参禅の記 渚のかおり 西谷 治

目次

自分はとても嫌な性格

現在の職場に入社して、初めて自分のすぐそばで坐禅という言葉を聞かされたのです。私には坐禅なんて何だかさっぱり分かりませんし、関係ない事だったので理解しようと思ったことが只の一度もありませんでした。

一昨年七月の中ごろ、社長から「坐禅をしてみないか?」と勧められました。私は訳の分からない坐禅などしなくたって、いつも心は正しいし何の迷いも無かったので社長に、「坐禅とは何ですか、私にどんな関係が有るんですか、何でしなければならないんですか!」と食ってかかりました。社長は、「そんな気持ちなら坐禅をしても駄目だ。」との一言でその話は終わりました。

それから一年がたちました。
一九八五年六月二七日、私は社長に首根っこを掴まえられた猫のように、とうとう社長の師匠であられる海蔵寺の井上先生の前に連れて行かれました。先生はとても優しく大らかに私を迎えて下さいました。それから先生と奥様と社長と私の四人は、奥様の御馳走で一杯始り、色々大切なお話がなされたようでした。私には分からない部分がとても多く、「関係ないや」とふてくされ気分で聞いていました。

ところが、社長が私を大まかに分析して先生に話されるのに、自分自身をそのように考えてもみなかった言葉が次々に出てきて、私は只驚くばかりでした。その内に社長にとってそんな自分だったのかと感じ始めると、とても恥ずかしくなり居ても立っても居られませんでした。

いい具合にタバコが無くなり、買いに出てその場から逃出すことが出来たのです。この時ばかりは本当にほっとしたのです。自分が思っていた自分ではなく、ずっとずっと惨めで情けない評価をされていた自分を、嫌と言うほど知らされた時の驚きは、恥ずかしいと言う程度どころではありませんでした。

私にはよくある事ですが、買いに行く時と買って帰る時の気持ちが全然違うのです。行く時とは逆に御寺への帰りは上りばかりです。しかも門までの二十メートル位は可なり急な斜面なのですが、その事が全然意識なしに帰っていました。とても安らいだ気持ちになり、この時、坐禅させられる事にかなりあきらめか決心が付いた様に思いました。

帰るなりすぐに先生に話しました。
今とても安らいでいる状態と、そう成った心の流れを話しますと、御二人はニコニコされて何の批評もなく総て無視されているかのようでした。この時はそう思っていたのですが、大きく自分が開けた時、この事は全くそうでは無かったことを知ったのです。
本当は、このような僅かな心の変化でも明確につかんでいた事、又その根本に迫ろうとした事、これらの事がとても大切であり、正しかった事を認めて下さっていたのです。でもこの様な深い見方をされていたなんて分かろう筈もありませんでした。

とにかく話の内容はとてもレベルが高く、総て立派でした。その内に言葉のはしはしにつられて、「自分自身とは一体何物なのか?」とか知らん間に内面に向かってそう考えるようになっていたのです。でも、これといった解答になるようなものは何も有りませんでした。その代わり、「自分は我が侭で、身勝手で、口から出放題の事を言って。・・・・」と成って来たのです。
反省はぐんぐん広がり、何か言い知れない悔いが始り、心の中がとても熱くなる自分を感じ出したのです。

社長のくそったれと深い愛

入社の時、私は会社の為に社長の下で一生懸命働き盛り上げることを誓ったのですが、一年経ってみると店は赤字でした。自分が一番正しいと思っていましたので、社長を初め社員全員に対し、言いたい放題、所かまわずやっていました。
それのみならず行動も無責任で、他人の事など考えず、自分だけのために遣っていたように思えて来たのです。その事に全然気が付きませんでした。
恐ろしいことに、時には面と向かって、
「社長のくそったれ!」
とも言ったりしたのです。そんな時、社長よりこっぴどく叱られました。とうとう社長は、
「今まで自分がしてきた事、口にしてきた事、それらの事がどんなに他の人達に迷惑をかけて来たか計り知れんのだ! 人間として今こそ君はそれら総てに対して反省し心から詫びろ!」
と言われたのです。それでもその時はまだピンとこなかったのです。社長はとうとう、
「お前はこの侭では駄目になるし、他の人をも駄目にする、だからどうしても治してもらう、そのために坐禅をさせる!」
と何だか分からないままに至上命令が下ってしまいました。
「今日仕事が終りしだい支度をして来い! 私と縁を切るか、坐禅をするか、二つに一つ、どちらでも選べ! これが君の運命の別れ道だ!」
と脅迫され、半ば社長よりサジを投げられました。そこまで私は社長の心を苦しめていたのか! 深い反省と自己嫌悪とが心をよぎり、一瞬猛烈なわびしさに襲われたのです。
「えい! もうこうなってしまったらマナ板の鯉だ! 何とでもしゃーがれ!」とやけくそ気味ながら社長の底知れない熱意に身を任そうと思って家内に支度を頼みました。
この世で一番私を良く知っている筈である家内も、当然ながら俄かに「坐禅をする」と言い出したことを本気にしてはくれませんでした。荷物を受取りなから社長より、「二つに一つを選べ」と言われたことを伝え、一日か二日で帰ってくることを約束して出たのです。

途中同僚に、「嫌ならすぐに帰ってくる、タクシー代も持っているから心配ない、俺は給料が欲しいだけだ、これも金の内だから行ってくる。」と言って気楽に本店のある忠海の社長宅へ出向いたのです。間もなく帰って来られた社長に連れられて海蔵寺へ上ってしまったというわけです。

先生はこんな私に、
「同じ坐禅をするのであれば、正しく本真剣にやってみなさい。大きな本当の自分に気がつき救われますよ。一生を美しく心安らかに、しかも深い自信を与えてくれる大きく大切な道の有ることが分かります。」
と言ったさわりから次第に話は入って行きました。社長は何時の間にか禅堂に行かれ、私は先生の前で相当緊張してしまいました。先生はいよいよ一生懸命話して下さるのでした。

「坐禅は社長の為とか会社の為とか自分の為とかにするのではない。ただ真実の為、それが道であるから只道の為にするだけです。自分自身が既に真実そのものですよ。道そのものですよ。分かりますか?
これが分からないから、知らずして自分を粗末にするし自分を信じ切ることが出来ないのです。
本来本当に価値ある自分であることを自分で確かめて、初めて本当に納得し安心するのです。ここにおいてようやく本当の信念が定まるのです。
自分で自分が分からないと言うことは、心が波立ち、拡散し、感情や思いに振り回されて居て、本来の自分の心を誰も知らないのです。ここが総ての間違いの元なのです。
ですから何をさて置いても、先ず心を深く静め、波立ちや拡散や身勝手な思いを止めねば本来の自分の様子は見えぬ。・・・・」

聞いたことのないお話なのに何となく分かりました。とても良く分かることと、全く分からない事と・・・・正直なところ私には遠いお話でした。

「自我は安易な方へ安易な方へ、楽な方へ楽な方へと流れ、努力することや苦心することや我慢しなければならないことからは逃れようとする指向性、つまり癖を持っている。
これが心を三毒にし煩悩にし凡夫にしておる迷いの元と思えば良い。戦争もここから起こる、最も恐ろしいやつじゃ。今日では個性とか権利とかで、それら総てを人間性として認めている。しかしそうすればする程ルールが必要となる。
何となれば各人皆それぞれ自分に都合の良い利得と主義主張を正当な権利としているため、人と人と相反することがしばしば生ずるし、個人との争いごとから国と国との争いごとにまで成ってしまうからだ。
どこかが狂っていませんか?
これでは正しいとは言えないでしょう。
あなたは何時も自分が正しいと言っていましたが、正しいとは一体何ですか?
正しいと決める貴方は、より正しい存在なのですか?
自分で正しいと何故決められるのですか?
そうして来たのでしょう。
何故答えられないのですか?」

自分は何て愚かな気持ちで一方的に振る舞って来たのだろうかと、ひどく惨めになり嫌になってしまいました。社長はこんな私を何とかしてやろうと脅迫してまでここへ連れて来てくれたのです。その事にやっと気がついた時「社長のクソッタレ」から深い大きな温もりを感じ始めたのです。

でも私が何で坐禅のような苦しくて訳の分からない事をさせられるのか、と言う不満な気持ちはまだまだ消え去ってはいませんでした。そのくせ心の奥底では「何かがある、人生にとってとても大切なもの、普通では得る事が出来ない大きな何かがある、自分さえ素直になって導かれればそれを得られるかも知れない。」という期待さえ在るのに・・・・

坐禅の心得を聞く

私は坐禅が何であるかさっぱり知りませんでした。聞いたこともないし考えた事もありませんでした。又興味も無かったのです。だから只々先生の言葉に耳を傾けるばかりでした。

「坐禅は只坐禅なのだ。それが総てなのです。坐禅は坐禅であること、この事が真理なのだ。本来そうだから迷うことも出来ないし、それ以上悟ることも出来ない。一杯一杯真理丸出しの世界なのだ。今既に全体それである。本来である。
坐禅が坐禅をする。元より自分などは無い。只坐禅ばかりに成り切った時、自己を離れ本来の坐禅であることを自覚させられる。明らかに自己無き証がここに立つ。その証を悟りと言う。
仏の世界が明確に成った様子である。これが仏法よ。これが仏性よ。無我の当体よ。
坐禅の目的は坐禅よ。坐禅の結果も坐禅よ。
始めからそれ以外に求めるべきものも無いし、それ以外に求めて得るものも無いのじゃ。そのもの以外の他に向かって目的を持つこと、それ自体が我見であり、無いものを追い求めるのだから迷いよ。
だから坐禅ばかりに成って我を忘れ、本来を現成せしめ、仏法を正受するのが修行の本旨である。
修証一如の体得じゃ。菩提を究尽するの修証なり、と道元禅師様も申された。
だから先ず心を静め、拡散を収め、無色透明純粋自然な心であれば、この事がそうだと具現されて確固たる確信が起きる。
その事以外、今以外、自分以外の他に向かって求めるものは何も無かったと、自分の無限性に気付き、本当に安心が確立される。
それ以上の世界が無いから他を羨んだり、比較したりの意識対象に成らないのだ。この人を宇宙大の人と言う。これが仏の世界である。ネハンである。救いであり光明である。今の真相であり本来である。
既にその世界である。仏法成らぬ物は無く、仏性成らぬ物は無い。
だのに何が本来を乱し、何が真理を暗くし、何が今を不明にしているかと言えば、一瞬に機能しつつある見聞覚知に知らん間にすぐ取りつく心の癖、この癖が総ての迷いの根源なのだ。これを一口に我見と言う。
つまり我見を取れば良いのだ。取るとはその物に成り切ると言うことだ。成り切るとは本来に帰る、大自然に目覚めると言うことなのだ。そのための修行である。
でなければ坐禅した価値がない。人間の迷いを破る仏法に成らんからだ。
心は一瞬が問題なのだ。すぐに取りつく心の癖を破るためには癖の起こる今一瞬に着眼しなければならない。
今一瞬の世界が本来であり根源である。だから自我の見を以った一瞬を、ひとまず誤り或いは迷いとして、自我の無い本来とを区別しなければ修行のポイントがずれてしまう。従って自我を根本的に退け取合わない工夫をするのだ。
本来の一瞬、自我のない一瞬で在るべく着眼し努力すれば、それが根源であるから必ず突き当たって大きく自覚すべき一大事因縁があるのだ。
従って、一瞬の事実を見過ごして他に向かって何かをしたら、永遠に心を解決つけることは出来ないのだ。
とにかく理屈抜きに今の一瞬に切込むが良い。修行は行である。実行である。それがその物である。本来である。
坐禅が只坐禅である如く、呼吸は只呼吸である。
只坐禅すれば良い。只一呼吸になればよい。一呼吸に徹すれば良い。我を忘れて吸う一瞬に成れば良い。吐く一瞬に徹すれば良い。
たったこれだけの事に我を忘れて本当に精魂の総てを懸けてやるのだ。
要は理屈や我見の入る余地を与えぬよう一心不乱に努力することだ。この努力心が自我を破り本来に目覚めさせてくれるのだ。
本当の大自然が現成し、見聞覚知のままに身も心も元々汚れのない、迷いのない妙智力で在った事に気付くのは努力の結果であり、迷いの元が破れてしまうので、一先ずここを悟りと言う。
ここに於いて本来とすべき何者も無い事に体達する。
無繩自縛から解説するが故に、自在の人と成り、この人を仏と言い、覚者と言い、無為の道人と言う。」

とにかく大変な事を聞いてしまったのです。自分にこんなとてつもない事が出来る訳がない。

だのにそれを得よと先生は言われるのか!
そのための坐禅だと言うのか! 冗談じゃない!
自分にはそんな大それた目的どころか、忽ちここにさえ居たくないのだ!
この先生とてつもない事を言う坊主だ!

ところが先生の途方も無い立派な網をかけられてしまって、もう逃げられぬと決定的に覚悟してしまったのです。
そして私の中にほんの少し説法が残っていたのです。それは、

「坐禅は本当の今になり、我を忘れること。」
「今、一瞬の一息をあれこれ思わず一心不乱にやる。」
「事実ばかりになって、あれこれ思うスキ間のないよう真剣にやる。」
「本当に今ばかりになって我を忘れ切ったら途方も無い世界が開ける。」

このことは大変な教えだったのですが、この時には分かろう筈もありませんでした。そして又、

「痛くなったら足を組み替えなさい。どうしても眠くなってしまったら、ただ眠りなさい。いかなる姿勢であろうとも今を離さぬよう、思いに遊ばぬよう常に一息に居りなさい。
足が痛くなったら歩きなさい。歩くときはただ一歩、あれこれ思う余地を与えぬように、ただ歩きなさい。歩くばかりになってくると必ず自己の無いことが分かってきます。」

本当にそんなことが出来るのだろうか?
頭の中はぐるぐるいっぱいでした。おおよそ一時間ぐらいでしょうか、社長が禅堂より出て来られました。先生が社長の顔を見るなり、
「おお! 小積さん、調子が戻りましたね!」と言われたのですが、私には何の事やらさっぱり分かりませんでした。ただ社長は別人のように成って、全く存在感がありませんでした。先生が、
「西谷さんは、もう坐るだけです。」と言われますと、社長は、
「では。」と言って、自分が大切にされている剣道着と袴を出して、着かたもなにも知らない私に着せてくれました。そして、
「西谷君、ただ先生の言われるままに命懸けで坐禅してくれ、頼む。君と今度会うのが楽しみだ!」
と言って帰宅されました。これからが私の「地獄」の始まりでした。

どうしても本気になれない

坐禅堂に連れてゆかれました。十畳ぐらいの何だかうすきみ悪い御堂でした。
「ここには朝夕近所の人が御参りに来られるから、失礼の無いようにして気を取られないように今のみになって堂々と坐りなさい。」又
「他の禅堂では作法を喧しく言う。しかしここは作法より心眼を開くことに最重点を重いているので、ここのやり方は他では一切通用しないからそのつもりで。
ともかくまず自分が根本より救われる方法を獲得しなければ、いくら形が出来ても何の力にもならないぞ。
それより今じゃ! 努力あるのみ! ボダイシン、ボダイシン!」
と言ってほんの簡単な坐禅の仕方を指示されただけで引き上げられたのです。もう夜十一時は過ぎていました。その夜は仕事の疲れが出てすぐに眠りました。

朝六時、起きるや否や、なにはともあれ坐禅なるものをしてみるかと、昨夜教わった通りに坐り込みました。何しろ先生は、
「顔を洗うなんて、そんな余分な事をしていたらなかなか心が収まらぬ。アカぐらい付いていても死にはせん。一刻も速くきちんと出来るようになるためにも、外の事は総て忘れて一瞬を守れ。私の許可なしに外に何もするな!」
それは死ぬことはないが、洗ったからってどうという事は無いと思うのに・・・・
それより何より坐禅だと言うのです。先生自身師匠よりそう言われ、三ケ月顔も洗わずお風呂にも入らずひたすら坐禅したのだそうです。
「一週間ぐらいが何だ!」と申し渡されるとそれまででした。ですから三日間顔も洗わずに坐禅することになるのです。
お風呂? とんでもない! 思いも許されない事だ!

「一呼吸に成り切れ!」といったって、つぎつぎに切れ目なく雑念が出てきて、いつの間にかとんでもない事を考えている始末です。ただの一息の数秒すらも見守り切る事が出来ないのです。
「えーい、俺みたいなものにこんなことが出来るものか!」などとイライラし始めた頃、先生がいきなり入って来られたのです。朝の御勤めだったのです。きちっと袈裟衣を着けられ近寄りがたいお姿でした。びっくりして手を付いてご挨拶すると、
「そのまま坐禅を続けなさい。お経の声をただ聞きなさい。」と言って読経されるのです。何とも気の充実したお経の声でした。そして終って、私があたかもそこには居ないかのように去って行かれました。それ以後も、心は一向に静まりません。

その内どこかのチャイムが鳴り、時計を見ると七時、「もう仕入れに出掛けたな・・・・今日もあの魚がたくさん出ているだろう・・・・今日はどれくらいで競り落とされるかな・・・・どれくらい仕入れたかな・・・・あいつは又あの並べ方をするのだろう・・・・どうもあれは気に入らん。」などなど、会社の事から家庭の事から何もかも思いが重なるように出てくるのです。

「今を見失うから雑念に心を取られる。雑念を捨てて今に返れ!」と教えられて居ても、その雑念に気が付くのもいいかげんたってからなのです。

「一瞬を離すな!」なんて、その一瞬すら何が何やら分からないのです。守りようが無いのです。雑念に気が付いたらとにかく呼吸に戻るようにすることしか出来ないのです。「戻る、と言うのは拡散している心を、呼吸に注ぎ注意をそこに止まらせる、ばらばらにさせない。」と言うことです。それもほんのつかの間・・・・。
やれやれ、この先どうなるのか。それを思うと一層イライラしてくるのです。

奥様より朝の食事が届けられました。針のむしろから解放された思いでした。
「食べる時はただ食べなさい。箸に成り切り、一噛み一噛みの事実を徹底見逃さないように一心に食べなさい。」と言われていましたが、頭の中はごちゃごちゃで集中するどころではなく、ゆっくり食ベることすら出来ず、家庭の食事とほとんど変りのないまま終わってしまったのです。
終わってしまうと、「やれやれ、又坐禅か・・・・」といった気の乗らない自分でした。
「坐禅中は目を半眼にしておきなさい。」と言われていましたが、色々珍しい物が見えるので、それらの一つ一つに気を取られ心が拡散して、その雑念の整理のために忙しく苦しいので、どうしても目を閉じてしまう。

すると今度はイメージがまぶたをスクリーンにして次々に放映し続けるのです。
払っても打ち消しても、頭を振ってぬぐい去っても寸暇なく出て、私を思いの中に連れだしてしまい、全く坐禅にも呼吸にもならないのです。

半眼も出来ず閉じ切りも出来ず、眼を開けたり閉じたり又聞けたり、そのうちに目を開けたままイメージを見る始末です。本当に人間の構造って一体どんなに成っているのだろうか?
実際、自分がこんなに取り留めもない、自分が自分にならない不思議な存在だとは思ってもいませんでした。

こんな不安定、不確かなままでどうしてまともに人生が過ごせるのか、過ごせると思うことの方が既におかしい(狂っている)のです。今本当にそう思えてならないのです。とにかく記憶や思考で、幾ら立派な思い方を作りあげ、言葉の組み立てをして立派な理屈を口にしたとしても、自分自身の中身がこれでは、結局「自分の確かなるもの」がどこにも無いので、そのことは自分自身には何の役にも力にもならないと思うのです。

最近少々おかしいと思える人が増えて居るような気がします。早くから勉強という形で自然な本人の理解を越えた理屈を詰込むと、早くから不安を抱き、根底の不安定さ不確かさを培ってしまうから、こんなになってしまうのではないかと思うのです。ですからおかしく成って当たり前だという気がします。そんな育ち方をしてきたら、正常であり続けることは有り得ないとさえ思うのです。

私はつまるところ、一息すらもできない不誠実な人間であり、自分が分からない不明確な人間なのです。悲しいけれどもそのことがよく分かりました。だったらそれを治すべく、先生の言われる通り「今の本当の事実、理屈の無い一呼吸のまま、雑念無く純粋に成ること」に達したらいいし、そのための努力をもっともっとすべきだと思うのですが、それが本気になれないのです。本当に私は困った嫌な性格をしているのです。

余分なあれこれを思って居るうちに、仕事の疲れが出てか、度々畳に横たわって眠るのです。先生は「疲れたら眠りなさい、起きたら坐禅しなさい。」と非常に自由にさせて下さるので、望んでもいない坐禅はそこそこにして、気楽に眠るのです。しかし、
「これではいけない! せっかくだから一生懸命やらねば!」と心の片すみでは叫んでいるのです。
でも本当に私にとっては坐禅は大変な事で、坐っているだけなのに大変疲れるのです。眠りから覚めると、いつも物思いに耽って沖の鳥々を眺め、「速く一週間が終わらないかな」と、坐禅の丸反対をしている始末です。

和尚死ね!

小便をしたくなったので禅堂から出て本堂に入った途端、
「幽霊のような足が地に付いていない歩き方をするな!
自分を本当に何とかしようと努力していない証拠だ!
一歩、ただ一歩、本気になって本当に歩きなさい!」

そう言われるや、先生自身立って歩いて見せてくれました。静かに、ゆっくり、着実に、そして何者をも寄せつけない厳しい一歩一歩でした。それしかないギリギリの真剣さに見えて、私は全身不動金縛りに合ったようになりました。自分とあまりにも違いすぎたからです。
「そんなに真剣に歩くのか!」と思いましたが、何となく歩くことにそんなに真剣になるなんてと、バカらしく思うところもあって、「坐禅など自分の性に合わん、えらいところへ連れて来られたものだ!」と思い出すと空しくなり腹が立ち、そして悲しくなり、トイレから帰って横になり天井を見ている目から涙が流れ出て来てどうしようもないのです。

そんなところへ又先生が現れるのです。私の涙を見て、
「どうしたのだ?」と聞かれるので、
「早く家に帰りたい、その為には和尚が死ねばいい。和尚死ね!」

苦痛から起こる色々な思いで錯乱し、遂に先生に向かってそのように言ってしまったのです。そしてその後も、
「和尚死にやがれ!」と二、三度口走ったのです。この時先土は顔色一つ変えることなく、私の涙を手で拭かれて、
「今ようやく一枚のカベにまで達しそれが落ちようとしている。辛いだろう。どうしても自分の心の汚れは自分でしか取れないのだ。一心不乱にやりなさいよ。」と言い残されて出て行かれたのです。

発狂寸前

それからたまらなく自分が惨めになり、腹立ちより悔しさより一層哀れになり悲しくなって男泣きに泣けて来るのです。泣きじゃくりの数時間でした。社長も「男泣きに泣いた。」と言っていましたが、やはり自分もそうでした。
とうとう奥様が私の為に道の為にと出して下さった夕食はただの一口もノドを通りませんでした。
「地獄じゃ、地獄じゃ。」と社長が言われていたことが、今こうして我が身に起ころうとは思ってもいなかったし、形のない心の中にこのような地獄が堂々と宿っていたなんて誰も思わないのではないだろうか。

その夜は、もう逃げて帰ろうと次第に苦しみを増していく自分に耐えられなくなって何度もその支度をしたのですが、完全に錠が掛かっていて、どうしても外に出ることが出来ないのです。
だって何時も開けて沖を眺めているし、錠は中から掛けるのですからそのような事は有り得ないのですが、帰ることが許されないという観念が暗示に働いていたのでしょう。

苦痛ばかりでなく、相当の不安から恐怖に達してしまい、気が狂いそうになって来たのです。この事も社長から聞いていました。あれは嘘ではない本当だったのです。
その様に思い込むもの総てが、自分の勝手な空想によるものでありましょう。心の中は、こうした思い込みや連想がほとんどで、「それらによって宙づりされている思いが自分」だと思っているだけなのです。でもこの時は思いに絡み付かれて、自分がそうなっているのですからそのように抜け出てみる事など出来ることではありません。

こうした思いによって生ずる不安や恐怖なのですから、とにかく先生の教えの通り、「今を守ること、一息になり切ることに全力を注いで、他の念が起らない程努力」すれば、それらで自分を苦しめる事はなかったのです。

うつろに三日月の朝を向えました。雨でした。夜中に発狂してとんでもない事をしでかしはしないだろうかという不安があったので、朝何事も無かったことにほっとしたのです。
どうあっても坐禅は良く組みました。それはしなければならないものと覚悟し決心していましたから。でも先生の言われるように、「一息のみ」にとても成れません。「思いが思いを誘う」のです。
理屈のあれこれと感情の部分とが巧妙に私を不安にし乱すのです。そのくせ本当に坐禅に打込む気迫は出て来ない、まことにやっかいな性格をしているために一向に前進していかなかったのです。
そしてそれが私に取って最も苦しい時だったのです。

自分にもやれそう

昼も近くなった頃、トイレに行くべく禅堂を出ました。本堂に入ると先生がこちらを見ているので全身の毛が一ペんに逆立ち、(何も言われなければ良いが・・・・)と先生の質問を悪魔のささやきのごとく、是非とも避けたいのです。
「西谷君!」やっぱり来ました。
「一歩が本当に歩ければもう占めたものですよ! 本当とは真実と言うことですよ! 余念無く邪念無く、純粋にしてあるがままを言うのだ!
歩く時は歩くばかり! それを歩くと言い只管(しかん)歩行と言う! だから雑念の入る余地がなく一心不乱になり切って歩けば良い!」

何となく分かったような、そうでないような、と、
「わかりましたか!」、語気を強くして確認を求められ、
「さぁ! 分かっただろう! 本当に歩いてみよ!」と命じられたのです。
私は足がすくんで歩けず、泣きわめく事もできず、頭がパンク状態になっていったのです。何をどうしてよいのやら、歩こうにも足をどうしてよいのやら困ってしまいました。

先生は静かに、
「ゆっくり確かに一歩を前に出してみよ。」と言われるままにしますと更に、
「次の一歩」、と指示があり、そのまま「次ぎ、次ぎ」、と誘導されて歩を進めることが出来たのです。自分が自分でないような、歩いていながら歩いていないような、とにかく体が軽くなり心につっかかっていた自己暗示的なものが瞬時にして消えたのです。

「薄い氷の上を歩くように細心の注意を払ってゆっくりと、明らかに、余念を入れず、今たった一歩だけ歩けば良い。それを熟させると本当に一歩そのものに成り切れる。」と修行の要点を教えてくれたのです。初めて、
「これは自分にもやれる。やらねば損だ!」と急に努力心が湧き出したのです。トイレの事はすっかり忘れてすぐに禅堂に引き返し、たった今感じ取った、
「今、一歩、純粋、理屈抜き、有りのまま、成り切る。」を、
「一歩だけ、単純にただ歩く、本当に歩く、雑念のない自己、それが今」と理解し、その為に一歩だけを守って歩き回り、歩き続けたのです。
しかしすぐ心は雑念と合体し何処かへ行ってしまうのです。

「これはいけない! 一生懸命努力しても取り留めもない[今]を何とかしなければ!」と、やや本気に思えるようになってきたのです。
先生は、
「雑念を無視して一切取り合うな!」と言われますが、そんな事今出来る訳が無い。気が付いた時にはもう雑念の中なのだから。
本当に煩悩というくわせ者は、こんなにも私を撹乱し続け迷わし続けるのです。
この上どうすれば自分のしている事、現実の今に静かに居ることが出来るのだろうか。折角やる気が出ても、このままでは一向にラチがあかないし、それでなくてもほとほと参っているのです。

これ何ぞ

夕方突然に激しいタイコが鳴り出したのです。先生や奥様が私の心を乱すためにわざとやっているのかと思ったくらい迷惑な音なのです。後で知らされたのですが、忠海の勇壮な祇園祭りのタイコの練習が始まったのでした。
迷惑なタイコの音に乗じてドンドンと先生の足音がして入って来られました。外はなお雨でした。
先生はいきなり、
「耳に聞こえて来る音は何だ!」何と答えれば良いか分からないまま、
「聞こえているのは雨の音です。」と言うと、
「もう一度耳を澄ませて聞いてみよ。」
私は指示の通り耳を澄まし[なんだろうか?]と考えました。やはり雨の音でした。
「雨の音です。」と言いますと、先生はいとも事なげに、
「違う、余分な気持ちを捨てて耳に入って来る音だけを素直に本当に聞きなさい。」
私は妙に心が静まって行くのを覚えました。心をより落着け理屈を入れず素直に聴いてみました。音は、[ピチャピチャ、ザーザー]。タイコは止んでいたのです。小さな声で、
「ピチャピチャ」とつぶやくように、今耳に有る音をそのまま出しました。
先生は、
「もっと確信を持ってはっきり!」私はとっさに大声で、
「ザーザー!」と言うと、
「その通り!」と言われるや、すぐに一本の指を突き立てられて、
「これ何ぞ!」と切込まれました。とっさに、
「指です。」と答えますと、
「違う!」指は指でしかない筈だ! 何故だ!
「イチです。」
「違う!」
と言われて先生は立てた指をさっと私の鼻先まで近づけたのです。まるで抜き身の刀を付きつけられたようでした。途端に考えそのものが止ってしまったように感じられました。そして言葉の中から答えを求めている事がとても小さく狭い世界のように感じられました。
先生の鋭く突き立てられている指の存在があまりにも大きく、その前に自分が完全に押しつぶされたようでもありました。その時、
「さあ言え!」
と言って更に詰め寄られました。先生の指がほんの一、二センチ近づいた位だと思うのですが、私は後にひっくり返る程の力で詰め寄られたのです。もう殆ど言葉を失い、言葉の世界で答えようなどと思う気持ちは消えて有りませんでした。
先生の涼しげで鋭く大きな目が私に絶体絶命を言い渡しました。

「言葉を離れ、事実真実そのもの自体で答えてみよ! ぐすぐずするな!」と、われ鐘のように耳元で鳴った瞬間、自分の頭の中から自分がコロンと転がり出たのです。

途端に先生が何を教えようとしているのかと言う、最も大切な第一要点がパッと見えたのです。
私はちゅうちょなく、先生と同じように一本の指を「かっ」と立てていました。
それが「何の理由によって」と言う言葉の意味合いなど全く必要なく、まるで鏡のように反射的でした。
とても胸が軽くなり、何か一つ大きな引っ掛かりが消え、とても楽に成りました。
しかし、何と言っても強制的にこんな薄気味悪い所へ連れて来られ、大変辛く空しいことをさせられていることに対して、「何故私がこんな目に合わねば成らんのか!」と言う気持ちがあって、それを思い出すたびにひどく恨みがましい憤りが、私を妙にすねさせひねくれさせるのです。本当にいやな性格をしている私なのです。
でも、何だか今はそんな自分が可笑しくなり、滑稽にさえ思えて来て少しゆとりのようなものが出て来た感じがするのです。
先生と同じように指を立てた瞬間、そんな私を見た先生の顔に少し微笑が見られました。怖いはずの先生が別に何ともない安らいだ心で、堂々と目を見る事が出来る自分にびっくりしました。
「不思議だ!」
そんな変りように気がついて嬉しくなりました。
リンと立てた指に全神経があり、その他何も無いのです。その時、そこから何やら自信のような力が湧いて来たのです。とても安らかな自信でした。

こともあろうに、思わず先生の鼻先に向って立てた指をさっと押出していました。
先生は目を輝かせて、そして静かに指を下ろされました。
私も思わず下ろしました。何の気持ちもなく、ただ先生の動作につられてそうしたのです。ところがとても落着き、妙に安らいだ心地に成っていたのです。

「これはこれでしかないことがようやく分るようになったろう。」と言いながら先程のように指を立てて上下して見せるのです。立てた指を上下させて、それが頭の外のものであることを教え、私を頭の外へ連れ出そうとしているのでした。そして又、

「あれこれ詮索し、理屈を取り留めなく巡らせるから、空想の世界と現実の世界との区別がつかんのだ、つまり現実が分からないのだ。
事実そのものが今だということが分からないから心の治まる世界が無いのだ。・・・・
常に心が拡散し虚像を創り、それでもって見聞覚知しているから本当の現実が何たるか全く分からない、真実から離れて総てを迷いの世界にしてしまっているのだ。その根本が我見だ。
それを取るのが修行である。ただ見聞覚知のみになるのだ。
つまり大自然に帰る、真実に復帰する道が坐禅修行なのだよ。」

良く分からないながら、一つ事を言っている、その一つ事の重大性が強烈に響くのでした。完全に分からなくても、
「理屈の外、頭の外、事実だけ、迷いの無い今、有るがまま、超自己、理解や分別以前の事」という坐禅の方向と方法の一部が分ったのです。

その時、急に又例のタイコが鳴り出しました。うって変わって心地よい音に成っていました。
不思議だ!
同じタイコなのに。又大小速い遅いのリズムが大変見事なのです。さっき迷惑に感じた自分、そして今! あの音がとても心地よいのです。そのことはこう思うのです。
「心の安らぎや素直さがないと感情が乱れ、それに振り回され好き嫌いの自己中心になっていた。」
と言うことが分ったのです。

「あの音は何ぞや!」と突然聞かれました。私は小さな声で、
「トン、トン」と言いますと、
「違う! 良く聞いてみなさい!」正しいはずなのに・・・・「タイコの音です」とつい以前の私なら言ってしまうでしょうし普通そうとしか思えないからです。頭の中で理屈や言葉で音を聞いているからです。
その事が大変大きな間違いをしていることに気がついた今、「頭の外の事実の音トン、トン、でタイコ、タイコと音が有るのでは無い」ことを先程教えられてようやく分かっていたのです。
ですから「トン、トン」で良い筈なのたが、と思い改めて頭を空っぽにして、静かに耳に任せてみました。
はっ! と気がつきました。違っていたのです。
「トン、トン」でなく、明らかに「ドン! ドン!」と強烈な音だったのです。改めて、
「ドン! ドン!」と言うと、先生はまた又、
「違う! 音自体に成ってみよ!」と言われたかと思うと、
「ドンドコ! ドンドコ! ドッテン! ドッテン! ドン!」と本当に鳴っている通りにリズムを取り、大声でタイコに成って鳴ってみせたかと思うや否や、
「ピシャ!」
と先生の平手が私の顔面に飛んで来ました。したたかな力でした。「何とか言わねば」と思っていたある部分が破れたように思いました。先生は間髪入れず、
「あの音は何だ!」と早急な尋ねかたをされたのです。とっさに私は、
「トンドコ! ドンドコ! ドッテン! ドッテン! ドン!」
とタイコそのものに成っていたのです。「ドンドン」と答えていたものと、今自分がタイコに成ったものとでは内容が全然違うのです。

それは、「トントンもドンドンも音の事実を頭で理解していたし、分かった知識の上で言葉でこたえていた」のです。そういった手続きが無くなってみると、いきなり自然のあるがままに成っていたのです。
自分とか、分かるとかの判断が全く邪魔をしていて、真実の今が分からなく成っていたのです。
今とは、そんなややっこしい面倒なことの一切ない世界だったのです。乗って走っていた電車が停まった時のように、自分でも分からない不安定だったものがずっしり静まってしまったのです。

「心は常に今のみに作用して、過去にも未来にも拘わらない。過去だとか未来だとか有るように思うのは人間だけであり、計らいであり、迷いの根本であり苦しみの始まりである。
過去を思い未来を思ったにせよ、思っている事実の今は、やはり今そのものでしかない。
だから本当に今に目ざめさえすれば正に自由自在なのだ。
結局、今と過去の境を付けることであり、この事は同時に、自我の世界と仏の世界との境を付けることであり修行の課題なのだ。」
と先生のご教示があり、嘘のように良く分かるのです。結局「今を離さぬこと、思いに遊ばないこと、ただやる。」そう決心したのです。

ところがその夜、嬉しがった為か心が焦りのような乱れでどうも一呼吸が定まらないので、禅堂を何時間も歩いたのです。
「一歩だけ。」初めはそう注意し雑念の余地を与えないように歩いたのです。そうしなければ心が治らないのです。
次第に一生懸命になっていました。先生の言葉を思いだし、
「歩く今、既に歩いている今、ただ歩くばかりだ。」

ただ歩いていました。やっと先刻の静けさが戻ったのです。実に嬉しくすがすがしくあの安らぎを得たのです。

掃除と惨悔

四日目の朝が来ました。すぐに坐禅しました。
雑念がとても良く出て来るのですがもう迷いませんでした。それは、
「雑念を何とかしてやろう」とか、「どうすれば良いのか?」などという迷いがないからです。出ても知らん顔をして呼吸だけをしておれるようになっていたからです。
とにかく「出た雑念は放って置くしかない」のです。
雑念に振り回される間はそんなことは出来っこないのです。
つまり「初めからは到底雑念を無視して転がして置くことは出来ない」のです。放って置く力が備ってないから出たらすぐに執りつき、次々に思いを転がして何処かへ行ってしまうからです。

雑念に振り回されないということが、こんなにも平和で安らかで解放された自由な世界だなんて、心の安らぎがそのまま喜びになっているのです。
とにかく、何としてもがむしゃらに一呼吸に集中し、今の一点にいるように努力するしかないのです。この事を一貫して実行すれば、先ず落ち着きが深まり、雑念を放置する道が開けるのです。
心地良く朝食を終えたところへ先生が来られました。持って来たホウキとバケツを置かれ、
「掃除をしてみなさい。その後で顔を洗いなさい。」
その時初めて行動を許されたのです。私は嬉しくなりました。
先生は、
「拭き掃除はこうしてするのだ!」
と言われるや、廊下に伏せって雑巾無しの雑巾がけを実演して見せてくれたのです。極めてゆっくり、確実に、全身で・・・・
「成る程、成り切ってただ一心不乱」にやるのだなと思ったのです。
突然、
「今私は何回拭いたか?」と予期しない事を問われました。
「五、六回です。」と答えると、
「違う!」と言われるや、
「ただ見ておるのじゃ!」
と言って再び手本を示されるのです。本当に隙のない激しい動きに、私は何時の間にか我を忘れて見ていました。左右に動く先生の手にただ成っていました。瞬間の手は、何の動きも有りませんでした。何か言い知れない大きなものにぶち当たり、何だか益々目の前が明るくなったような気がしたのです。
先生は立上がって、そして又同じ質問を繰り返されました。

「今何回拭いたか?」
「一回です!」と答えました。全く不思議なことに「当然だ」という自信が湧いて来たのです。
「そうじゃ!」と歯切れの良い合格点を戴いたのです。
常に今しか無いし、今本当に有るのは一拭きしか無いということを教えられたのです。この当たり前の事が、今までどうしても分からなかったのです。結局自分自身が当たり前でなく、一方では頭の中だけで色々に考えて言葉だけで分かったつもりに成っていただけたと言うことがいよいよはっきりして来たのです。

今は深く静まり良く透き通っているのですが、ほんの少しのスキ間からたちまち大波が出現するという、今の心の薄さ弱さをいやという程咋日知らされていましたから、実に用心深くホーキを握りました。そして「ホーキになれば良いのだ」ということも分っていましたから、何も思わずそして何もせず「ただ一掃き。」

かつて感じたことのない体の軽さ、以前からいうと丸で自分の体では無いのです。総て無抵抗なのです。スイスイと掃いて、終わっているのです。

それから雑巾がけをしました。雑巾の感触、水の新鮮な感触、ハッと驚きました。何故かいきなり心の奥底に伝わりました。とてつもなくその事が大きく絶対だったのです。簡単に言えばそれしかなかったのです。今まで自分のしている事が、自分と離れていたと思うのです。自分を自分で無視していたのです。

こんな素晴らしい出会いがあったとは!
今まで自分を粗末に扱って来た自分が悲しくなりました。そして何とも今の総てが有難く尊く感じられ、拭いている内にはらはらと涙が溢れて来てどう仕様も有りませんでした。過去の罪深さにおののき、すぐに心からざん悔が始まりました。不思議なことにそれが「許したまえ」ではなかったのです。すると社長の顔が浮かんで来ました。飛んで行って土下座してお詫びしたい程申し訳なく思い、一掃きしながら深く深くお詫びしたのです。
涙は益々出るばかりで、見えるのは雑巾ばかりでした。社長の下に帰ったら、今度は社長の心に成れる、成って全力投球しよう。それが私の罪滅ぼしだと思ったのです。(実際この海蔵寺より会社に帰って、初めて社長の顔を見た時は、自然に涙が溢れ泣くばかりでした。小積社長の途方もない純粋さと熱意がこの上なく尊くて有難く、そして自分の罪のお詫びからでした。
「社長の気持ちも知らないで・・・・社長は悔しかったでしょうね・・・・悲しかったでしょうね」
社長はそんな私をひとしお喜んで下さいました。)

すると今度は社長を押し退けるようにして先生が現れたのです。その筈です。事もあろうに、自分は先生を二度も三度も殺したのです。どうお詫びしたら良いのか何も分からず、そのまま先生の居られる方に向って額を廊下につけ、深く深くざん悔したのです。せずにはおられなかったのです。

(後になって、これこれで辛かった時、自分は先生を殺したのだと社長に打ち明けたところ、社長は先生奥様各先輩同僚の前で、「先生を殺すなんて、西谷君! お前ぐらいのもんじゃ! わっはっはっはっはっ! ね、先生! しかしこれから先、何度殺されるか分かりませんから気を付けて下さい。わっはっはっはっ!」
一瞬心臓が止まる程びっくりしました。すぐ横に居られた先生に、
「誠に申し訳ない事を致しました。」と言って合掌致しましたら、一同大爆笑と成ったのです。その時、さすがにこの道に進んでいる方は違うと感じたのです。実に爽やかで拘わりなく、意識が美しくて高いからです。)

掃除を終え、このお寺に来て初めての洗顔をすませた時、何故一切何もさせずに、ひたすらに坐禅ばかりさせたのかがはっきり分かりました。一時も早く、そして確実に今のこの心境、心の目を得させようとされたからに外なりません。

自分のしている本当の事実。そのままでおれる為には、今までのあの中心のない軽薄な動きを途中で加えてしまうと、焚き火の着きかけを突くようなもので、消えてしまう率が極めて高いからです。

先生は「千分の一秒をも見逃さず今を守れ」と言われるのですが、今はともかく、当初そんなとてつもないことなど絶対できないのです。一息の時間、ほんの二秒か三秒の時間に心の嵐は山も海もゆさぶってしまうし、「それから逃げる方法も鎮める方法も持たない者には、その方法を得るまで行動を起こさぬ方が安全で早道」なのだということが分かったのです。

教えられるままに素直に従って、今こうして、ただ自然な洗顔、確かな洗顔が出来るのです。自分のこの洗顔の様子、誰が分かってくれるのだろうか。

心の師

適切な教えに従って、昨日から自分の心の中に長く潜んでいた私の最も美しい私が引き出されて来つつあることがとても良く分かるのです。

一方長く長くそう思い込んでいた嫌な自分、ずるく一面的で、自分が気に入らなかったらたちまち不機嫌になり、排他的となり時には攻撃的になってしまう。よくすねて、ひねくれて、知らない間に人を差別して・・・・
そんな非人間性が刻々と消えつつあるのです。この事は特別に性格改造をしようと努力をしているのでは全くないのです。だから自分自身が不思議に思えて仕方がないのです。こんな自分に出会ったことがなかったから・・・・思い込みとは実に恐ろしい事だ。

ともあれ先生によるご指導が総てである、と思うのです。しかし素直に言われるままに修行する本人は矢張り私自身でしか無いと思うのです。そして更に素直に、更に深く信じるのも、決して先生から戴けるものではなく、どこまでもどこまでも私自身のものだと思うのです。
進歩向上や到達点も皆私自身のその範囲以内のものだと思うのです。
これは単に坐禅ばかりでなく、総てに言える事だと思うのですが、こと自分の心となると、その方法にほんの少しのずれやあいまいさが有ったら決して解決を付けることは出来ないと思うのです。この道に関しては「正しい指導者なしではどんなに優れた人でもとても無理」だと思うのです。
社長がよく、
「人生の師を持つことがどんなに大切であるか、その事によってどんなに救われ幸せであるか」と口癖のように我々社員に話してくれた事が、ようやく昨日より分かり始めたのです。

とにかく師の指示どうりに「すき無く今に徹してやる、一呼吸に徹する、一歩に成り切る、二十四時間ぶっとうしで努力する」と、自然に雑念が収るのです。
そして「自然に心のもつれが無くなり、重苦しさが消え、心も身も嘘のように軽くなる」のです。それだけでなく、目の前が急にはっきりし、自分がとてもよく見えるのです。
先生は、
「その結果が心を豊かにし、自信とゆとりに成るのだ。」と言われました。本当にその通りで、嫌な自分は太陽の出現と同時に消えていました。深い安らぎと感謝、ちょっぴり不思議な心地に包まれていました。

三八九とカンパイ

久しぶりの動きが嬉しくて、それ以上に身も心も軽くなり晴れやかになった自分が嬉しくて、一日中掃除をして回ったのです。
夕方五時過ぎたころ先生が来られ、
「何もかも奇麗で気持ちがいいな!」
と言われ、坐禅をしていた私は心から嬉しくなりました。すると先生は、そんな私の前にどっかと座り込み、法話を始められました。昔の偉い禅僧の修行話でした。
祖師方の物凄い修行ぶりは到底私などの及ぶ所ではありませんでした。その代わり先生のお話を聞いて居るうちに、頭から湯気が出そうな程修行の熱が沸いて来て、拳に力が入るのです。最後に、ある高僧の母上の話でした。
禅師を尋ねて来る者は、先ず母上の関門を通らねばなりません。会う資格があるか無いかを試みるというものです。その母上は「三八九とは何か?」と尋ねるのです。それが分かるならば、禅師の話も理解することが出来るから会わせる、というのです。ここまで話されるや、先生はいきなり、
「君は禅師に会う資格があるかどうじゃ!」
と言われるや否や、私の胸ぐらを引っ掴み、
「三八九とは何か!」
と大声で、しかも今まで見たことも無い大きく鋭い目でにらみ据えるのです。不思議にも私は何の動揺もなく胸を張り、一息をしてキッパリと、
「三八九!」と答えたのです。
すると先生の顔が、ぱっと笑ったかのように見えた瞬間、先生の両手は私の両頬にピシャツと挟み打ちを食らわせ、
「親しく禅師に会えり!」と言われたのです。そして、
「西谷君、カンパイじゃ! ようやく山門まで到達した。これからが本修行だ。どの手にしても、とにかくここまで早く来なければ本当の修行に成らんのだよ。これからこれから! ボダイ心、ボダイ心!」

酒を深く愛する私は、今の努力心と心境が逃げる様な気がして少し心配になりました。
「私はお酒を頂くと心が乱れますから」と辞退しますと、先生はにこにこされ、
「いや、今の君なら少しのお酒なら何の災にもならんから、ただ飲みなさい。」と言うわけでカップ酒を一杯ずついただいたのです。
そのお酒は、社長に連れて来られる時、「訳の分からん坐禅をするのに酒でも飲まなきゃ出来るものか!」と秘そかに購入して来たものです。どうしたものかいち早く発見され、酒もたばこも取上げられて仏様の陰に仕舞われていたものです。思えば恥ずかしい事だらけでした。
この時のお酒は無上のものでした。
先生が少しのお酒ぐらい大丈夫と言われましたが、私は二合三合何ともないのです。それよりも先生のぼつぼつ話される法話を聞いていると、お酒どころではないのです。

ボダイ心は仏のお命

「ボダイ心こそ最も大切な仏の命なのだ。簡単に言えば仏の願望であり祈りである。
何ものにも増して法を重くし、本当に真理に目覚めようと努力することだ。
このボダイ心が無いと本当の法に目覚めることが出来ない。即ち、むさぼり、妬み、愚痴などの三毒は身口意の三業を縁にして生ずる。つまり自己自身にまつわり着いているということなのだ。
これを捨てると言うことは、自己を超越するということである。
自己を超越するということは、見聞覚知において一切が現成しておるので、一切を超越することなのだ。捨てるとは(引っ掛からない)ただの心だ。
ボダイ心は仏の家より発せられる、仏の願い心であり慈悲の根本じゃ。その人になる為には全身ボダイ心となり三毒と三業を一瞬の元に消滅し直ちに仏の家となし、生死のままに永遠なる生命を得なければ坐禅をした価値はないぞ。
ボダイ心が無いということは仏の願い心が無いと言うことであり、心の片隅に自己がひそんでいて三毒の魔が生きていると言うことになるのだ。
寝ても覚めても仏の家にて生活する為には、ただボダイ心一つ強く有れば良い。」

聞いている内に私は手を合わせていました。さらに先生は、

「三毒といっても三業といっても、今一瞬の心の出来事である。だから心を用いず[ただ]在る時、一切に拘わらないのだ。
その物から離れて念を起こしてしまうと因縁自体から離れ、事実の大自然から離れて自我の世界となり、忽ち三毒となり三業となり迷い苦しみの世界となるのだ。・・・・
己を虚[ゼロ]にして[ただ]あるならば仏の世界なのだ。だから修業とは、今、今、一歩一歩、一息一息に純粋になること、成り切って我を忘れること、ただ坐ることしかない。これが最良の方法であり正修行である。
仏の世界[家]に入り切った時、本当にその物に成り切った時、我見の根本[無明]が消滅して悉く仏の世界[ネハン]と現成するのだ。
ここの明快な区切り、つまりその確証が無ければ仏の法、即ち仏法では無い。
何となれば我見が根本的に中心をなして居るから、道としての「何物より大なる力」とは成らず、身口意の上で総てが模様され、根本的に自他相対し続けて無明の凡夫の侭であるからだ。三毒三業即ち自我がある限り必ず内に於いて問題を起こし、内から修羅と化して苦しみ迷う。先ず自我を超越した確証を得、真実と虚像との境えがはっきりするまで坐り込むことだ。
そこは[彼岸]であり、見聞覚知のままそのまま一切現成底で、他に何もない、からりとしたほどけた世界なので、仏の国でありネハンである。
そしてその人は煩悩よりほどけた人、仏とか覚者とか言う。
その大きく目覚めた大自覚を悟りと言う。脱落あるいは三昧の消息などと言葉は色々あるが心を明らかにした証しと思えば良い。
畢境、修行とはこの明確な証を得て仏法現成せしめ、大自在人となり真実の人となって、衆生済度のために活動して止まないのだ。
これが仏の慈悲であり我々のボダイ心である。
いかなる環境に有ろうとも、ボダイ心を失うことは真の禅者とは言われぬことなのだ。」

私独りのために余りにも勿体無いお話でした。心が深く透き通るばかりでなく、全身の毛穴が開いて汗びっしょりでした。
なんて清らかで偉大な世界なのだろうか!
腰は大地に根が生えたように、血肉は熱く、心は凍りつく程のすさまじさで、とうとう夜明けまで坐禅と経行[キンヒン]を続けたのです。

形容詞が付いておる

お話が終ってほとんど暗闇の中、先生は、
「足がいたたたた!」と言いながら立たれ、
「今の気持ちはどんなか?」と尋ねられました。
「はい! とてもすっきりしています! 明日はもっとスカッとなります!」と言うと、
「その言葉には多く形容詞が付いておる。その意味がわかるか!」
と言われびっくりしました。
そして闇の中で先生のあの目がぎらりと光って禅堂から出て行かれました。

言葉は既に形容でしかないと言うことはよく分かるようになりました。今の事実には余分なものであることがとても良く分かるのです。その又形容詞とは修行者にとって全く迷いの絵空事で有って修行に成ってないということを指摘されたのです。
分かっていても瞬間が抜けていると、つい癖のままに心が作用し、仏の家から忽ち転がり出てしまう自分なのです。さすが先生はそこを見逃さず深く指摘されたのです。
独自の修行で師から離れていると、ここのところできっと皆なつまづくだろうとおもうのです。
一瞬の隙の不明な動きを破る事は、とてもとても大変なことなのだと、つくづく自分の迷いの深さを知ったのです。
でも、やれない事は無い。総て今の出来事でしかないことが分かるからです。先生は、
「本来自分自身が既に今の存在者だから、自分の本来の存在自体の今に成り切れば良い。
今だけに成れば良い。」と言われ、私は何時の間にか強く強く先生の言葉通りそう思えるようになっていました。

このボダイ心の大切さ、自我をぶち切る力は良く分かるのですが、どのようにしたらボダイ心が持続出来るのだろうか? これが問題なのです。先生にもし尋ねたとしたら、
「それを続けるのがボダイ心なのだ!
常に努力する事がボダイ心なのだ!
努力してこそ向上がある。そんなことは当たり前ではないか!」。横っつらをピシャ! とやられている筈です。
本当に目標を定めたら、ひたすら求道する以外に方法は無いと思うのです。だからこそボダイ心が迷いを脱出させてくれる機関車であり推進力なのだと思うのです。

変人ではありませんよ

全身さえ渡り、これ幸いと懸命に坐禅をし経行しました。明け方うとうとして目が覚めた時は朝の五時でした。
昨日の朝とはうって変り、安らかに呼吸にただ居れるのです。雑念の出方もぐんと少なく弱いのです。出ても忽ち発見できるので、すぐに捨てる事が出来るのです。こんな事、とても考えられない大変なことです。
朝食後先生が竹ボーキを持って現れ、
「庭の掃き掃除をしてみなさい。」と言って置いていかれました。
何日ぶりかで外に出ました。妙な感じです。掃いているうちに急に心が乱れ始めたのです。これはいかんと思いすぐに禅堂に戻りました。
「何故だ!」分かりません。
こんな事ではいかんと思い、更に注意深く庭に降りました。一掃きを一心にやりました。何も特別な事ではないのです。
そこへ隣のおばあちゃんが現れ、私に何度も「お早ようございます。」と挨拶されるのです。四回も五回も同じ事を繰り返えされるのです。
自分は「今一心に一掃きする」事に総てをかけてやらねばならないのだ!
いわんや見知らぬ人と会話したら折角の心境が崩れてしまいそうな恐れから、「一掃きのみ!」。
私はただかたくなに一切をブチ切ってそれを遂行しようと決心していたのです。
自分の耳に、
「何で無視するんかなぁ。」と言っているのが聞こえました。私はそれ所ではありません。
すると奥様がおばあちゃんに、
「あの人は変人じゃありませんよ。ああして一心不乱に猛修行されているのですよ。尊いことです。立派な方です。邪魔しないようにしましょうね。」

少林窟道場に行く

掃き掃除が終ると先生が、
「タオルと下着を持って来なさい。」と言われて車にのりました。
「前をじっと見て、何を見てもただ見るだけだよ、心を用いて見てはいかんぞ!」その通りに出来ました。
一口で言うと「無心に見ているだけ」、それが出来るのです。
そして見るものが悉く新鮮で輝いていて、瞬間の世界、自分というもののない世界ということがとてもよく分るのです。

僅かの時間で大きなお寺に着きました。先生の生まれた所だそうです。その裏山にある[少林窟道場]に着きました。何とも風雅な小さな門をくぐり、お墓の前に進み丁寧にお参りされました。私も同じようにお参りしました。道場はトタン張りの粗末で小さなものでした。
すると先生は、
「西谷君、法は真実ということだ。誠ともいう。一つであって第二第三が無いのだ。
つまり比べるものが無いんだ。絶対ということになる。大きさで言うなら無限大だし時間で言うても無限だよ。全宇宙だ。だから生死に拘わらんのだよ。
誠を尽くすは道の人の日常じゃ。生きておられても死んでおられても一つことなんだ。だから生きて居られると同様にお仕えする力が無ければ駄目だよ。変らない心、つまりただ在る。
ただの世界こそ、老師や老尼歴代の祖師方が活として居られる所だ。」
深く静かな、本当の世捨て人でも居りそうに思っていたので、先生の言葉はよくこたえました。
やはり道の人は根本から違うと改めて恐れ入ったのです。
玄関に入られるや否や小声で「老師老尼ただ今帰りました。」と言って上がられました。先生のお師匠様がおられるのかと思うと一層緊張したのですが、そうではありませんでした。

各祖師方の写真が掲げられている仏間にても、丁寧に御挨拶されていました。私は心乱れ背筋が少し寒くなりました。

すぐに禅堂に入りここで初めて本格的な坐禅を教わりました。いきなり、
「身も心も忘れて、死んだ気で座りなさい!」と言ったかと思うと、右肩をパシッ! パシッ! パシッ! と三度したたか叩いて、そして何時の間にか出て行かれました。

なぜか先生に叩かれると、何もかも吹き飛び瞬間にすっきりするのです。言うまでもなくそれからの坐禅は最高でした。今なら眉一つ動かさず腹が切れるな、と思う程でした。
後で見ましたら、樫の木で出来た打つところが平らな[警策キョウサク]という仏具でした。

「西谷君、出て来なさい。」と呼ばれて、作法を知らない私は入った時と同じ事をして出ました。
「君も掃きなさい。」指示の侭にしました。
「西谷君、今の早さの十分の一の速度で掃きなさい。手元が浮ついていますぞ!」
そう言われてびっくりしました。
確かに何か切迫感のようなものが在って、静けさが固いのです。何もしてはいないのだし、ただしているのですから空気のように無抵抗に、ただ掃くだけであらねばならぬと思うのですが、知らぬ間に構えているのです。

手元が抜けていると言われたのは、「構えているだけその物と離れている」、ということだと思うのです。決して軽々しくしていたのではありません。ずっしりと念を入れていたのですが。

先生の言われた事は絶対ですから、すぐにゆっくり、とてもゆっくり掃こうとしたその時、気がついた事が有りました。それは、
「物に任せる、手に任せホーキに任せて自分を預け切る、我を忘れてただそれだけ。」
ということでした。
途端に坐禅の通りにサラッとやれたのです。同じ事を別方向から得た思いでした。
「今が大分深くなりましたね。今度は早く掃きなさい。急ぐ時は早くですぞ。」
即指示通りにやりました。ただホーキと一体に成って動くだけでした。さっきと同様に何事も無く、ホーキ自身が動作しているので驚きました。

本当にホーキしか無いのです。明らかにホーキに成っていました。私の目が即ホーキの目なのです。石や樹の根に掛かろうとすると、するりとホーキが避けて行くのです。
引っ掛かるとすぐに手が行くのです。
何故かその物の気持ちと言うか、意志が分かるので、ホーキが喜んでくれるように、決して無理な掃き方をしないのです。
すっぽりいたわりの気持ちで包んでいるのです。人に対するのと同じ一つ心でした。
私は言い知れない豊かな深い感動で、思わず手を止め、語る言葉もなく先生をじっと見ました。すると先生も手を止めて私を見て、

「何も無い今の事実に目覚めて来ると、自然に心が柔らかくおおらかになり、はっきりして来る。
その事がその侭今やっていることに素直にならせ同化させるのだ。
その時そのものが自分自身になり、身も心も離れ、何の手段も労せずして三業三毒の束縛を脱しているのだ。彼岸の心であり、いたわりの心美しい心のままに動作するから、自ずから総てを大切にするようになるのじゃ。・・・・」

どうすれば自分の心を分かって貰えるか、こんな心は人に伝えることは殆ど出来ない、と思っていたので、本当にびっくりしました。こんなに心の奥底深く見極められていたなんて思ってもいなかった事だったのです。
嬉しいのと恐ろしいのと有り難いのと・・・・
何だか総てに人格を感じ、生きとし生ける物の絶対性の前に、極めて慎み深く成った自分は、もう以前の自分ではないと自覚したのです。(この時は本当にそうでした。しかし、しみ込んだ癖はなかなか破れず、今もってこのようには成り切れません。)

掃き終り庭が奇麗になった時、
「御苦労様、風呂が沸いている筈だから一緒に入ろう。」と言われ、素直に入りました。修行者の私が入れて貰うのは勿体無い程、真新しく奇麗なお風呂でした。

何日振りかな? その時先生は、
「西谷君、今何禅をしているのじゃ?」
体をごしごし洗っている時の事でした。私は何の迷いも無く、今ただやっている事を全身で示しました。その事しか今は無かったのです。
先生はにこにこされ、

「禅は自分の今在る、その事以外の他に向かって求めると禅にならない。
常の生活総ての自分を今に集約して、常に今、その事に成り切る。そう努力しておれば自然に素直に成り自由に成ることがよく分かったろう。
素直になるということは、迷いの根源である身口意の三業、つまり自己を忘れ離れて行くことである。それは言い替えれば、即、[今にただ在る]、ということだ。
これを如法という。
如法に在ることを正修行というのじゃ。思い計らうことなく大自然のままにただ在る、つまり自己を離れると言うことは、身口意の三業を超越すると同時に三毒をも超越することなのだ。この迷いの無い世界をネハンというだけだ。
今、ただある、本当の今一瞬しかない。結局どのように言うても、今、今、我を忘れてただ在ると言うことが、総てを総括した修行なのだ。
本当の世界に生まれ切る為には、今に徹し切るよりほかに道は無い。又、正修行の方法が分かってもその通り努力しなければ得ることは出来ない。ボダイ心、ポダイ心。」

「今の君の心境は、今だけのものでしか無い。
時も変り縁も変る、するとすぐに波風が立ち心境も濁って、実際には力にならない小さな弱いものだ。しかし正路であり入り口に達したのだから迷わずに一筋にやれば必ず徹する時節が在るのだ。
要は強い願望と実行力、即ちボダイ心によるのみだ!」

と、私の背中を流して下さりながら又々大変な説法をしてくれたのです。
初めて見た少林窟道場は小さくて粗末で貧弱な感じがして仕方がなかったのですが、おシャカ様の暖かい血が流れている途方もなく大きくて立派な道場であることを知ったのです。そして改めて私は自分の運命の有り難さに感動したのです。
やるぞ!

祝杯

すがすがしく海蔵寺の禅堂に帰ると、社長が坐禅されていました。私を見るなり手を握り、
「西谷君! お目出とう! 辛かったろうが良く頑張ってくれたな!・・・・」

私は父親にも感じた事のないほどジンときて、色々聞いて貰いました。不思議にも何の懸念もなくつるつると、有りのままが口から出るのです。
話し終ってみると話した事が何にも無いのです。からっぽなのです。
「しっかり頑張りなさい!」
我が事のように喜び励ましてくださり、急ぎ帰られたのです。先生の知らせを聞かれて、あの忙しい中をわざわざ励ましにきてくれたのです。
その夜、快調に坐禅していますと、今まで耳にしたことのない声で先生が呼ばれました。本堂へ一歩足を踏み入れて驚きました。

先生御一家、社長、専務、広島より永岡さん、嵩さん、本田さん、平田さん、そして各同僚ずらり居並び、数々の御馳走飲み物をうち揃えて私を迎えて下さったのです。
社長が
「西谷君、本当にお目出とう! ところで君は本当に私のもとで仕事がしたいか?」
すっかり忘れていた最初の問題を思い出して、
「ハイ!」と答えました。
「よし、分かった! これから君の入門式だ。山門まで到達できたお祝だ。先生の横の席に早く座りなさい。」
ようやく先輩方の仲間入りができた事を誇りに思いました。それからは心行くまで御馳走になったのです。

この豪華なお祝いは先生、社長、先輩方のお心だったのです。永岡さんは私のためにわざわざ広島より来て下さったのだと聞き、この道の人の大きさ深さを改めて感じたのです。
社長は先生の一番弟子だったため、誰も何のお祝い事も無かったそうですが、その次からの永岡さん、十楽先生方と、ずっとこのようにお祝いされてきたのだそうです。

永岡さん本田さん平田さん方先輩とお会いするのは今が初めてなのですが、肝心な心が同じ世界に在るので、すっかり親しい仲間、分かりあえた友だったのには驚きました。
嬉しい事には、この場で村上店長が坐る事になり、先に希望していた友池さんが後になったようですが、やはり本格的に坐ることになりました。
ここで社長の口から先生を殺してしまった話が出たのです。

先生は幾度となく、私の今の心境の取るに足らないことを強調されるのですが、私に取っては三十七年間このかた、このような安らぎと静けさと尊さ美しさ新鮮さ・・・・まだまだあるのですが全く知らなかった素晴らしい世界なのです。
ただ努力がないと、血肉になっていないためにすぐに消えて、もとのもくあみになってしまうと言われているのです。

今は関係ないので、久しぶりに大いに飲むのですが幾ら頂いても酔わないのです。
「今日は酔わないでしょう!」と先輩方が、私にお酒を勧めながらさりげなく言われるのです。先輩方は何もかもお見通しなのです。

その夜は「今夜は西谷君と禅堂で眠ろう。」と言うわけで、先生も禅堂で休まれたのです。

実践は大変だ

明くる朝、
「今日は自由に修行してみなさい。」と言われ、早速小手調べに町へ出てみました。行くまでは良かったのですが、人と対し、会話を始めると具合が一変に悪くなり、いち早く禅堂に駆込みました。

午後更に気を充実させ、一歩だけで遂に我が社の本店に行くことが出来ました。自分乍ら上出来だと思ったくらいです。ところが同僚と話し、お供えの西瓜を買って帰り始めると、俄かに心が揺らぎ出してしまいました。

「一歩のみでない! 一心でない! 徹してない!」ということはとてもよく分かるのですが、たちまち何とかしようと思ってしまい、構えて力むのです。それも「ただ」では無いので宜しくない、その事が分かっていてもどうすることも出来ないまま、帰るや否や猛烈に坐禅しました。
「このまま世間に帰ったら大変だ!」、という気があったのです。
「実践は大変なことだ。余ほど今を深くしておかねば」と快調にただ坐っていた時、社長より電話で「明日から任務に就いてくれないか!」と要請がありました。先生は、
「おしいなぁー! これからなのに。まあ本当の修行方法が分かったのだから、世間の現場で実践の工夫をし、今ただ単々とやる力を練るのだ。今が逃げたら何時でも来て坐ればいいから」と言われました。

思えば、社長が私の余りにも欠点の多かった性格を治そうとして会社を休ませ、先生奥様に迷惑をかけ、その上それに掛かった費用を会社で負担してくれたのです。しっかりやらねばと思うだけです。そして職場で今を充実させようと決心したのです。
その夜坐禅と経行とで殆ど朝まででした。

いよいよ下山

予定より一日早い下山となりました。六日目の朝、すっかり片付けと掃除を終え、改めて一本の線香を立て、最後の坐禅をしました。

念が出ては消えて、それが意志や判断とは全く拘わりなく起こるところに、どんな素晴らしい教えや道理が在ったとしても、外から知識で持込んだものよりも心そのものを揺さぶるガンに依って破壊されている事を嫌という程知らされました。
そして又、静まり切っている内に、自分というものが自然に無くなってゆく、これこそ大自然の働きなのだろうか、などと今まで考えてみなかった事がしきりに頭に浮かぶのです。逆に、つまらんことが丸っきし出て来ないのです。
この侭だとどんなに素晴らしいことか。

精一杯のお礼御挨拶をして玄関を出ました。どうしても意を尽くせぬものに突き上げられ、それが何であるかに気がつきました。それは初めの数日間心から出して下さる食事を軽々しくそして粗末に扱って来たことが、今自分に責めとなって出て来たのです。

私は玄関の外から土下座をし、大地に額を付けて心の総てを捧げてお詫びをしたのです。こんなに[尊い食事! 一生大切にしよう、狂っても食べごとに不平を言わぬ]、と誓ったのです。(飲むほうは少しお許しを。)

即会社に向かいました。
とても不思議な楽さで車の運転が出来るのです。優しく車と一体に成っているのでした。何にも気を使わなくて、どうあれば最善かが分かり、それに任せ、手に任せているだけでした。坐禅を知らない人は[きっとボーッとしているのだよ。]と思うに違いありません。全く違うのです。
今刻々と変化している状況が素直にストレートに感知されて、その上で最良の取るべき方法に任せているので、どこかが無感覚に成っているのとは逆なのです。

社長に心からの微笑で迎えられた時、感謝と喜びの涙が流れ出て言葉になりませんでした。今、社長の心が手に取るように分かるのです。(ところが、今が曇ってきたと同時に社長の心も見えなくなり、自分が見えなくなってしまったのです。)

社長のお許しで床屋に行きました。髪を切断されるその一本一本が鮮明に分かるのです。どうしてなのかさっぱり分かりませんが、とにかく研ぎすまされた心の冴えからだと思うのです。本当に驚きました。社長にすぐに話しましたし先生にも電話で話しました。すると先生は、

「感覚と言うものは瞬間現成底で認識以前の出来事である。存在とも違う。五感の持つそれぞれの作用であり働きである。素晴らしいものだ。
ただ影も形も色も香もその瞬間感覚作用の現成するところで、感覚自体であり、他には何も無い。
自体の他に何もない瞬間ただそれを直接知る、ここが味わいの世界であり、体得の世界なのだ。幻の世ながら本当の世界だ。一般に見性と言う。
簡単に言えば、心が曇ったり汚れたり波立っているから、直接素直に有りのままの素晴らしさが伝わって来ないのだ。
別の言い方をするなら、雑物がその物とへだてを作っているからだ。
君はただそれのみに成っていたのだよ。だから極めて新鮮に深く味わえたのだ。」
と教えられたのです。

禅天魔になる

日一日と経つうちに、心は段々と曇って行き、波立ち始めて悲しいかなとうとうあの安らぎも静けさもすっかり無くなってしまいました。それだれならばまだ良いのですが、素晴らしいものを味わったために、失うまいとどうしてもあがいてしまうのです。
そして物にも人にも巨大な構えが在ってそれに毒されて行き、愚かなことに、「人のしていない努力をしてやっと高価なものを掴んだ」、という自分が在ってひどく偉そうに成って行ったのです。
そのために以前にも増して独善的となり、何時のまにか周りの人を馬鹿にしているのでした。

「これは大変な事に成ってしまった。以前よりも更に嫌な自分!」
毎日が辛く悲しく、その事が又くやしくて、何とかしなければと拳を握って力むと、顔はこわ張り涙と鼻水が流れ出て来るのです。実に苦しいのです。先生に、「ボダイ心を失うと即魔と成る。道を殺し人を傷付ける禅天魔の外道じゃ。」と幾度となく注意されていたのを思い出し、この事だったのかとボロボロになってようやく気が付きました。

社長は、
「西谷君、君は一体何の為に坐禅をしたのか。今そのままでいいじゃないか、それ以外の余分な事をあれこれ求めたり思ったりするから、人や物と対立し、その事でとにかく自分が苦しかろうが。人をも傷つけているんだぞ!
今在るがままに一心不乱にただやっとればいいんだ!」
親身に何度も教えてくれる社長の言葉に、私はようやく本来の自分を取り返すべく反省が出来るように成ったのです。法の素晴らしさと自分を失った苦しみ、坐禅に依って自分の状態がよく見えるだけに、そのはざまに立った辛い四ケ月が過ぎていました。

もう一度基本からだ

もう一度基本に帰ろう!
そう決心してさしむき坐禅が出来る近くのお寺を捜し求め、昼休みに晩にとそこで坐禅をさせてもらいました。少し落ち着いて来た時、
「よし、もう一度先生の海蔵寺で坐禅しよう!」、そう決心が付いたのです。
何だか決心が付いたとたんに身も心も軽くなり、もがきが取れて急に楽に成ったのです。

早朝三十分車を走らせると海蔵寺です。六時より七時までの一時間とにかく坐りました。二週間が過ぎた頃には、調子のいい時は完全に以前のあの状態にまで戻っていました。それが嬉しくて真冬の寒さも暗闇の孤独な坐禅も何ともありませんでした。

坐禅の後、何時も法話とお茶を頂くのですが、ある朝、未だお会いしたことのない[十楽先生の参禅記]を読んでくれたのです。
薄明かりの中で先生の朗読が進むに連れて、十楽先生の涙ぐましい努力に感動し、涙し、私をもう一歩奮い立たせてくれたのです。ここに仲間が居た。ライバルが居た。
それからというものは、今への執着が強くなり、次第に「何も無い今の念」でやれるように成って来たのです。
それだけ日常がひどく楽に成ったのです。日常の中で坐禅が実践出来るように成って来たのです。

価値観が変る

そんなある日、ある事に気が付いたのです。
それは一人一人持っている多くの素晴らしさでした。そして同時に自分の多くの欠点に気付き恥ずかしい気持ちに成っていたのです。それまでは人の欠点ばかりが目に付き、自分の長所と対比して二念にも三念にも成ってとても困っていたのです。
これが自分よがりの独善性にさせていたのだと気付きました。自分の欠点が良く見えれば見えるほど、人の長所がとても良くみえて来て、次第に尊敬へと変っているのです。

時を同じくして、家庭においてもひどく自分が好転しているのです。家内にも子供たちにも優しくなり、総てが思いやりで見れるのです。以前の現象面だけで、すぐ叱ったりこごとを言ったりすることがなくなりました。そんな事をしても、子供たちの為にならないし、第一皆を信頼していなかった父親としての無能さを悟ったのです。

それからというものは一変に家庭が落着き、明るく暖かくなったのです。そして無用な心配をしなくなったので自分自身がとても気楽なのです。

価値観は自分の視点が変るとまるっきり変って来るのですが、単なる価値観の変化と言うだけでは片付けられない、もっと深い質の変化が在るように思えるのです。
例えば、自分の任務観に就いても著しく変化したものがあるのです。いざ実際に全力投球しようとした時、自分で創意工夫していなければならない事には変りないのですが、より効率を目指したならば、より多くより優れたやり方、情報、指示を欲しだしたのです。当然直属の上司の経験や知識を貰うのが一番早道だし確かだと思うようになり、専務に総ての基本指示を請い、その通りに実行し始めたのです。そして中間での状況を報告し、分析評価して貰って是か否か、軌道修正の必要がある場合にはその指示を貰い即実行しました。又、仕事が終ったら直ちに報告して同様に私の分析評価の仕方も聞いて貫ったりしだしたのです。

以前の私はひたすら自分の経験を頼りにして、「人のやり方は人のやり方、だから気にすることはない」、と我見で以て小さくかたくなにやっていたのです。本当にお恥ずかしい限りでした。
お蔭様で総合管理能力が急速に備わり、結果も嬉しい数値になって来たのです。結果は勿論嬉しいことではあるのですが、初心で常に学習している自分になり得たことと、ただの一部分であっても経営者管理者的な大きな視野で仕事ができるので、その仕事の喜びを毎日味わっているということです。ただの任務とかお金のためにという気持ちでは全くないのです。
今私は秘かに、どの部分であろうともやっていけるという自信さえ味わっているのです。よき師、先生ばかりでなく優れた経営者、社長と専務同僚達にめぐまれたことが感謝となっているのです。

お釈迦様とは今に目覚めた人のこと

朝坐禅の後、例の座卓でお茶を頂いている時、
「よく乱れ、着眼を失うことも多くありますが、その他は少林窟道場や海蔵寺と全く同じに単々と只出来るようになりましたので本当に楽になりました。」と報告しました。途端に、
「この音を消してごらん。」といったかと思うと、
「カーァ、カーァ、カーァ」、と烏の鳴き真似をされたのです。勿論坐った直後、単そのものの時です。私には何も特別な事でも困難なことでもありませんでした。

音には「有るとか無いとかの理屈はない」ということも分かっていました。「消す」とは「音が有るのを無にする」と言う意味では無いのです。一切関係ないのです。このことも一瞬一瞬の厳然として前後に拘わっていないことを知ったことがきっかけで分かったのです。
音と離れていると、音があるとか音だとか色々に知恵を使い、認識し、思いの世界にしてしまうのです。
音そのものに成り切ったならば、それが有るとか無いとかの雑物の入るスキ間がなく、当然「音と思う」以前に瞬間、瞬間が終っているのです。
音とも思っている暇の無い、満身が音で、その外に音が無いのです。
この一体の世界を「消す」と表現されたのです。ですから明白な事実のみ、私はすぐに、
「カーァ、カーァ、カーァ。」
先生は表情一つかえず、

「これが分かったところで何の力にもならない、かくのごとくただ一体に成り切り成り切りただ在るように、どこまでも練るしかない。
三業を忘れ三毒を離れる、つまり我を忘れてただ在るだけだ。本当に只に成ったならば、見聞覚知意のままに消滅していることが分る。つまり空の体得である。
ひとまずはここを悟りと言う、そう成るために自己を早く空じなければならない。いや、一瞬一瞬、今、今、ただ、空の人体実験としてスキなくやるのだ。
空が空に出会って、自らへダテが取れた証しがいるのだ。ヘダテとはすぐに思いの世界にしてしまう心の癖だ。見聞覚知意にすぐ執り付く癖だ。
これが我見よ。迷いの元だ。これを破るのが仏道修行だ。それはネハン[仏、悟り]の世界と凡夫界との明析な境を体得することである。
この境をつけること、即ち夢から覚め、迷いから解放されたる今を体得することである。自我が破れた一大事件の証[明らかさ]がいるのだ。
言葉に取り付き、感情に取り付いて、念が転んで自縄自縛[不明故に執着]していた、その迷い苦しみの根本が抜け落ちてしまうが故に、大自然のあるべきようにただある。
宇宙大となり因縁のままにある。
生死も又囚縁に過ぎないが故に生死が無いのである。
見聞覚知意のままに、今すでに宇宙でありネハンである。今の真相である。
残された私の一点のけりが着いたなら、釈尊より第八十四代となり、西谷君が体得したら八十五代目となる。
そして宇宙大の大自信と大歓喜と大愛をもって道の為にただ活動する。
これを衆生済度と言う。
すべてをいつくしみ大切にし活かし、大安楽と大自在を得せしむベく指導していくのである。一切を救う為の修行であることを忘れてはならぬ。
そしてどうしてもその人にならねば人生の成功者とは言われぬのだ。・・・・」

静かで厳しい口調、そして内容のすごさにただ恐れ入るばかりでした。どこまでも先生の導かれるままに努力し続けるより外に自分の人生は無いようにさえ思えたのです。
実際今すでに、私を誘惑して離さぬ程のものは他に何も無いのです。人の面白いという遊び事をしてみても、それだけのことで何ということもないのです。
今は充実感を増し、自信が備り菩提心をかりたて、自分が解けて明らかになっていくことが一番のなぐさめであり喜びに感じているのです。

自分を導くのは自己しかない

毎朝五時過ぎに起き五時三十分に家を出て、六時に着いて一時間の坐禅、零度を下る寒さの中で一人だけの坐禅、辛いことも確かです。しかし先生の言われる通り着々と楽になり明らかになり軽くなり、自信が増して来ているのです。
心から「有り難い」と感謝が自然に出来るのです。家内や子供のほんの少しの好意や気づかいをもそのように感ずるのです。

今の私は、とにかく何もかも坐禅による向上だと思うのです。真実の坐禅をすれば誰もが確かに救われるという確信をもっています。
しかし、私は誰にも勧めないのです。勧められないのです。それは坐禅に取り組むその人の内容というか因縁に大差があって、却って大きな欠陥人間になってしまう場合もあり得るからです。

何故なら、折角先生の熱烈なご指導によって山門へたどり着くことが出来たとしても、「師から離れた瞬間からは自分自身による指導力が必要不可欠」であるからです。
師の元で苦心する何倍もの努力が必要なのです。
それが充分出来ないために、私はこうして毎朝師の元に通っているのです。もし私が社長に脅迫されるまでもなく、自発的に坐禅を始める程の高尚な人間でしたら、資質ももう少し上等ではなかったか、進歩も早いのではないか、などとも思ったりしたことがあります。
とにかく瞬間を常に道たらしめるということは並大抵の事ではないのです。

もしも、あの間に立たされ続けていたなら、私は禅を今以上に理屈で振り回し、上等人間面して人を欺まんし続け、もっと惨めな高慢人間になっていたに違いないのです。
今思えば、四ケ月間も苦しんでいたのが大変無駄をした悔恨の情に迫られるのです。結局社長のお陰で初心に戻ろうという決心が初めて湧き、今度は本気で自発的に師を求めて参禅し、ようやくここまでになれたのです。(なにしろ現在値が低いので、ようやくここまでです。)

正師にめぐり会うことが出来、ようやく山門に達したとしても、日常を禅にすることが出来るまでやらない限り、禅をしたことにならないと思うのです。

幸い、今は人が少々見えるので縁の薄い人、縁の遠い人、無論ない人には勧めないのです。願望のない人も努力心のない人も信ずる力のない人も皆同様です。出しおしみからではなく、それ程のものを本当に必要としているかどうか、つまり求めて努力するかどうかに依っているだけです。

社長のように強大な情熱と理想を持って居られる人だからこそ、全く縁の無い私を蘇らせてくれたのです。社長は大恩人です。しかし私には社長のような、そんな力はありませんので自発の人にだけ勧められるのです。
「坐禅をしさえすれば必ず救われ、人間が変り立派になると安意にはとても言えない」のです。
「たまには坐禅をして落着いてみよう、健康の為にしてみよう」という軽い願望でも大いにいいのです。それでしたら何処で坐禅しても目的は達せられるのです。
私が勧める坐禅は、私の師のもとで坐ることをいうのです。
実の付いた稲を与えられても、実を捨ててワラやモミしか必要としない人には実は無用なのです。逆に実を求めている人には絶対に実のついた稲が必要なのです。絶対に正師でなければいけないのです。その為の先生です。
でも坐禅をしている人も、そうでない人も、総て今にちゃんと居るという字宙の根本原理を少し知ったのです。知ってみると、やはり本当の自分、本当の今、本当の事実、本当の安らぎ等、汲み尽せない一瞬を、やはりすべての人に体得して欲しいと自分の願望を通して祈るのです。先生は、
「世界は先ず平和が根本だ。そのもとは心である。暖かさであり安らぎである。無我のこの道を通して本当の平和に寄与しなければならぬ。」
とよく口にされますが、全くそうであるし、すべての人が心の平和を体得し、真の安らぎを得て欲しい。
そうすれば、すべてが信頼と尊敬、感謝によって建設的に円満に治ると確信している私なのです。
毎日一匹の魚を売る、今一瞬の私の努力がその祈りでもあるのです。
合掌
昭和六十一年三月十五日 記


西谷治
昭和二十三年五月三日生
スーパー勤務
特別趣味なし
特別真面目でもなし一男一女の父

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