弟子 希道に説く
淅翁仏心禅師如�に示す法語
「本色の道流は十二時中、六根門頭空牢々地にして一面軒轅宝鏡の如し。胡来たれば胡を現じ、漢来たれば漢を現ず。なんぞ真如・涅槃・菩提・煩悩を選ばんや。しかのみならず世間の虚幻・情欲・逆順・是非・一々照破して、直にこれ汚染することを得ず。もしまた六根門頭僅かに繊毫の異念あらば、即ち、許多の障りとなり偽となり寃となり怨みとなり、七転八倒を得せしむ。凡聖の道はこれによって分る。しかも凡聖初めより両種なし。�居士曰く、これ聖人に非らず、了事の凡夫なりと。此れ之をいうなり。既に了を得ることを知らば、すなわちすべからく子細にすべし。目前に軽結裹着すべからず。箇裏まさに人の牙関を咬定し、且つきわめもち去るを見んと要すや。驀然としてきわめて懸崖に手をさっする処に到って、正に好し爐鞴に入って人の鉗鎚を受くるに。箇れを本色の道流と称するも分外となさず。忽爾として時縁に迫られ、出で来たって人の為に粘を解き縛を去り。内に亦恥じなく、自然に綽々として余裕有るなり。」
大智老尼 これは�隠老師が私をね、最後の結論を出さそうとして病気をおして書き送って下さったものじゃ。一隻眼を具していたので、�隠老師も私を何とか大成させようと一生懸命だった。一隻眼具した者にこれがいるんじゃ。あんたもこのとおりにやらなければ大成とは言われんのよ。これはよく示してある。読んで上げるから修行の指針にしなさい。
「淅翁仏心禅師如�に示す法語」
とあるね。一隻眼具したいい弟子が居たんだろうね。それで大成させようと悟後の修行のためにこれを示されたもんだろうね。いい師に就くと本当に救われるんだね。大成していない師だったら、ここから先が分からんから、何にも無いというそういうものが有って法を汚していることが分からんので、そこ止まりじゃ。本当の正法でないから自由底がない。それでこの仏心禅師が弟子のために、いや正法のために悟後の修行のゆるがせに出来ないところを示されたものでね、とても立派に端的を言い尽くしている。
「本色の道流は十二時中、六根門頭空牢々地にして一面軒轅宝鏡の如し」
とあるでしょう。本当の道の人はじゃね、十二時中、つまり昔の言い方かね、一日中という事。二十四時間じゃ。六根門頭とは般若心経にもあるね。眼・耳・鼻・舌・身・意で、我々の生活そのままが前後際断底でなくちゃならん。法がそうなんじゃ。「空牢々地」ちゅうのはその事。それをまた形を換えて形容して言うたものが「一面軒轅宝鏡の如し」じゃ。法のまま自己なく、縁に従い去っている様子よ。一面とは一枚の鏡ね。軒轅ちゅうのはなにかね、鏡を送った人の名前だったかな。鏡は自己のない自由の境界に例えて使うからね。それを尊いように「宝鏡の如し」と言われたところだね。本当に自己がなければ障りになるものはないでしょうが。心に問題が起こるということは自己がある証拠よ。分る分らんではないのよ。自己が起こるか起こらないか、本当にただやれるかやれないか。それが正法となるか、どうかの分れるところじゃ。
「胡来たれば胡を現じ、漢来たれば漢を現ず」
ただ縁のままじゃ。自己が無ければ隔てが無かろう。入我我入、自他不二じゃないか。無論跡形など無いわい。だったら初めから徹底捨てて、捨てていけばいいのよ。念をよ。
その捨てるべき念が見えなければいけんじゃろう。それで心身を捨てて掛かるのに最も適したものが坐禅じゃ。そうよ。だから祖師が坐禅をされ、また坐禅を勧めているんよ。
捨てる言うても一瞬の出来事だから、だから容易ではないのじゃ。即念に注意し、即今底に注意しなかったら本当の修行者ではないことになるね。他の者は道理で知ろうとする者ばかりじゃ。
「なんぞ真如・涅槃・菩提・煩悩を選ばんや」
と、ちゃんとあるでしょうが。相手をたてなければ衝突するものはない。自己がなければそうでしょう。これらは皆認めることから生まれる。元来こう言ったものは何も無いのじゃ。ただね、衆生を導くためには法としての秩序を教えなければならん。そのための道理として、無いものを立てて言わなければならんのよ。
何も無ければ真空でしょうが。自分が既に真如だったら、自分というものも、真如というものも無いでしょう。菩提とか煩悩とかいうものも無いのよ。とにかく自己を尽くし切ればいいんだ。
「しかのみならず世間の虚幻・情欲・逆順・是非・一々照破して、直にこれ汚染することを得ず」
そればかりではないぞと言われているよ。いいね。世間の虚幻とは嘘偽りかね、それらや情欲や逆順是非一々照破して落ちないじゃ。そしてこのまんま何も好まず求めずじゃ。だから汚染することはない。したら世間の人じゃ。一々その全てを照破して跡なしというところが体得底よ。これが我々の日常の本来じゃ。
希道方丈 一々と言うのは差別と見ていいんですか。
大智老尼 そうそう。差別が一々を照破する力があるんだ。差別そのものになり切れば自己がなくなるから本当の平等となり照破しているんじゃ。だから直にこれ汚染する事を得ず、汚す事はないと。
「もしまた六根門頭僅かに繊毫の異念あらば、即ち、許多の障りとなり偽となり寃となり怨みとなり、七転八倒を得せしむ」
というのは、見たり聞いたりするでしょう。本当にただ聞き、ただ見る力がなかったら念が動くでしょうが。ここが修行のいるところよ。繊毫の異念あらばとあるぞ。ね、チラッとでも動くものが、自己が残っていたら、さあ大変だぞということじゃ。偽りや恨みなど、心に諸々の問題を起こすということね。障りとなり恨みを起こす。そして、ここから七転八倒を得せしむと。苦しみ迷いが始まるぞと言うのじゃ。本当だよ。
「凡聖の道はこれによって分る」
お前ならよく分るでしょう。自己が在るかないか、これによって凡聖の様子が生まれ分れてくるとあるね。本当にただ在るか。念を僅かでも持ち出すか。本質のままかどうかだね。
「しかも凡聖初めより両種なし」
今度は道そのものを論ずるんでしょうよ。凡聖両種なしね。本質的に凡夫と聖人というように別に両種があるんでないと。いいね、自我の有無、ただそれだけで凡聖となるんじゃ。この事をこれから言うのじゃないかな。
「ただ是れ、一箇了事の人、了ずる底、呼んで聖となす」
ほらね。それを了じた人を聖人となし。
「不了は即ちこれ凡夫なり」
まだ悟っていないものを仮に凡夫と言うと。目が覚めているかいないか、自我の有無によるということじゃ。
「�居士曰く、これ聖人に非らず、了事の凡夫なりと。此れ之をいうなり」
�居士が言うには、聖人など特別な事ではない、ただ悟った凡夫のことじゃと。今この事を言っているので、それを仮に聖人と尊敬して名付けていると言うんじゃ。�居士は馬祖下だったか爲山下だったか・・・忘れたが、師の命で薬山の処へ使いに行って、薬山は悟ってない十人の弟子に見送らせたね。降ってきた雪を因縁に�居士が彼等を試みて大説法をしたんだ。なかなか見事に痛快にやったね。あの居士のことよ。彼には死ぬ時にもおもしろい逸話があるよ。
「既に了を得ることを知らば、すなわちすべからく子細にすべし」
法に目覚めて真相が解ったものは、そこで腰をかけずに子細に悟後の修行を怠らぬようにと、ね。古人もちゃんと大事なところを注意してくれているでしょうが。
「目前に軽結裹着すべからず」
と、目の前の一々にね、ケイケツカチャク言うのは、僅かでも捕らわれて引っ付くね。目前の物事にいちいち引っ掛かることがあったら本物ではないということね。どこまでも単を練り、捕らわれてはならないということじゃ。
「箇裏まさに人の牙関を咬定し、且つきわめもち去るを見んと要すや」
コリというのは仏法の事、悟りの事、今この事。牙関は我見を釣り上げる牙や関所みたいなものじゃ。公案と見てもいい。咬定はかみ砕いてさっぱりしたところじゃ。本当に我見のない窮め尽くした人になってみたくはないかと言うんじゃ。
「驀然としてきわめて懸崖に手をさっする処に到って、正に好し爐鞴に入って人の鉗鎚を受けるに」
驀然としてと言うのは、まっしぐら、命懸けで邪魔するものもないぎりぎりの処じゃ。そうならなければ本当の世界は手に入らぬ。いいね。そうしたら高い崖にぶら下がって手を放してみよと。そうすると自然に我見が落ちるじゃ。ここまで来たらもうしめたものじゃ。人のロハイとはとても厳しい処で、そうした師家の元へ行って、しっかり鍛えられれば必ず仏祖となるというのじゃ。
「箇れを本色の道流と称するも分外となさず」
とね。かくして本当の道人と言うけれども、それを特別のものとするんじゃないと、ね。自分のことを自分で知るだけだから、当然の事をしたまでよ。自己が無ければ日常底道そのもので、特別に道とすべきものさえないでしょう。だから本当に尽くし切らなければ本当の道は分からんのよ。
「忽爾として時縁に迫られて、出で来たって人の為に粘を解き縛を去り」
それでも尚、何もない処を深く練っての日常で行くんだ。大燈国師が言う「仏祖際断して吹毛常に磨し」じゃ。ここの処が少林窟の法の高い処じゃ。人がその境界を知って、時の縁に迫られて、その時に始めて出て来て、人のため法のために粘着している癖を解き、自我の束縛を取り去ってやる。こうでなくちゃ。
じゃから、境界を得て、そこまでやってよ、本当に持つものも何も無くなって始めて、時節因縁に迫られて、初めて人のために、その粘着を解き、縛を解いてやらにゃいけないと。
「内に亦恥じなく、自然に綽々として余裕有るなり」
これは、昭和七年五月二十六日とあるね。七十才のお年でしたか。ここで書かれたものかな。六年から八年まで時には帰られたけれども、ずっと下の勝運寺で静養され執筆されてた。私等を指導する目的もあってね。本当に有難かったね。
ここから帰られて、直にあちこちの禅会で無理されたんだな。�文老師も体を損なわれて・・・ね。
それからまた倒れられてしもうた。そうした時があった。私へ書き残してくれた師の気持ちは、大法を頼むぞということじゃ。分るね。
この法語は一隻眼具せん者には解らないのよ。一隻眼具してから、これみたいに、胡きたらば胡現じ、漢来たらば漢現じとあるでしょう。一隻眼上での修行よ。一隻眼で、それを法として皆がやってるだろう。ちょっと現在悟ったと言えば、その程度で人に法を説くでしょうが。それが間違うてるんよ。それすらの人もほとんどいないじゃないか。ね。真実の人というのはそれほど昔から少ないのよ。
これから後、子細にね。そこから子細に参究し尽くさにゃ大成せんのじゃ。目前のものに軽結裹着せられずと、いいね。ここのところに反省せにゃならんもんがある。
引っ付くいうことがおかしいでしょうが。境そのものの、真理そのものには何も汚れたものや余分なものはないし、触るものも、拘るものもないんよ。それが、いちいちの目前に僅かでも裹着したら、まだ自分が尽くし切られてない清浄でないから引っ掛かるものがある、ということを反省せにゃいけんのよね。
一隻眼具した人にこれが必要なんよ。それでこれを私に送ったということはね、当時既に私が立派に気が付いて悟っとるがゆえに、�隠老師がこれを私に形見に置かれて最後を仕上げようとされたもんだね。
今日大成してだね、自分から偉そうげに出て人に説法せんでも、時縁に迫られ、時の縁にせまられて、こう私が出てきたところよね。
ちょうど私がこの意思に添っていると思うよ。自分からそれを分外として、特別の偉い者として自分がおらんでしょうが。当たり前の事よ。だから、私はひとつも自分は偉いと思わにゃね、人がつまらんとも思ってないのよ。
ただ知ってるが故に悟ったと言うだけよ。それを人が聖人として言えばそうよ。そしたら、凡夫は聖人でないかと言えばそうではない。そういう立派な種子を皆もってるんだから、やはりこれはこれから立派な聖人となる人じゃ。その種を提げてるんだから、道元禅師が言われてる「参学の道流」をね。じゃから尊んでおられるんだ。それは仏性を尊んでのことじゃ。
仏性を尊んではいいが、自分は偉いんじゃ、いうふうに思うたらいかんのよ。その性を知らん以上はやはり迷いから覚めていない凡夫じゃから。それで自我の無い世界ということをはっきりさせなきゃ境界にならん。ところが自分を運んで道理で知ったものはやはり道理の人で、真実に目覚めたものとは違う。そういう自分を運んでの知り方は迷いなんだから。じゃなくて、ただどこまでも、子細に参究していきよれば、自然に脱落するんだ。それを体得したものでなけりゃ駄目なのよ。
自己がない本当の事に気が付いても、それをもってるということが大きな病気なのじゃよ。「僅かに異念あれば」いうところがあるでしょう。そこで、恨みを、災いを起こすということですね。
希道方丈 法がかえって災いになると見ればいいですね。
大智老尼 そうそう。だから喋るということが大きな災いになるのよ。
希道方丈 はい!
大智老尼 わしが最後に気が付いたんがそこなんじゃ。法を偉そうげに皆に言うてあげよったもんだ。私もあんた以上に。今のあんたのは、ただ、自分が何物も無かったという上で出るのと、私のははっきりと自己の無いことを外境からせしめられた確証を握った上で喋っていた。ところが�隠老師が下の勝運寺へ来られて、くるっと私を換えてくれた。即今底のみへ工夫させ、本当に只やるようにしてくれたんじゃ。それで自分が非なることを知って、私が命をかけてやった時に、喋るということの大きな仇を知ったんよ。喋る物も無いのに喋るんだから大変なことでしょう。これを皆知らんのじゃ。大成した時、これじゃ許されん訳だ、本物ではなかったということが判明した。師匠がこれを教えようとしていた事が本当に分り、正師の有難さ、尊さに感謝した。お前もここをよくよく弁えて、喋ることを慎むんだよ。
喋る物も無い真理に向ってじゃ、偉そうげに喋るという事は、法をたてて喋ることになる。それだけ我見がある。じゃからここに言うてあるでしょう、「分外とするな」と言うこと。法は特別なことではない、皆の、今の真相じゃからだ。
そのままじゃないか。只食う。ね、それじゃから気が付いても、付かんでも只食えばその線に添っている事は分るね。
即今底しかない。その真相を体得するのが修行でしょう。
だから、只食うというところへ中心をおかにゃいけないんだ。ね、老師が年とられて、私が何時どうなっても安心なように、お前が一生懸命にやらねば。やればなれるんよ。その線に添うて努力さえすれば・・・。
ただ、凡情に負けたらいかん。自分の一番強い癖、例えば名利の念が強けりゃ、強いものに引き摺られないようにね。自分の病気じゃ思うて、人が出なさい言われても出ないのが偉いんじゃ。
大梅かな、四十年山を下らなかったが、時の王さんが引っ張り出すでしょう。そうしたら出て行ったでしょうが。それを、彼の知り合の人がね「ばかやろう」言うて怒ったわい。「名利のしっ尾を出した」言うて。それだから、高位高官の人からもてはやされるのはいい事じゃないのよ。
わしらそういう気持ちは更にないな。わしが偉いんでも何でもない。当たり前の事を、当たり前に、飯を食う時には、只食うとるだけでしょう。皆のは考えとかなんとか、理屈で物事を扱うね。そこにはあらゆる魔が入り込む道があるが、私のは入れ言うたって無理だよ。何にも無いからね。この真理を、真空妙有とも如是の法とも言うとるね。只の世界じゃ。
私は表現方法が悪い。巧く言えいうてもそいつは無理だわい。率直面が法じゃ。そりゃ、娑婆面から、こうあれ、ああれ、と言う。それは娑婆を主体の批判でしょう。娑婆の人間でないし娑婆事じゃない。ここは。
だから、それらで私を是非する資格はないのよ。わしはお前たちが是非するから、ふんふん言うては居るがね。意に介しては居らんのじゃ。
私が、「慎んで気を付けます」言うてみてもそんなことは問題ないんだ。それくらい見識があるんよ道は。まあ、まあ、公言はしないけどね。
それじゃが俗人の目から見て、道の人をとやかく言うのは困ったもんだ。しかも、�隠老師が悟ったと証明してる人をじゃ。だいたい凡情の人からとやかく批判されても、このわしには聊かも痛痒を感じんのよ。特別わしが偉いんでもなけりゃ、当たり前なんじゃもの。
これが障道なんよ。道をさまたげる因縁じゃ。自分の精神を問題にしないで、皆娑婆の批判をして、こうじゃ、ああじゃ言うでしょう。でも、わしらには本当すまないけど、蚊が刺した、そういう感じもせんのじゃ。すみません。はっはっはっ!
希道方丈 はっはっはっ、よく分りました。
大智老尼 いや、本当なんよ、これは。冗談でもわしがお前の立場を活かすから、ふんふん、言うてもやるだけのことでね。
じゃから、私の境界と言うか、私の踏むことを批判して、「考えて言え、考えて言え」言うけれども、わしにはそんな、そういう必要がないんよ。本当に。
そんなことを考える余地の無い世界を練ってきて、今更それを考えろ言うて、そりゃ事によったらね、考慮せにゃならんものもあるが、彼等から指図を受けた上の線には乗らんよ。
大体、言い方が良いとか悪いとか言うても、そりゃその人その人の個性が欠陥であり、また華でありじゃ。だから見る人に依るし又時による。じゃったら、善悪と言うものは、時に依り処に依って起こるじゃろ。そのもの自体は、つまり本来は善悪を超越していることを知ればいいんだ。
希道方丈 あの、考える言うのも法なんですか?
大智老尼 そうそう、道なんだよ。それじゃから、どうころんでも道なんだから、是非の付ける場所が無いのよ。速くこれをお前に分ってくれることを希望するんだ。そうすると、この私がそのまま分るんだよ。そうせんと、お前はね、うるさい男じゃからね。はっはっはっ。
希道方丈 あいすいません、はっはっはっは。
大智老尼 いや、本当なんよ。それでお前自身が楽になるんよ。人が楽になるんじゃないんよ。すぐ落ちそうになるんだ。お前が、娑婆に。
希道方丈 はい!
大智老尼 だから、速く寺を落ち着けてしもうたらね、あんたを専念させてやりたいと思う。専念させるいうことは、用事をささんという意味じゃない。自分が思うように用事の上にたって、ただ単にやれるようにすりゃよかろう。どうあっても、あんた自身の願心が強かったらいいんよ。環境を恨む必要はない。仕事自体が法なんだから、だったらどうすりゃ。
希道方丈 どうする必要も無い。工夫に考えはいらない。ただ、縁のみ。
大智老尼 そうそう。即今底、任せ切ればいい。皆それを考えてやるから、正法から脱線するだけ。思慮分別の線に添うてとやかく言うのは、お前の学問がそう思わしめるんよ。だからそれらの学問が、この修行に意味をなさんというのじゃ。本当よ。それで永嘉が「絶学無為の閑道人」と言うたろうが。
ね、だから学がないことが不自由ということはない。ただ説法の上において、綾模様が下手ということだけだ。むしろ法が端的なだけ、真剣な学人には分りやすいし修行が楽なんじゃ。
一指頭は指一本を一生使い切れなかった言うじゃないか。そう言う主旨で私はこれからも行くよ。お前も願わくばそうあって欲しいな。はっはっはっはっ。
希道方丈 はい。
大智老尼 ね、お前も心身ともに、速く元気にしてやりたいんよ私は。法のために、。お前に法が無かったら、私は取り合わんわ。はっはっはっはっ。
希道方丈 はい。
大智老尼 本当じゃよ。ここを見てごらん。まあ、大体読める。それがね、字の親しみが沸いてきたからね。えんぴつでカナがつけてあるが今目が悪い性で、はっきり見えんのよ。こういう法語はね、後日学人の気の付いた人が、これを見てやらにゃいけんのじゃ。要するに悟後の修行を大切にすること。
自分から言うたり、速よ乗り出そう、乗り出そうとするのは、もう法に背いている。
私は仕方なしに出るだけじゃ。時縁に迫られただけで、私は師匠もいいし、道そのものを踏んできたに思うとる。
私が言うことはきついとか、きつうないとか言うのは、お前が感じる上でそう批判するんだからね。他の者は一つもきついとは言わん。私等は他人でも道に背いた時には、ぴしゃっと言うて上げるからね。
だから、私と話をする時は怖いと言うけれども、そこに気を付けてもろうたらと思うもんだから、はっと、そう出るんだよ。本当言うたらそれだけですわ。大法を思うだけの事なんだ。
従ってお前は私を是非しちゃいかんのじゃ。そうせんと次第に累を及ぼすから。会下の者は徹底随喜して、絶対間違い無いと信じた上でいかにゃ嘘なんよ。
そうしないと空気というものがね、今度はそこから線がずれてくるんだな。お前に言うのにも、考えて言わにゃならんじゃろう。そういうことになったら、それだけ隔てがでるんでな。
怒られても、殴られても、そこに何にもなかったら、それぎりでしょうが。それでいかなきゃ、法の弟子は。本当よ。
そのくらい老師もお前に法があればこそ可愛がりもし、私もそうだしね。お前に法が無かったら、お前は世の廃物じゃ。はっはっはっはっはっ。
希道方丈 廃物はひどいですね、はっはっはっ。
大智老尼 いや、今は性根がぎこちないでしょう。ね、好く者は好く、嫌う者は嫌うようになるんだよね。そこで、道そのものから自分の光明を出さにゃいけない。そうすると、お前は柔軟な僧になるわい。構えがなくなるから。
今、お前には大きな構えがあるんだよ。
希道方丈 まだありますか。
大智老尼 ややもすると出てくるのう。中立にたって批判するということは、まだ構えの一つじゃ。
希道方丈 はい。
大智老尼 そうじゃろうがね。こしらえたんじゃない、事実そうだろうが。はっはっはっ。
希道方丈 はい、はっはっはっ。だから、どうしても本当に我が取れ尽くされんと、中庸を幾ら言葉にしてみても、皆それが中庸という片輪ものなんですね。
大智老尼 そう、片輪ものなのよ。「有をやれば有に没し、無をやれば無に堕す」言うてね、捕らわれているから有無共に非なりじゃ。そしたら中庸とは何をか指す。どうじゃ。即今底以外に何がある。本来からすると即今ということも言えないんだ。ここが分るでしょう。
希道方丈 はい、よく。
大智老尼 ここに書いてあるぞ。「人の爐鞴に入って鉗鎚を受くる」と。ロハイと言うのは何じゃな、真っ赤な鈩やフイゴで、とても寄りつけない厳しい処かな。そうそう、思い出したよ。そのような厳しい人の鉗鎚を受けることは、より以上の世界に生まれることが出来る、ね。そうして、「本色の道流を分外となさず」と。この様に本当の道に生まれ出ても、特別のこととはしない、「分外となさず」と。
これは悟後の修行の大成した上で、それで「忽爾として」、コツジということは理屈なしにじゃ。自然の時縁に迫られて、そして、人のためにせにゃならん時に、縛を解き、粘を解いてやると。ここじゃよ。これが真実の人なんじゃ。
これはいいよ。これをこうしといたらね、皆のためになるんじゃ。これをやらなんだら、少林窟の宗風はだめになるんじゃ、いいね。何処にも無いんだから責任重大だぞ。
お前は大きな物に引っ掛かる。引っ掛かるところに大きな器になる線として、お前を大きく評価するんよ。
けどもそれをいい事にしちゃいかん。あんたを人にあまり偉そうなことを言わしてやるよりは、その時間を、只管を馬鹿になってやらしめたいと思うんだから、あんた自身もね、少林窟の宗風に添うてやらなきゃ。少林窟にいるハミ(蝮)みたいなもんじゃね。はっはっはっはっ。
もう、そうなると、獅子身中の虫になるでしょうが。毒へびになってくれたんじゃ・・・心外じゃ、本当よ。
希道方丈 はい。有難うございました。
大智老尼 はい、はい。
昭和四〇年(一九六五・六三才)頃か