので、考える迄も無く縁を持ちませんでした。
とにかく、こうした事には段階的に条件作りをしていくしか無いし、それが出来れば結果は自ずから成り、その限りでは何も特別な事をするのでは無く、当然必要な事を整えているに過ぎないのです。ですから心配などしている暇は無く、心配しなくていいように条件を整備するだけなのです。

全く不思議だったのは、その条件を整える為の手順が二段階にも三段階にも方法が見える為に「一体どうすれば良いのか?」と言うことは全く無く、常に次第の流れが見えて居たということです。余裕十分に対応出来たのです。
「私は目一杯動きつつ何もしていないので、何時も心理的座標が鮮明且つ安定」していたのです。ですから事の次第が手に取るごとく良く見えたのです。「今の情況を的確に把握」するというか見るというか、その目は「澄んだ心の目」でしか無いのです。必要な所をしっかり見る目、逆に言うと「不必要な無用な事に邪魔されない目、それだけを見る目」が有ったからです。

若し私が坐禅をしていなかったらその目は無かった事だし、当然段取りに迷いが有ったろうし余裕は無かった事でしょう。理想の手順がはっきりしていなかったに違い無い、それはそのまま自信や説得に欠けて銀行関係は駄目だったであろう。

こうして見てつくづく「心の大切さ重大さを再認識し、坐禅の偉大さを自覚」したのです。荒波にあってしかも平然と生活出来るということは大変幸せな事でした。
私は大袈裟に言えば、常に海蔵寺のご住職井上先生の御恩と仏法の偉大さに感謝して止まないのです。                           合掌

法我見 私の気付き

私を皮切りに、十楽先生、脇先生、永岡さんと次々に参禅して本当の工夫、本当に救われる修行の方法を得て行きました。その中に我が社の人材が幾人も居ります。一週間の到達点は大差無く殆ど同じ程度の心境です。
道場や海蔵寺に居る時、先生の前に居る時は皆心を空っぽにして何の構えも無く、本当に素直で自然なのですが、法の世界を離れ一般社会に入った途端そこは我見我欲で突っ張っている集まりなのですから、「自然体の只さらさら」とどうしてもやれない。
その上「自分は大変苦労して立派な心境になり、尊い世界を知っているのだ」という潜んでいる自負心がもろに出てしまうのです。悲しいことですが、努力心や方法を失ったら只の理屈屋でしかないのです。
ここの所、「自分は素晴らしい世界を経験した」という自信が何だか途轍もなく自信過剰にさせてしまうのです。それが又やることなすこと悉く自分だけの世界を作ってしまい、他を馬鹿にしているのです。それこそ我見のがりがりになってしまうのです。周囲に与える害毒は計り知れず、坐禅の法を甚だしく汚してしまうのです。
且つその重大さも意識することなしに、自分勝手な法の理屈を相手構わずふりかざして仕舞うのです。このみっともない、しかも鼻持ちならない高慢さは皆に嫌われ疎まれるのです。

さて、そう成って来ますと自分自身への反省も自己の内面をみつめる事も忘れてしまいます。そうなりますと、回りの総てに対し素直に耳を貸さなく成ります。ですからとても独善的になっていくのです。それはもう決して法の人ではありません。何の為の坐禅なのか解からなくなります。
こういう人は自分で自分をどうする事も出来ません。以前にも増して不安となり、焦りと過度な自尊心とで内面は目茶目茶になるのです。
「坐禅は良いですか?」と聞くと、恐れげも無く「あんなもの期待するほどのものなんか有りはせん。大した事はない!」などと口ばしる様にさえ成っていくようです。

ところが「今」への着眼を得た事を足掛かりに、日常努力している人は深く落ちついて淡々と行くばかりではなく、人柄もずんずんと美しく信頼度が増しているのです。道の人とはどこまでも自分を厳しく深く掘り下げる努力をする人で、決して他の人に向かって高慢心を持ったりは出来ないのです。

「坐禅に初めも終わりもない! ただ今だけだ! 努力だけだ!」我が師のこの言葉を良く良くかみしめて日常禅の着眼工夫をより明確に、より素直に実行し続ける事が第一だと思うのです。思えば下山して暫くは辛い日々でした。    ざん悔、ざん悔。

坐禅によって本当の「今」に生まれ出る方法を得た私は総てひっくるめて元々私だったのです。ですから坐禅によって特別の全く今までとは異なった新しい私が誕生したというような禅の認識は間違いであるということが分かりました。ですから偉くなったり高慢になったりすることは有り得ない筈なのです。
個人無くして世界が有るわけでは無いし、世界が有っての私であり、元々自他一体だという道理が良く分かります。要は私の性格、心の起こりが良く見えるようになり得て帰ったのですが、この程度では日常生活の中に入ると、瞬間の心の起こりが見えなく成ってしまうのです。あわてて「今」を探し求め、特別なことをしてしまうために[今の現実]が遠退き、逆に分からなくしているのです。何ともならないので、そのうち諦めてしまいますと元の我見に落込んで行くだけですから、絶対に参禅工夫をおろそかにするわけにはいかないのです。

かって私は、謙虚な心、思いやりの心、敬いの心、信頼する心、我慢する心、礼儀の姿、坐禅の前はこれらの心を常識として頭で考えて自己の顔、人格を形成していたのです。虚像に過ぎなかったそれこそが私の性格なのだと思い込んで居たのです。恥ずかしく、又情けなく、そうでは無かったのだと気付きました。
「頭で考えた心」なんて、これほど頼りない惨めな自分を作っていたのかと、素直に思うのです。
過去に良く「自分に素直に成らなくては、自分を大切にしなくては」と言い聞かせて来たものの、一体自己に素直に成ると言う事はどの様な心に成ることなのか?
自己を大切にすると言う事は、どの様に大切にすることなのか?
そんな疑問に対して、頭で、自分の常識で、知識で、それこそ何の裏付けも無しに勝手に決めつけていたものです。
しかし、そのつどそのつどの出会いのなかで、自分で作り上げた考え通りに振舞おうとしても、如何様にしても感情が先行してしまい、好き嫌い、建て前、本音が他のいかなる理性よりもはるかに優先してしまい何ともならないのです。ある時は闘争本能丸出しで、他に勝る、心地良さに満足し、そうした感情の渦に振り回され、喜怒哀楽の人生を歩んでいたのです。

しかし今は違います。「感情以前の有るがままの今」、面倒臭い手続きはもう必要無いのです。
「只聞き只見る。素直にただ応ずる努力が、日常禅の最も重要な修行」にほかならないし、事実は事実なのですから逃げようは有りません。
「只、只素直になる勇気と努力」あるのみです。これこそが修行であり求道なのだと思うし、過ちは過ちとして素直に謝る心こそ修行者の「いろは」だと思うのです。
嬉しい時には素直に喜び、悲しい時には素直に悲しむ、感謝の時には素直に感謝する心、早く本当にその人になりたいものです。
先生は「素直な心が素直を教えてくれる。本当にそのものに成るより方法はない。だから「今」を見失ってはいけません。決して頭や知識で考えた筋道、道理では無い。ただ自然の様子なのだ。法我見は自他を苦しめる最たるもの、絶対に持ってはならぬ!」と。

世法即仏法

子供社会を見るにつけ、家庭、地域、学校、私たち大人の社会が、一日も早く人間としての信頼、お互いを敬う尊敬の心に立ち返らなくてはと強く思うのです。これは「お互いが同等に価値ある存在である事の証し」であるし、何も大した事では無く極めて自然で当たり前な事として極めたい。
挨拶一つを見ても自己中心であるから、相手に挨拶をさせたいのだし、して貫わないと自我自尊心がずたずたになってしまうからでしょう。我見は本当に恐ろしい。
心に相手を抱き、相手に対して挨拶しているところに、自他の構えがいつも存在していて、その相手といつも戦っているのです。たかが挨拶一つするのでさえ心で戦って苦悶しているのです。何ともお粗末なことではありませんか。ただ自然に、自分の心のままにしておればそれで良いのですが、すぐに自我が出て相手を殊更に作るのです。

本当の自尊心は「自らも敬える尊い心、自ら愛し信じられる心」の筈です。人さまに敬って貰う事を暗に要求する心は乞食根性であり浅ましい哀れな心と言うべきか。自我を取り切らない限り、この心はどこかに潜んでいて、機を伺っている。たからそのために、人を云々することではなく、「自らの尊さ美しさを行動に現わし、何にも余分な念の無いそれを何時も確認」しておれば、惨めな心に振り回されないですむ筈です。
これが先生の言われる「動中の工夫即仏法、仏作仏行」でしょうか。やはり我を忘れて成り切る事に尽きるようです。

子供を取り巻く大人が現状のままで有る限り、決して魂の輝く人間に育つ筈はありません。良き社会作りはそのまま良き子供作りに成るのです。自我我見を捨てた自尊心を大きく育み、お互いの心を慈しみ合うなら、社会は何もしなくても良くなるのです。それが道理であるし道なのです。
そして勿論、家庭に有っては親は子供を信頼し子供は親を信頼する。親は親を敬愛する家庭。先祖、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、子供、この縦の本質は変りようも有りません。
この自然の有るがままの道理を大切にする。命の尊さ、尊厳と敬愛する心を教え導くのが家庭のなすべき責務なのです。その責任を感ずるところから自我を捨てて道を選び、自然の安らぎへと向上していくのです。

学校にあっては校長先生は教師を信頼し、教師は校長先生を信頼し生徒を信頼する。それでこそ生徒は先生を信頼し敬愛する心が育まれて行くでしょう。自我の主張の為に徒党を組み、私念の赴く侭に学校を操るなど、子供がただただ可哀想である。
信頼、思い遣り、国体の秩序を遵守、愛、理想、ゆとり、向上心、謙虚さ、品性、忍耐などの無い教師集団に、教育の殆どを任せる事は大変危険な事なので、先生は率先して大自然の様子を体得するために修行すべきである。

そうした先生に育まれる子等は、大自然と文化の恵みを一杯に受けて、心身の健やかな均整調和のよく取れた成長をすることでしょう。極自然に人間を信頼することが出来る事こそ不変の道であり理想でありテーマではないでしょうか。

世法即仏法、仏作仏行、動中の工夫、日常禅、生活禅、言葉は神々しい限りですが、「ただただ素直な心で今ある」ことに過ぎません。これが正しくあるが侭の道なのです。ですから「今」のとりこに成らなくても、探し求め無くても、ちゃんと「今、道」は有るのです。有るがままにただある時、自己の現在値、時、所、位、が歴然とします。その道にただ素直になせばいいという事です。

少林窟四世大智老尼のお言葉に、
「成せばなる、成さねば成らぬ成るものを、成らぬはなさぬ我が心なり。」
とおっしゃっておられます。よくよく心しなくてはと肝に銘じているこの頃です。

コロコロ変る心の歌

瞬時瞬間コロコロ変っていく心
心変れば感情も動く
理性、教養、知恵、知識、常識、我欲が顔を出す
我れが、我れがと修羅の筋書き
自己中心勝手気ままに走り出す
もう、そうなると止らない、自己の心が分からない
汚れの自己が分からない、分からないから止らない
五感で感じて感情のお負け
ヒッカキ回る自己だから、本当の自己が分からない
分からない自己だから
腹が立って怒り出す
怒り出したら治らない
恨み妬みが顔を出し
総ての事に腹が立つ
何もかもが見えなくなり
父だ母だ大人だと
見えない自己が叫び出し
なのにまともな顔をして
愛だ信頼だと、聞いたふうに喋り出す
喋り出したら止らない
そこは地獄の大海原
その愚かなる我が心
静めることの出来るのは
自分自身の心だけ
今の心の始まりは
幾千万年に続く今
この瞬時の今無くて
過去も未来もあろうべき
原因結果の自然律も、
本来本質も何も無い
あるは人間の形した、
草木石ころの類なり
やがてはかなく消えて行く
後は煩悩の残したる
数限りなき諸悪業
極楽浄土は望むべき
されど叶わずえん魔の裁き
行くは六道苦しき世界
いずれ総ては心の姿
生れ生れて時流れ
そして再び消えて行く
修行前の私です

瞬時の今のこの今は、未来永遠に続く今
私はようやく入り口に、一歩足を踏み入れた
入り口ばかりの私です
生れたばかりのこの世界
あるがままのこの世界
皆々今の中に居て
何が不足で他に求む
見聞覚知起居自在
師はいつも言われます
「やっと山門に来たばかり。」
「怠慢、高慢許さない。努力心、努力心」
努力心は菩提心

菩提心こそは守り神
正師に出会えた感謝は大
静かに我が身を浄化する
それは自己の菩提心
求めて初めて真実現わる
本気 本心 本腰 本音 本物 本願の本の今
幾ら読書や哲学も
心を知るは無理の無理
一心不乱を通り越し
皆仲良く同化して
初めて一つになった時
素直の極の心地良さ
それが本来の今なのだ
人間誕生その時から
誰にもチャント備えてる
汚れ知らずのピッカピカ
何もしないから分からない
幾ら豊かに有ろうとも
埋もれていては無いのと同じ
努力してこそ輝く光
皆な持ってる素敵な心
努力心こそ救い主

瞬時の今のこの今は
心の豊かさ湧きいでて、身も心も安らぎも
ピッカ、ピッカに光り出し、光り輝くこの光り
光りの元は今にあり、瞬時の今のこの今に
光り輝くこの光り、幾千幾万年もその上も
今の瞬時に限り無し
どんな環境にあろうとも、
瞬時の今は一つだけ
真実の今は変りなし
あれこれ思う心では
瞬時の今はどこかしこ
生まれたばかりで汚れ無き、今本来が分からない
コロコロ変る心さえ、心コロコロ分からない

道は数々有ろうとも、今一瞬は一つだけ
どの道、かの道通っても
自己の心は今、一つ
願心一つが宇宙を開く
人生豊かに渡ろうぞなれば
あれこれ思わず考えず
分からなくても道訪うならば
何を迷う、ひたすら座れ
ただ正師の元で座るべし
雑念煩悩色々出ても
構わずただ一息を丹念に
寝ても覚めても座っても
生きても死んでも離してはならぬ
今、一息に徹すべし
たたひたすらに行ずベし

信じて行なう者は皆
歓喜感謝思い遣り、自信にゆとりに自由な心
得た暁のその後も
初心のままに座るべし

月は天に、水冷ややかなりと合点しても
そんなもんにもかまってはならぬ
腰を下ろしたら本物は食えぬ
自我を本当に切り尽くすまでは
心くろがね火玉となって
燃えて尽きて花散って
初めて実となる仏の心
君にすすむ、実の人となれと
合掌

一九八六年七月十日 記



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